第171話 ……それから、こう!
暗い部屋で椅子に持たれて目を瞑る男性――【国土解放軍】司令官ロイド・アークライトは執務室の椅子に深く凭れて、ただ静かに目を瞑っていた。
もともと高い上層に作られた、更に高いビルの上……どうしても吹き付ける強い風の音は消すことが出来ない。ともすれば煩いほどの風の音だが、今のロイドにはそれすらも子守唄代わりのようである。
それもそのはず。いつもは側に侍るシェリーの方が何だかんだで賑やかなのだ。そんなシェリーの姿は今は見えない。静かな部屋に、風の音に混じりロイドの浅い寝息が響く……一際強い風が吹いた時、ロイドが急に目を開いた――
「オロバスか……」
――天井を見上げたまま呟くロイドの声に呼応するように、その真後ろにオロバスが姿を現した。
『……ロイド。貴様の宿願は前途多難だぞ』
クツクツと笑うオロバスに、ロイドが眉を寄せて「何があった?」と後ろを振り返った。
『なに……貴様の娘に憑けていた分体がな――』
「まさか――」
オロバスの言葉に、ロイドは目を見開きガタガタと椅子を鳴らして立ち上がろうと――するその肩にオロバスが手を置いて『案ずるな』とロイドをもう一度椅子へと座らせる。
そのまま笑顔を浮かべたオロバスがロイドを通り過ぎ、机の前にある応接用ソファへと腰を下ろした。その異様な見た目からは想像ができぬ程、正反対の仕草ではあるが、見慣れているのだろうロイドはそれを気にもとめない。ただ黙ってオロバスを見つめ、机の上で指を組むだけだ。
『娘は元気だぞ……残念ながら貴様らの望んだ神の力も健在だ。しかも――』
言葉を敢えて切ったオロバスに「しかも?」とロイドが眉を寄せる。
『――しかも、その権能に気がついた者が傍にいる』
ニヤリと笑ったオロバスからロイドは堪らず目を逸した。
『殺せるか? 貴様に娘が……』
オロバスのその言葉に、ロイドは大きく息を飲んで視線を下げた。
『あの日、貴様ら……アナスタシスとか言ったか。貴様らの悪業の果てに生まれた神という存在への恐怖……それがあのような形となって貴様の娘に宿ったわけだが――』
「神……という存在か――」
ロイドの絞り出した声に、ソファに腰を下ろしていたはずのオロバスが溜息を返してその姿を消し――ロイドの背後に再び現れた。
『――時を同じくして、貴様は一向に現れぬ神に業を煮やした。娘が生まれ、その娘も拷問にかけられる恐怖もあっただろう……アナスタシスの老人共を生贄に、神ならぬ悪魔を呼び出した……』
ロイドの耳元で囁くオロバスに、ロイドが「ああ。それがお前だ……オロバス」と真っ直ぐ虚空を見つめたまま呟いた。そんなロイドの様子にオロバスは特に表情を変えることなく、再びソファの上に出現する。
『我と契約した貴様は、この世界の真実を知り、過去の罪業を知り、来たるべき未来を知った』
オロバスの言葉にロイドが黙って頷く。
『貴様は言ったな……「これが神の仕打ちならば……俺が真の神となり世界を救おう」、と』
背もたれに深く身体を預けたオロバスが、ゆっくりとロイドへと顔を向けた。
『……決断の時だぞ? 今なら貴様の娘を守るために憑けた分体もいない……』
オロバスのその言葉に「分かっている」、とロイドは顔を覆って天井を仰いだ。そのまま黙り込むロイドをオロバスは無表情で暫し眺めて、大きな溜息をついた。
『人とは難儀なものだな。娘など……あの側仕えにでも新しく産ませればよかろう……既に男女の仲ではないか』
肩を竦めるオロバスに、天井を仰いだままのロイドは何も応えない。
『まあ、好きにするといい。我はどちらに転んでも構わん……』
その言葉にロイドが天井から顔を戻せば、そこにはオロバスの姿はない。
『仮初の命として潰えても……また遠い未来に貴様ら人は、同じ過ちを繰り返すだけだからな……それは貴様も知っていよう?』
ただ空間に不気味に声が響き渡るだけだ。
『故にどちらでもよい……今は契約者たる貴様の意向を尊重してやろう――』
その声を残してオロバスは完全に気配を消した。残ったのは、机に肘をついて再び顔を覆うロイドだけだ。その状態で暫く動かなかったロイドではあるが、手に覆われていた顔が、ズル、ズル、と下へと下がっていき……その両手がロイドの前髪を全て掻き上げた頃、漸く決心がついたとばかりに大きな溜息とともに、身体を背もたれへと投げ出した。
背もたれが「ギシギシ」とクレームを入れてくるが、ロイドはそれを無視するように強く目を瞑って机の上にある小さな突起へと触れる――机上で立ち上がるホログラムと、響くコール音。
数回のコールの後、ホログラムの向こうに現れたのは――
『御用でしょうか?』
――ロイドの側近であるシェリーだ。
「彼らに連絡を取ってくれ……雌伏の時は終わりだ、と」
ロイドのその言葉に、『よろしいのですか?』とシェリーがピクリと眉を動かした。その言葉に再び頭を抱えるロイドだが――
「構わん……イスタンブール襲撃は予定通り半壊程度だ……完全に潰しては、東への足がかりがなくなるからな」
話ながらロイドは、苛立ちを隠せぬように指で机を叩く……それは今まで大事に隠してきた物を手放さねばならぬ事への焦燥か……それとも、それを誰かに委ねねばならいもどかしさか。
「運が良ければ生き延びるだろう」
早口で捲し立てた言葉は、間違いなくロイド自身へ言い聞かせるものだ。仮に何があっても、あの力が露見していなければ……オロバスの分体によってモンスターの脅威からは守れる筈であった。
