第169話 悪魔だしエピックですからね。強くないと

【オロバス】


 過去・現在・未来のあらゆる事物について答え、召喚者に地位を与え、敵味方からの協力をもたらす。また神学における真理や創世における真実を教えてくれる。オロバスは召喚者に対しては大変誠実で、他の霊からの攻撃から守ってくれる。


 地獄の二〇の軍団を率いる序列五五番目の偉大なる君主


 出典:グリモワール『ゴエティア』より



 ☆☆☆



 ユーリを前に、オロバスはもう一度天へ向けて咆哮を上げた――その咆哮に呼応するかの如く、肉体は盛り上がり、黒く変色していく。気がつけば身長もユーリよりも大きく、黒光りする身体から発せられる圧力は、先程までとは比べ物にならない。


 太い腕に浮かぶ血管。

 口元から「フーフー」と漏れる息とともに落ちる涎。

 逆立つ鬣。


 どれをとっても怒り狂っている事だけは分かるが、構えを取ったユーリの表情に変化はない。いつものように……いや、いつもよりも獰猛なその笑顔は、まるで獲物を前にした肉食獣のようだ。


『何を笑っている?』


 そんなユーリの態度が更にオロバスを怒らせているようだが、ユーリはそれに応えずただ笑顔を浮かべたままだ。


『だから……何がおかしい――!』


 オロバスの巨体が風を切ってユーリへ接近。

 ユーリの頭目掛けて右拳が迫る。


 その拳を右手で左に払いつつユーリが回転。

 左踵を馬の顎に叩きつけた。


 ドゴンという音とともに、拳を振り抜いた形のままオロバスの両足が床を滑る――が


『軽いな』


 顎を擦って下卑た笑みを浮かべるだけだ。


「安心しろ。一発で終わらせたら、手加減してやっただけだ」


 その笑みにユーリも笑顔を返した。


『減らず口を――』


 再び加速したオロバスがユーリの眼の前で両腕を振り上げる。

 その腕が一瞬で馬の脚に変化。

 眉を寄せるユーリの頭目掛けて、蹄が叩きつけられた。


 ユーリのバックステップ。

 床石を砕くオロバスの蹄。

 砕けた床が礫となってユーリへ襲いかかる。

 それらをユーリが両手でキャッチした――瞬間、

 四足歩行のオロバスが突進。


 がら空きだったユーリの土手っ腹に頭突きをブチかました。


 吹き飛んだユーリが壁に突き刺さる。

 それを追ってオロバスが跳躍。

 再び人型に戻った前腕を振り上げる。


 その瞬間――ユーリが壁から飛び出した。

 腕を振りかぶったオロバスの腹に、ユーリの飛び蹴りが突き刺さる。

 吹き飛んだオロバスの両脚が、再び地面の上を音を立てて滑る。


 間合いを切った両者が向かい合い、どちらともなく両者がそれぞれの腹についた埃を払う。


『滅びの子……少しはやるようだな』


 ニヤリと笑うオロバスに、ユーリも笑顔を返す。


「テメェらみたいな相手のだからな」


 獰猛な笑顔のユーリが爪先をトントンと床に打ち付ける。軽く二度、三度そして――ドンと大きな音を立てたかと思えば、既にユーリの姿がオロバスの眼の前に。


 移動とともに繰り出されるユーリのジャブ。

 コンパクトに繰り出された右拳。

 それをオロバスのガードが防ぐ。

 ガードの上からでもお構いなし、とばかりにユーリのストレート。

 それもオロバスはガードするが、ユーリの拳は止まらない。


 左右のだけというラッシュ。

 ガードを固めるオロバスには効果がなさそうだが……

 空気が破裂するような音が数度響き、ガードポジションのオロバスの脚が後ろへ滑る。


 それでも、ガードの向こうで『無駄だ』とオロバスがニヤリと口角を上げ――た瞬間、ユーリのがオロバスのガードを横合いから思い切り掻っ攫った。


 押し込まれる力だけに集中していたせいか。はたまたユーリのフックが、打ち付けるというよりも押しやるような形だったせいか。


 とにかくオロバスのガードが僅かに開いた。

 そこに突き刺さるのは、フックの体重移動に乗せたユーリの左上段回し蹴りハイキックだ。


 それがオロバスの顎を捉え、黒い巨体を吹き飛ばす。

 体勢を崩して飛んだオロバスをユーリが追いかけ――

 そのユーリに背を向けるような格好のオロバスが、両手をついて後ろに両足を振り上げた。


 馬が見せるような後ろ蹴り。

 完全なカウンターが、間合いを詰めていたユーリの顔面に突き刺さった。


 吹き飛んだユーリ……だがクルクルと回転して間合いを切った先で着地。


 ユーリは僅かに垂れる鼻血を親指で拭い、「ますます馬じゃねぇか」と再び腰を落として笑顔を見せた。

 それに相対するオロバスは、初めてその笑顔を歪ませている。

 完璧なタイミングのカウンターを、後ろへ飛び退かれたのだ。オロバスとしては表情が曇るのも無理はない。


『器用な猿め……』


 呟いたオロバスが後ろ脚で数度床を蹴り、先程のユーリのように一気に加速。

 一瞬でユーリとの間合いを詰めたオロバスの右フック。

 風を切り、唸る拳。

 それを向かえうつユーリの左腕。

 両者の腕が交差したのとほぼ同時、ユーリはお返しに右ストレートを叩き込んだ。


 ――ズドン。


 と空気が振動する程の音は、ユーリの右拳をオロバスの左前腕が受け止めた音だ。

