豆腐

佐倉きつめ

豆腐

「あっ…」

 少し先の加工が剥がれた箸から滑り落ちたそれは大きな音と水しぶきを上げる。

 「うわ…マジで最悪だわ。これオキニの服だったのに」

 赤く染まったキムチ鍋の中に落ちた豆腐は、その固体の爪痕を残すように雪色のトレーナーに淡いシミをつけた。

 「あんた、今日キムチ鍋って言っといたくない?服の選択が間違ってるつーの」

 右手の箸にしっかりと捕まれた豚肉をふうふうと冷ましながら一人前に黒ジャージを着ているこの家の家主は言った。

 「仕方ないでしょ、バ先から直接来たんだから。てか、ゆいなが服貸してくれればいいでしょ、ケチ」

 落ちてボロボロになった豆腐を不器用に箸で集めながら口をとがらせて文句を並べた。

絹の豆腐は鍋に入れると少し柔らかすぎてあまり好きじゃない。木綿くらいが崩れなくていいのだが。木綿も結局同じか。そもそも豆腐を箸で上手く取ろうとするのが間違っているのだ、きっと。

鍋の中の取ろうとすれば又繰り返して、だんだんイライラしてくる。

 「ああもう。ウザ、」

 不意に漏れた声はきっと豆腐に対してだけじゃない。こんな小さなことで少しこころが挫けそうになった。馬鹿馬鹿しい。本当に。フルタイムの後の疲れか、それとも昨日の滑り込み課題提出のせいか。それとも…。

心に解ける寂しさの中に放り込んだ歪な三角形の豆腐は、熱すぎる熱風で喉の入り口を苦しくさせた。

 「カリカリすんなー、私の肉あげるから、ほら食え食え」

 そう言ってゆいなは菜央の小鉢皿に肉をいくつか放った。

 「あー、はいはいありがとー」

 明らかな棒読みを露呈させている口とは裏腹に、菜央は盛られた豚肉をほおばった。口を少し開けて冷たい空気を取り入れるのに努めながら少しずつ飲み込んでいく。しばらくして口が休憩すると

「そういえば、話って何。何にもなしに連勤バイト終わりの社畜を呼び出したわけじゃないでしょーね?」

ニコニコと不気味極まりない顔で言うと、湯気を帯びた白菜をその口に運ぼうとした、が、ふと開いた口の前で手を止めた。ほんの一瞬「あ…」というようなことが聞こえた気がしたが、何事もなかったかのように

「いや、まあとりまたべよーよ、ほらまだあるよ肉!今日はたくさん買ったしー、雑炊もやる?〆に、ご飯も炊いたんだー、そうだ、一応炊けたか確認してくるわー!」

 彼女は話す隙も与えず、目の前のドアを挟んだ先のダイニングへと消えていった。ふと1人の時間になると、さっき飲み込んだ豆腐のことを思い出す。

 そのうち熱くてヒリヒリした口の中が気になって意味も無く舌でくるりと円状に一舐めした。口の上部分が特に皮がむけてざらざらしていたのを感じた。

 すっと彼女の部屋に目を向ける。

 少し広めの1Kルームは柔らかなベージュを基調として、斜め左の壁際には逆さまのドライフラワー、コスメグッズとコンパクトな丸型の立て鏡が置かれたピスタチオグリーンの三段タンス。

 優しい木製ベージュ調のシングルベッドには厚めの白いマットレスが敷かれ、その上に乗った暖かい薄いブラウン色の無地の布団は綺麗に整えられていた。

順番に見て、ふと目をやった少し高級感のあるシルクの枕の向こうには、イースター衣装を着た四十センチほどのウサギのぬいぐるみが一つ置かれていた。

目を惹かれる。

 でもシンプルに揃えられた寝具の中でそれは特に目立って見えたのはウサギが目立ちやすい柄をしていただけでは無くて、自分自身が何より大切にしていたものだったからだ。

 九ヶ月くらい前、二人で遊びに行った時に寄ったゲーセンでおそろいにしたくて、ゆいなも私も下手ながら必死になって取った。何度も両替機にお札を入れたのも覚えている。取れたときの嬉しかった感覚さえ鮮明に。彼女はピンクで、私が青の方をもらった。

 カップル用だって気付いたのはその何ヶ月も後、ぬいぐるみのお尻の部分にハートが片割れずつ描かれていてくっつけて一つに繋がるものなのだとわかった。2つで1つの景品だったこともあり色違いだとは認識していたが、その仕掛けには隠せない嬉しさを感じた。