だが今は守りが消え、そして自分がその命を危険にさらす命令を下したのだ。いかにロイド・アークライトと言えど、動転してしまうものだろう。
普段とは違うロイドの様子は、これ以上余計な事を言えば決心が鈍りそうな雰囲気だ。それをいち早く察したのだろう、シェリーは『かしこまりました』と短く応えてその通信を切った。
見えなくなったホログラムがあった場所を、ロイドは暫く見つめ続け……先程下した命令から逃れるかのように、椅子をくるりと反転させた。
窓の向こうに見えるのは、僅かな夜景と続く荒野――
『リリア、許せとは言わん。恨んでくれて良い。それでも私は……人を、この世界を導き救わねばならんのだ」
押し殺したような声が僅かに震える……暗い部屋の中、俯くロイドの顔は見えない。
☆☆☆
ロイドの前から姿を消したオロバスは、【軍】の施設の屋上にいた。欄干に腰掛け、人の営みたる夜景を見下ろすオロバスが、不意に口の端を上げた。
『おや……未来が……』
吹き抜ける風がオロバスの鬣を強く揺らした。
『ククク……そうか。決断したのだな……人とは
強く副風を全身に受けるように、オロバスが両手を広げ天を仰いだ。
『貴様もそう思うだろう? 滅びの子よ……』
「わーお。僕の気配に気づけるん?」
オロバスの背後から聞こえてきたのは、カラカラと笑うヒョウの声だ。
『隠す気などなかろう……悪魔を舐めるな』
そう言って歯を剥き出しにするオロバスだが、そんなオロバスを前に「そりゃ、コチのセリフやで」とヒョウは既に左手に刀を提げている。鞘に収まっている筈だが、ヒョウが発する抜き身のような鋭い視線は既に臨戦態勢とでも言わんばかりだ。
「何やオモロそうな話しとったやん」
ニヤリと笑うヒョウだが、「んでも、教えてはくれんのやろ?」とその片目を開いてみせた。その瞳に映るのは、ユーリと同じ深淵。どこまででも続くような深い黒に、オロバスがブルブルと鼻を鳴らした。
『気に食わん連中よ……貴様も、あの男も……』
欄干から飛び降りたオロバスが、ヒョウを前にその瞳を僅かに細めた。
「馬に気に入られてもな……どうせならグラマーなお姉ちゃんがエエわ」
カラカラと笑うヒョウだが、その身体から発せられる雰囲気に寸分の隙もない。
「ロイド・アークライト――」
笑みを浮かべながら、ヒョウがオロバスを前にロイドの事を話だした。
名家の生まれながら、実は
アナスタシスの精神には賛同していたロイドだが、「神を降ろすため」と称した拷問には始めから異を唱えていた。それは娘が生まれてから特に強くなり、ついにアナスタシスの長老連中を皆殺しにし、そのまま行方をくらました。
それから数年後、ロイド・アークライトは自身の実家であるアークライト家の不正を告発し、同時に【軍】でメキメキと頭角を現した……
「……こんな所やろ?」
ヒョウの見せる笑顔にオロバスは黙ったまま何も答えない。もちろんヒョウもオロバスが答えるなどと微塵も思っていない。それでも訪ねたのは、単なる揺さぶりだ。相手の仕草や呼吸で、ある程度の事は分かる。
とは言え相手は悪魔。揺さぶりに何の反応も示さないオロバスに、ヒョウは「しゃーないな」と小さく溜息をついた。
「さっきの話を聞く限り、長老連中を殺して
その言葉にもオロバスは何の反応も示さない。とは言えこれは先程ヒョウが自分で入手した情報だ。悪魔と言えど、テクノロジーの分野まではカバーできていなかった。
普段ならシェリーが気を張り、ロイド自身も気をつけているのだが、今回はリリアの事でよほど動転していたのだろう。……ヒョウにも久々に【情報屋】を名乗れるだけの手柄が舞い込んだ形だ。
そしてその情報を補完しようと、オロバスを訪ねたわけだが……
「どうせ答えてくれんやろうけど……聞くだけは聞いたるわ」
そう言いながらヒョウがゆっくりと腰を落とす。
「リリアちゃんと軍総司令は血縁者」
オロバスは黙ったまま。
「
吹き抜ける風の音だけがやたらと煩い。
「リリアちゃんの歌声は、お前らにとって計画の妨げになる」
一瞬だけ止んだ風のせいか、下を走る車のスキール音が響いた。
「……お前ら、なに企んどんねん。人とモンスターが手ぇ結んで――」
開かれたヒョウの両眼を前に、オロバスが『さあな』と笑った瞬間、その首が吹き飛び宙を舞った。
クルクルと回り宙を舞う首と、首から血を吹き出し、力なく膝から崩れ落ちるオロバスの身体。首がボトッと間抜けな音を立てて屋上に落ちた頃、オロバスの身体から黒い靄が立ち上り霧散していく――
「……チッ、やっぱ影武者かいな」
舌打ちをこぼしたヒョウが、刀を
『……生意気な猿どもよ……』
そう言いながらも虚空から響く笑い声はどこか嬉しそうだ。
『滅びの子よ……混沌とする未来で、過去が貴様に牙を剥く。心するが良い。逃れられぬ死の運命が貴様を待っているぞ』
それだ言うと『フハハハ――』と高らかな笑い声を残してオロバスの気配が完全に消え去った。
「そりゃいつかは死ぬやん。馬鹿なん? ああ、馬やったわ」
溜息をもらしたヒョウも吹き抜ける風にその気配と姿を消す――残ったのは、不気味な笑い声のような風と、それに交じる悲鳴のようなスキール音だけだった。
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