俺にはこの暗がりが心地よかった

星崎崑

【序章】俺にはこの暗がりが心地よかった

001 降臨の日、そして1000人の転移者

 俺にはこの暗がりが心地よかった。


 静寂と死が充満する迷宮に潜み、物言わぬ骸と化した探索者達から装備を剥ぎ闇市で売りさばけば、なんとか食べていくことができた。


 死と隣り合わせの羨道で、玄室で。

 俺は闇を身に纏い、今日もただ息を殺しうずくまっている。


 誰にも見られないように。

 誰からも注目を集めないように。


 そして。

 誰もが俺のことを忘れるように――


 ◇◆◆◆◇


『神』に選ばれた「生まれ」も「育ち」も「性別」も「年齢」も様々な地球人のうちの1000人が、剣と魔法のファンタジーが具現化した、こことは違う世界――『異世界』――へ旅立つ――


 その、今も続く、地球全体を巻き込んだ狂乱が始まったのは、高校生としての生活にもようやく慣れてきた六月のある朝のことだった。

 俺――黒瀬ヒカルにとっても、それは人生の転換期となる出来事――。

 いや、より正確には「事件」だった。


 全世界の「使用されていないすべてのディスプレイ」に、光のシルエットとしか言いようのない人影が突如浮かび上がり、告げたのだ。


『私は「神」である』と。


 そのとき俺は教室で、一限目の授業を受けている最中だった。

 教室の大型テレビに映り込んだソレに最初に気付いたのはクラスの女子生徒で、突然の悲鳴にクラス全員が驚いた次の瞬間、「神」の言葉がテレビの貧弱なスピーカーから鳴り響いたのだ。


『こんな形での降臨、さぞ驚いたことだろう。私は待っていた。君たち、愛しき我が子らが育つのを。その時が今、訪れたのだ』


 スッと心の内に染み入るような声音だった。

 男性のようにも女性のようにも聞こえた。年齢は声からでは掴めなかった。

 悲鳴を上げた女子生徒ですら、呆けた顔のまま固まっている。

 授業を行っていた教師は、悪戯か機械の故障を疑い、テレビのリモコンを操作したが「神」は消えず、テレビの電源を落としても同様だった。

 教師は、隣のクラスに様子を見に行ったが、どうやら隣のクラスも、そして誰かが取り出したスマホの画面にすら『神』は映し出されていた。


『私は君たちの中から1000人を選んだ。ほぼ無作為に、世界中の国、民族から抽出した。無論、男女の別はない。社会経験のあるもの、まだ少年といっていい者、老齢の者。様々だ』


 1000人と言ったことで、この現象がこの学校だけのものではないことが確定した。この学校の全校生徒は千人に満たないからだ。

 そうでなくても、世界中の国、民族と言っているくらいだ。文字通り、世界中でこの現象は起きているのだろう。現実味はないが、元々こんなことに現実味があるはずがない。退屈な授業中に居眠りをして夢でも見ているのではないかと疑ったほどだ。実際、自分の頬をつねって確認している生徒すらいた。


『その1000人には、こことは違う「もうひとつの世界」へと行ってもらう』


 神のその言葉に教室内がどよめく。

 もうひとつの世界。

 異世界ということか。


『もうひとつの世界とは、私が管轄するこことは別の世界――「異世界」だ。正確には「君たちの好みを反映させて作ったもう一つの世界」であると言い換えることができるだろうが』


 神のその言葉で、教室のざわめきはさらに大きくなった。

 だが俺はあまり盛り上がる気分にならなかった。

 冷静に考えて自分が選ばれる可能性も、この学校から誰かが選ばれる可能性も、宝くじで一等を当てるような確率だとすぐにわかったからだ。

 赤ん坊や老人は除外されるだろうが、地球人類は七十億いるのだ。

 1/700万。宝くじなら、1等あるいは2等を当てるほどの引きの強さがなければならない。さらに国や人種による振り分けがあるなら、人口比が高いほど不利になる。もはや、ゼロと言ってしまって差し支えのない確率だろう。

 日本人の高校生も、1人や2人は選ばれるのだろうし、俺自身も、剣や魔法の世界に全く興味がないわけでもないが――


『旅立った者達は、もうひとつの世界で好きなように生きてもらう。こちらからは要望も強要することもない。自由だ。ただ、自由の代償として当然死ぬことはある』


 例えば、勇者として魔王を倒せとか――そういう話ではないらしい。

 この「神」の狙いは全くわからないが、人知の及ばぬ存在のことを考えても仕方がないのかもしれない。


『もちろん、ただ旅立たせるつもりはない。生きる為に役立つ「ギフト」を私から贈らせてもらうつもりだ』


 気付けば、クラスの全員が神の言葉に魅入られるように、静かに耳を傾けていた。

 ちらと斜め前に座る幼馴染みを見ると、他のみなと同じように呆気にとられたような表情で、テレビ画面を凝視している。


『残された多数の者達にも楽しみを用意した。旅立った彼らの冒険をライブで……リアルタイム視聴し応援できるように、端末を通して誰でもアクセスできる特設サイトを作成させてもらった。君たちの応援がそのまま彼らの力になる。楽しいだろう?』