 そうやってゆいなとの思い出を振り返っていた。上手く揃えられた家具は全て買うたび私に紹介してくれた。大学に入ってすぐのこと、多分三年位前だろうか。

 回想に浸りながら鍋に箸を伸ばしていると段々おなかが膨れて、両手を後ろにつきながら体を少し倒してこたつに入った脚を伸ばして小さな伸びをした。

 口の中にあるものをゆっくりと咀嚼と共に消費しているとキッチンと部屋をつなぐドアが150度は行く程に勢いよく開いた。

 「さっむ、死ぬわ」

 「おかえり、ご飯盛るの遅くない?」

 ご飯を持って両手が塞がったゆいなが、脚でドアを蹴ったらしい。本人は足早にご飯を机に置き、吸い込まれるようにこたつへと脚を伸ばした。

 「ごめん、あと三分だったから待ってた。でも寒すぎて心折れかけたわ」

 そう言いながら。はい、ご飯と私に来客用茶碗に六分目ばかり盛ったそれを手渡した。

 「ありがと、感謝」

 そういって、菜央は腰を伸ばし箸を持ち直した。

 左手で茶碗に手をかけたとき、ゆいながおもむろに口を開いた。それはとてもゆっくりと息を含んで。どこか少し重そうに。

 それを菜央はなぜか頭でその理由を理解した。というより知っていた。

 「そういえばさ、マジで突然でごめんなんだけど菜央に話とかなきゃいけないことあって」

 「うん?」

 そうなにも知らないように。さらりと。

 「あのー、うーん」

 気遣いだと思われる彼女のフィラーは反対に、私を酷く苛立たせた。それはとても自分勝手な感情だったが…

 「なに?もったいぶらないでよ笑」

 最後についた笑いは呆れたため息交じりになった。まるで嘲笑いのようになって今の感情を歪めた形で表面化した。きっと顔は全く笑っていなかった。

 少し経って彼女はやっと口を開いた。

 「実はね、怒らないで聞いて欲しいの。菜央がバ先同じの優雨くんと三ヶ月くらい前に連絡先交換して、話したり、遊びに行ったりとかしてたら、まあ色々で、その…この前付き合うことになった。、」

 うつむいていた。彼女は。

 菜央はそんな彼女をまっすぐに見つめていた。見つめるしかなかった。

 沈黙の空間はとても冷たい風がながれていた。それは季節のせいか、それとも割り切れない心情のせいか。

 沈黙を終わらせる口火を切ったのは、

 「良かったじゃん、羽柴めっちゃしごできだし案外かっこいいし優しいから、ゆいなのこと大事にしてくれそーだわ。安心したー」

 菜央だった。頭に浮かぶありったけ羽柴優雨のいいところをひねり出した。

 言葉に詰まらないか心配したけどちゃんといえたことに安堵した。

 言葉を聞いたゆいなも感情は違えど同じく安堵した顔で

 「あー、なんか気抜けたわぁ。菜央がそう言ってくれて良かったぁ、てっきり怒られると思ってた。」

 よかったー。そう何度も口にしていた。

 「怒られる」という言葉を何度も口にする彼女に少し腹が立つ。

 その意味を、確かめたかった。

 分かっているはずの答えを確かめたくなるのは、自分を自ら痛めつけたいのかと疑った。 

 でも、それはただ、自分の感情が上手く届いているか否かを確認したい最後のチャンスを賭けていたのかもしれない。

 無論、願っていたのはこれ以上彼の話題を続けないことだった。が…。

 「当たり前じゃん?てか、知り合ったときに言ってくれれば良くなかった?」

 踏み込まなすぎるのは逆に不自然になるだろうと予想したこと。

そして最後の賭け。

 様々な想いに押しつぶされそうなギリギリの感情の中、自然に笑って見せた顔はきっと上手く映っていたのだろう。

 彼女は口角を緩めて

 「いや、だってさーほらさっき言ったみたいに最初は優雨くんのこと好きだと思ってた訳だし」

 ああ…やはり

 「それにあのとき、菜央バイトとゼミに明け暮れてたじゃん?切羽詰まってそうだったし。なかなか言い出せなくて…。ごめんね、まず最初の時点で言うべきだったよね。ほんとにごめん。」

 言葉が進むにつれて下がった口角と視点から、彼女の本当の謝罪を感じ取って慌てて

 「あー!あのときか。そういえばその時の私マジで病んでたしね。しょーがないよ。私も言われても素直に受け入れられなかったかもだし」

 暗い空気を立て直して

 「それに、羽柴のことは全く興味なかったから安心して。バイトの仲間って感じだし、ゆいなの前でこんなこというのもあれだけど、恋愛とかそういうのは考えられないわ笑、ほんとに友達って感じ。それに私、好きな人居るし、」