 お互いの一撃をそれぞれ受け止めた両者が、どちらともなく笑う。


 一瞬だけ静まった空間を、両者の繰り出す両拳が出す音が切り裂いた。


 ゼロ距離で拳を叩きつけるユーリとオロバス。


 地力の差か、じわじわとユーリが下がり――『猿にしては良くやった方だ』――オロバスの正拳がユーリの顔面を捉えて再度吹き飛ばした。


 一瞬で先回りしたオロバスが、両拳を振り上げ――

 蹄に変わったそれを、無防備なユーリの身体へ叩きつける。

 蹄がユーリを踏み抜くその瞬間、目を見開いたユーリが宙で身体を捩る。


 オロバスの前足をいなすような右手。

 それに沿ってユーリの身体が回転。

 かろうじてオロバスの強襲を避けたユーリ。


 だが先同様、床へついた前脚に体重を乗せたオロバスが回転中のユーリへ突進。


 ユーリの脇腹に突き刺さるオロバスの頭。

 身体がくの字に折れ、骨が軋む音が辺りに響く。

 口から血を吹き出し、ユーリが吹き飛ぶ。

 バウンドして転がったユーリ。

 そして再び先回りしたオロバス。

 前脚を地面に突き、跳ね上がった瞬間のユーリへ向けて後ろ蹴り。


 勢いよく蹴り上げられたユーリが天井へ。

 天井にぶつかったユーリは、それでも勢いが止まらず床へ。


 床石を幾つか砕き、跳ねるように転がったユーリがようやく止まった……のだが、見るからにボロボロだ。


 突進からの後ろ蹴り。完全に決まったコンボに、普通ならば絶命しているだろう一撃一撃に、オロバスは倒れるユーリを眺め、ブルブルと鼻を鳴らし――


「ゴホッ、ゴホッ……」


 床の上で咳き込むユーリに、オロバスが目を見開いた。


『まだ息があるとは……驚いたぞ』


 そう笑うオロバスの眼の前で、ボロ雑巾の様になったユーリがゆっくりと上半身を起こした。


 いつものパーカーは破れ、全身は擦り傷まみれ。口と鼻からも血を流し、蹴りを受け止めたのだろう右腕はあらぬ方向に曲がっている。完全に追い詰められているはずのユーリではあるが、獰猛な笑顔はそのままに、「あーあ……」と左手で額を押さえながらゆっくりと立ち上がった。


「好き勝手殴りやがって……を思い出すじゃねぇか……」


 ユーリを纏っている雰囲気が少しずつ変性していく……全身を包む黒い闘気、そして深淵を切り取ったような暗く黒い瞳。それを前に、オロバスが初めて息を飲んでその脚を止めた。


『……貴様……その気配はなんだ?』


 眉を寄せるオロバスに、左の親指で鼻を押さえたユーリが「フン!」と溜まった鼻血を床にぶち撒けてニヤリと笑う。


「知らねぇよ……俺はなんだと」


 ゆらゆらと揺れるユーリの闘気を前に、オロバスが真っ直ぐにユーリを見つめる。ユーリを見つめるオロバスの顔が分かりやすく引き攣っていく……過去を、未来を見られるオロバス故、誰も知らないユーリの過去でも覗き見ているのだろう。


『貴様の……いや、の事は良く知っているが……よもやこのような事を……』


 オロバスの顔を初めて汗が伝う。


『悪魔たる我が言えた事ではないが……悪魔の所業とは、まさにこの事よ』


 ゴクリと唾を飲み込んだオロバスが更に続ける。


、それが貴様の力の真髄か』


 歯をむき出しにするオロバスを、ユーリは鼻で笑い飛ばした。


「ンななもんじゃねぇだろ……俺の中にあるモンスターを表すなら人間の業……いや【深淵アビス】だ」


『【深淵アビス】だと……』


 ゲートから取り出した回復薬ポーションを呷ったユーリが、その瓶を脇へと放り投げた。瓶の投げる音にハッとしたような、オロバスが『猿風情が深淵を宿すなど傲慢な……』と再び歯をむき出しにする。


「【深淵アビス】だろ……モンスターを研究するために、、継ぎ足して、交配して、拷問して、殺して、その死体をまた切って貼って……それを繰り返し生まれた良く分からない肉塊……人の欲望の固まり、悪業の果て、罪の結晶……それを【深淵】と呼ばず、なんて呼ぶんだ?」


 ポーションを飲んでも回復しない右腕だが、それを気にする素振りもなく、ユーリが一歩前に出た。


 実際ユーリの言う通りで、ユーリは正しくである。弱いモンスターを集め、ユーリの言う通り様々な拷問や研究の果てに生まれたが、ユーリの力の元だ。明らかにそれすらも研究に使おうという、人間の欲深い業……。モンスターの持つ破壊衝動を濃縮した存在……故にユーリには破壊光線以外の能力はない。


 ランクで言えば一般コモン非凡アンコモンの集合体……それを扱い、ここまで能力を上げたユーリが放つ闘気、そしてその瞳に宿る深淵に、オロバスは自身でも知らぬ間に僅かに後退っている。


 恐らく恐怖を感じているのだろう、それはユーリという存在に対してか、それとも覗き見た彼の壮絶な過去にだろうか……だがそれを振り払うように、オロバスが咆哮を上げる。


『猿風情が……調子に乗るな!』


 口から涎をぶち巻いたオロバスがユーリへ向けて突進。

 繰り出すのは左拳。

 腕が折れガードの出来ないユーリの右側を、オロバスの左拳が襲う――

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