 神の言葉に、初めて感情の揺らぎのようなものが現れた。

 特設サイトとは、ウェブサイトのことだろうか。

 神様が、インターネットを駆使してサイトを立ち上げる? 

 最初は本当に神なのかと思っていたが、案外たちの悪い冗談なのかもしれない。

 いずれにせよ、俺は異世界になど行きたくない側の人間だ。

 この世界ですら、うまく立ち回ることができないのに、なにも知らない、知り合いすらいない世界に放り出されて楽しく生きていけるほど、生活力も人間力もない。


『特に注目度が高い転移者には様々な特典を与え、より活動しやすくなるようバックアップを行う予定だ。詳しくは、特設サイトを確認してくれたまえ。……さて、肝心の選ばれし1000人だが、誰にでもわかるよう肉体の一部に印を付けさせてもらった。これは君たちの技術では絶対に偽造できないものだから、偽者の発生も抑えられるだろう』


 神の、その言葉で教室中が一気に慌ただしくなった。

 肉体の一部に印――。

 どういう形のものかを知らせないのは迂遠な気もするが、おそらくは見ればわかるものなのだろう。

 一部の男子生徒などはシャツを脱ぎ捨てて、確認している。


『どうして私が突然姿を現して、こんな企画を考えたか? ふふ、実は最初から考えていたのだよ。君たちの文明レベルがあるラインに到達したら、何か面白いサービスをしようとね。君たちからすれば、私のようなものが実在し、超常の力を用いることに宗教観を狂わされるのかもしれないが――とにかく、これは私からのご褒美だと思ってもらって構わない。存分に楽しんでくれたまえ。要望などあれば、特設サイトから受け付けるよ。尤も、転移者になりたいといった要望は受け付けていないがね。転移者の選別について、不正を疑うかもしれないが、神に誓ってランダムだよ。ふふ……今のジョーク、わかったかい?』


 神などと名乗るわりには、気さくな性格のようだ。

 あるいは、そういう風に装っているだけか。

 神が言葉を発している最中も、クラスメイトたちは体のどこかに顕れたかもしれない「印」探しに没頭していた。俺は、確率的にほぼ無いのがわかっていたし、なにより、この突然のイベントに乗るのは、軽薄なお調子者のような感じがし、少しシャツの袖をまくって確認する程度にしておいた。


 俺はクラスでも目立たないタイプの人間だ。

 いわゆる陰キャ。

 それが「異世界」と聞いて狂喜乱舞する様を見せるのは、あまりに『いかにも』すぎるだろう。

 

『そうそう。大事なことを言い忘れていた。印の場所は「手のひら」だよ』


 付け加えられたその言葉に、まるで反射のように全員が――教師すらも自分の両手を確認する。

 俺もたっぷり時間を作ってから確認した。


(……そりゃ、そうだろうな)


 俺の手には何の印も浮かんではいなかった。

 宝くじで一等を当てるような確率なのだ。この学校全体で、いや下手をしたらこの町全体から一人も選ばれていない可能性のほうが高いくらいだろう。

 全世界で1000人というのは、そういうスケールなのだ。


(えっ)


 だから、盛り上がっているクラスメイトたちには悪いが、俺はこの教室――いや、この学校から誰かが選ばれるようなことはないと考えていた。

 ――斜め前の席に座る、幼馴染みの横顔を見るまでは。


 彼女――相馬ナナミは、まっすぐ前だけを向いて、両手のひらを隠すかのように、机の上にベタッと伏せていた。

 前を向いているのに、どこも見ていない――想定外のことが起きて、頭が真っ白になった時の顔だ。

 そして、ギギギとこちらに振り向いた。

 完全に血の気が引いた真っ青な顔で。

 泣きだしそうに瞳を潤ませて。


「ヒーちゃん……。あたし――」


 未だに騒然とした教室で、俺と同じように地味なタイプであるナナミのことを気にしている人間は誰もいなかった。

 だから、彼女がそっとこちらに向けた左手のひらの表面で、曼荼羅のような幾何学模様が生きているかのように色を、形すら変え続けていることに気付いた者はいなかった。


 神は、テレビからいつのまにか姿を消していた。

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