 まあ、いたし…これは心の声。声に出してはどうしてもいえなかった。

 友達って言うのも本当のこと。繕ったつもりは全くない。ただ、笑顔という嘘はつかざるを得なかった。

 動揺しないわけがない。

 本音を言えばメンタルはもうとっくに崩壊していた。

 でも、ゆいなの喜びを純粋に嬉しいとおもう為の自己感覚が最前に立って補佐し、なんとか正常な範囲まで持ち直していると感じていた。

 その一部は表面的に。

 その他は、応急処置のように修繕して内面的に。

 どれもつぎはぎのような状態で構成され、成り立っている今の自分のはかなさにイライラした。

 「それならいいんだけど。でも菜央が一緒に喜んでくれて嬉しい!もし菜央とこれで仲悪くなっちゃったりしたらどうしようかと思ったから…」

 「そんなわけない。」

感情より言葉が先に出て

 「ゆいなと仲悪くなるとかあり得ないから、この先だってずっとほんとにあり得ないから!」

 今度は感情も相まって強く言いすぎて、自分でもびっくりした。

ふと彼女を見ると、もともと大きくてはっきりした目を更に大きくさせて、驚いたのか少し背筋を沿ってぽかんとしていた。

 つかの間、はッと我に返って

 「ごめん…めっちゃ必死になっちゃって」

 そう自然と、冷静に本心の切実な言葉を小さく唇が震えるくらいの声量で言った。

 彼女はきょとんとした顔から、いつものようにえくぼを作って微笑んで

 「うんん笑、必死に言ってくれて嬉しい、菜央はいつも大人な感じするからちょっと驚いただけ笑」

 そう言った。首をかしげたとき少し揺れたアッシュブラウンの長い髪が色白の肌に良く映えていた。彼女の笑顔は安心する。同時にとても綺麗だと目と心で再確認した。

 「そっか。よかった」

 安堵の言葉を返す。

 「うん!ありがとう。さすが過ぎる私の菜央」

 心臓の高低を知らないある意味辛辣な言葉を、無垢な笑顔で返す彼女を憎めずに少しばかり苦しい胸を撫でた。

 ゆいなは少し座り直して

 「安心したらおなかすいちゃった。雑炊やっちゃう?」

 そう小悪魔的に首をかしげた。

 「うん、やろうか。私も食べたいかも」

 「よしっやっちゃお!ご飯手つけてないよね?入れちゃおうよ一緒に、あとは卵とチーズも入れちゃう?」

 スイッチが入ったのかさっきまで寒いと渋っていた彼女は皆無、こたつから出てキッチンと行き来しながらテキパキと〆の準備を始めた。

 「手伝うよ」

 そう声をかけたが

 「だいじょうぶ!お客さんはゆっくりすわってて!」

と一声。とても朗らかで、上機嫌そのものだった。

 「うん、りょーかい」

 そう返してコンスタントに入れられる具材をよそに、鍋の六分目に残るキムチ鍋独特な赤黄色の水垢をじっと見つめていた。少しして、

 「じゃあ煮込んじゃおっか」

 材料を加え終わったゆいなは鍋の蓋を閉めて再び鍋のつまみを保温の「keep」から加熱の「warm」に移動させた。

 ふつふつと音を立てる鍋の音以外は再びの沈黙だった。

 しんどい。それは私の本音。

 そこに追い打ちをかけるように

 「そう、いえばさ。さっきことなんだけど、1個どうしても、きになってることがあって、いいかな?」

 正直滅入っていた。でもその無意識な上目遣いに話の解禁を承諾せざるを得なかった。

 「うん?」

 とキリキリする胃を抑えた。

 「さっき好きな人居るって言ってたの、私には教えてくれないの?」

 そこか…。正直羽柴のことを追求されると思ったが的外れだった。

 どちらにせよ、苦しいのは変わりないが

 「え」

 沈黙していると

 「ちょっとずるい!私も知りたい菜央の恋応援したい!てかさせて」

 身を乗り出す勢いで迫ってくるゆいなに

 「え、いや笑、それいま絶対きかなくていいよ笑てかのろけ聞かせてよ笑」

 話をそらそうとして地雷を踏むこともためらわなかった。

 「え、むり、きになるほんとに!てか教えてくれてないのどゆこと!?」

 私を詰める片手間に蓋の口から蒸気が出始めたのに気付いて、少し中の様子を時々のぞき見ながら

 「他に誰に言ったのー。」

と嘆き始める。

 聞かないでよ。そんなこと

 誰にもいえるわけがない苦しさを噛みしめて。

 かみしめすぎて。

 言葉にしなければ一生伝わらないであろう想いについに自暴自棄になって、訴えるように

 「いやだれにも言ってないし、だってわt・・」

---ピンポーン

 不幸中の幸いか。

 我に返された。救われた。?

 だって言えなかった言葉は言う必要が無いと隠していた言葉だったからだ。

 同時、音に体がビクッと跳ねたのは、ゆいなも同じだった。

 不穏な沈黙…

 「誰、だろこんな時間に」

 どうやらゆいなも全く台本なし状態らしい。だから安堵した。まさか…そんなことはあり得ないだろうと思った。

 ゆいなは少し警戒して席を立つ

 「こんな夜遅くに、普通に怖いなあ。とりま出るわ、、」

 仕切りのドアに手をかける彼女に

 「一緒に行くよ、さすがにゆいなだけじゃ危ない、こんな時間に来るやつとかやばそうだし。」

 本心でそういって、逆に先頭に立った。

 冷たい廊下が足の裏を侵食する。ただゆいなが真後ろをついてきているのと、右脇        あたりの服生地を引っ張っているせいなのか、上半身は平熱より熱かった。

 数歩あるいた所で裸足のまま冷えた乳白色のアルミ製ドアにゆっくりと両手と上半       身をつけて、のぞき穴に右目を近づけた。

 他の色を知らない長めの黒髪、身長は多分180位。対照的な白いマフラーと暗色のコート…菜央は目で理解するより心で理解するのに時間を要した。

 「優雨…」

 彼だった。

 「え、うそ、優雨くんなんで」

 これは完全な規格外だったのだろう。ゆいなは驚いた顔で、同じく裸足のまま降りて少し菜央をのける用にして魚眼レンズを覗いた。

 確認したのか、こちらを振り返って微妙な顔をした。それは委ねる顔だとすぐに察して

 「いいよ、早く出てあげなよ」

 少し不機嫌そうに聞こえただろうか。だがこれは精一杯の気遣いのつもりだった。

怪訝そうに彼女はドアノブに手をかけた。

 キイ-っと音を立てて開いたドアの隙間から冷風が通り抜けたのと同時に、ドアの向こうの者が早く開けろと言うようにガシッと開いたドアを手でつかんで

 「おそい、さむい、死ぬ」

 単語を並ベながら強引に入ってきた。ほんのりと香る柑橘系の香水の匂いが、サラサラと揺れる黒髪が、菜央に改めてその人物の存在を認識させたと同時に思考を停止させた。

 「ごめんね優雨くん、急だったからびっくりしちゃって」

 彼の身長に合わせて少し見上げがちに謝るゆいな

 「いいよ、俺こそ急に来てごめんなゆいな」

 少し赤くなった手をゆいなの頭に優しく置いて答える彼。ううんと少し照れてまんざらでもない顔でうつむくゆいな。心がざわつく。

やがてゆいなに向けられたその視線がこちらに移動した。

 「林おまえ来てたの、ふつーに来るタイミングミスったな」

こちらを向くとけだるげに上の名前呼びをして、頭を少しくしゃっとした。

 「と、とりあえず入ってこんな所じゃ寒いし」

 冷気が断続的に入っていたことを気遣ってくれたのかゆいなは半ば強引に彼を入れて  

 ドアを閉めた。

 「中いこうよ、優雨くんも、ここ寒いよー」

 ね?といって部屋に誘導したゆいなはまんざらでもない顔で、笑顔がにじみ出ていた。

 イライラする。さっきまでにはない顔に、沸々と湧くのは恨みか。

 嫌な感情が段々湧いてくるのを感じた。

 冷たい廊下の感覚が足の裏から伝わってくる。自分のひたひたと扁平足な歩き方が妙に鼻につく。部屋で彼が取ったマフラーを優しい笑顔で受け取り、ハンガーに掛ける 彼女を見た。ごめんな急に来ちゃってと謝る彼を見た。

 ううんと照れてうつむく彼女の頭を、優しく撫でる仕草

 目の前で流れるスライドショーは私の美化か、それとも現実か…

 なんだか、急に自分のふがいなさやこの状況に居ることの場違いさが露呈して、ばつが悪くなった。

 あなたの視線の先に映らない自分を今すぐこの場から消し去りたかった。さっきまで繕ったお祝いの感情がボロボロと剥がれてしまう感覚がした。

 視線をあげることさえ、億劫になっていたその頃に、私の口は動き出していた。

 「あ!の。私帰るわ。明日又バイトだし。ごめんっ」

 マフラーをひっつかんだ。コートも乱暴に掴んだ。靴下は掴んで鞄に押し込んだ。くしゃくしゃの制服が入った鞄はかろうじて肩にかけた

 「あ、菜央待って」

 そう彼女が言ったときには。もう裸足で靴に足を入れていた。

 振り返ることなんてできなかった。

 冷たいドアノブを握って彼女が閉め忘れたドアを思いっきり開けて鞄がドアロックに引っかかるのをなんとか避けて足音が響きすぎる廊下に出て、走った。冷たすぎる風を浴びた。後ろで呼ぶ声も聞けないように必死に無視して真っ正面角の塗装が剥がれた階段を一段飛ばしで駆け下りる。小学校の時練習した一段飛ばしがこんなところで  

 役立つなんて。悔しい…

 息が上がって嗚咽と相まって変な声が出る、三階から降りるのに何回らせん階段をまわっただろうか。途中でぬれた頬になびいた髪がひっついたが、なりふり構わず駆け下りた。何度も上がる息を咳で整え、やっとの思いで地上と脚を合わせて、何も考えずに左に曲がった。

 訳も分からず走った。鳴いた。泣いた。哭きわめいて、咳き込んで、100メートルほど直線に走ったところで、苦しくて吐きそうになって、冷たいコンクリートの地べたに崩れた。崩れたと言うより、ちゃんと履けていなかった靴が片方足から離れたのを              

  感じてバランスを崩してしまった。

 ちょうど良かった、これ以上走れるスタミナは多分残って居ない。ひっつかんだコートも地面について、ふんだ靴のかかとは汚い。菜央はそんな自分の今の様相をゆっくりと見回して、本当にだめな人間だと思った。

 菜央はふと思った。こんな私を見て、あなたはどう思っただろうか。

 いきなり飛び出して、おかしいと感じただろう。靴下もはかずに…。

 でも、案外逆にどうも思わないのかもしれない。ただおかしい人としか認識しなかったかもしれない。

 意識されない悔しさと、間に踏み入る権利すら持たない自分のふがいなさに自己嫌悪して又涙が出た。

 どこかの歌に上を向けば涙が零れないって歌詞があったけど、上を向いて零れない涙の量なんてそれ絶対たいしたことない。

 自分があの人の何者にもなれなくて苦しい。

 手をついたコンクリートはとても冷たくて、小さな砂利が手のひらに刺さって思わず   

 「痛っ」と声を出した。

 幸いにも人の姿はなく、聞こえるのは少し遠くから響く列車の音と はあはあと整えきれない自分の必死な荒い吐息だけだった。びっくりしたのは高校を卒業してから全くと言っていいほど運動をしていなかった自分がこんなに走れたと言うことだ。菜央はそんなどうでもいいことを思考して、現実逃避していた。

 でも、考えたくないことはいま一番考えなくちゃいけないこと。

 「どーしよ…」

 好きだと勘違いされたかもしれない。

 どうしようもない恋心が、絡まった糸みたいになって心臓を締め付けている感覚に陥った。

 一番こじらせ過ぎている。

 私だけが絡まって抜け出せない羞恥心。

 恥ずかしい。消えてしまいたい。また、心が崩れる瞬間。

---

 時間だけが酷く流れて。頬を散々伝った涙もカラカラになった、

 何にも考えられずにここで寝てしまうことも考えたけど。

 これ以上だめになる自分を恐れて、いや、多分たいした意味も無く家路をたどった。

 コートは地面すれすれ。靴は今度はしっかり履いた。

 「足、洗わなきゃ、しみるかな」

 膝はすりむいて、少し赤みを帯びていた。

 「なんだかんだなんとかなるかもなあ。あはは」

 痛い独り言

 今どう辛くたって、明日はやってくるし、しょうがない。

 勝算無かったし。

 どうしようもない結果過ぎて逆に、少し前向きになった。私って案外タフ、さっきもちゃんと平然に会話できてたし。

一回泣いちゃって、取り乱しちゃったけど

コンクリートと靴底が微妙にすれる音が雑居ビルの間のこの道にはよく響く。

 「足いた…」

 擦り切れた足を引きずりながら、多分明日のことを考えようとしてたその時…

---ブーっ

 音のみを切っていた携帯が急に鳴る。

 光る画面。ゆっくり見て


ああ。また、崩れちゃった…

涙でかすんで見えないや。

全然合ってない、伝わってない。



 わたし、やっぱりお豆腐メンタル



 ---LINE:×××のこと好きだったんだよね。ごめん。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

豆腐 佐倉きつめ @kitsume-sakura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