第166話 大事なものは目に見えない
……ここは、どこだ。
「エレナ! ボサッとするな!」
背後から掛けられたクロエの怒声に、エレナは我に返って視線を上げた。眼の前に広がるのは、地下に作られた巨大なスラムと、そこでぶつかり合う軍人とモグリの集団だった。
「……まただ。またここに――」
呟いたエレナの真横から、男が剣を突き出し突進してくる。慌ててそれを躱して男を斬り伏せた。
手に伝わる嫌な感触に、倒れてピクリとも動かない男に、撒き散らされた臓物に、エレナは胃の奥から迫り上がってくる物を感じて、思わずそれを吐き出した。
地面に撒き散らされた吐瀉物が「ビシャビシャ」と醜い音を立てて、エレナの軍靴を汚す――この感覚も、音も、何もかもがもう何度経験したか分からない。
……またこれを繰り返すのか。
そう思ったエレナが、口元を拭って後ろを振り返れば、渋い顔でモグリを焼き殺しているクロエが映った。今エレナが知っているより少し若いクロエ。別の方向に視線を向ければ、少し離れた場所で、悲しげな顔のままモグリを斬り伏せている恩師が目に入った。
何度も見た光景だ。だがそれでも生きているラジェフを目にしてしまうと、込上がってくる思いが口からもれてしまう。
「……ラジェフ隊長……」
思わず呟いたエレナにラジェフが気が付き、怪訝な表情を返している。変わらない。あの頃のままのアレクサンドル・ラジェフが、今エレナの眼の前にいる。
……これは夢なのだろうか。
いや、胃の内容物を吐き出した不快感も、手に残る感触も、人が焼ける臭いも、何もかもがリアルだ。エレナはこのリアルを先程から何度も繰り返している。何度も、何度も。
……これは罰なのだろうか。
この先へ続く人生があった気がするが、今はもう朧気で思い出せない。いや、それすらただの願望で、実際自分はあの日からずっとこの悪夢に囚われ続けているのかもしれない……そうだとしたら、もうこれ以上は耐えられない。繰り返される絶望は、確実にエレナの精神を削り続けている。
剣戟の音がやけに煩く聞こえる。それがこの繰り返される絶望が、エレナに「現実だ」と事更に強調しているかのようだ。そんな事など言われずとも分かっている、とエレナは再び向かって来るモグリを斬り伏せた。
この光景も何度も見てきた。何度も同じ男を斬った。だが……何度繰り返しても、相変わらず感触は慣れない。
――協力はいいが私も殺しは嫌だぞ?
不意に頭に響いた声は、誰に向けて言ったものだっただろうか。夢の中……この先に見た人生で言った言葉だったか。もう朧気で思い出すことも出来ない。ただ、その声には大いに賛同できるな、とエレナは思わず苦笑いを浮かべた。命令とは言え、出来たら人殺しはしたくないものだ。
そう思ったエレナの眼の前に、忘れるはずもない男が現れた。ボロをまとった、明らかに貧弱そうな男だ。
……こいつだ。
そう…繰り返されるこの絶望は、この男を見逃してしまった事でループしている。この男を見逃したエレナの責任を、ラジェフが被り処断されてしまうのだ。処断される師を見た瞬間、また初めに戻ってここへ来る。
何度繰り返しても、自分にはこの男を斬れず。何度繰り返しても、自分はラジェフを殺してしまう。ならば、今度こそこの男を殺してしまえばいい。殺しは慣れないし嫌だが、もう既に何人も斬った。今更一人増えようが――
エレナが男に剣を突きつけた瞬間、物陰から小さな影が飛び出してきた。
「やめて!」
男を庇うように現れたのは小さな女の子だった。年端も行かぬ少女が、震えながらも男とエレナの前に両手を広げて立ちふさがる。その様子にエレナは苦虫を噛み潰したような顔を浮かべた。
「隠れてろって言っただろ!」
そんな女の子を脇に追いやろうとする男だが、少女は頑なにそこを動こうとしない。痩せっぽちの男とモグリにしては肌艶のいい少女。何度も見た光景だが、エレナの決心をまた鈍らせる。
少女と男に剣を突きつけたまま、エレナは動くことが出来ない。カタカタと切っ先が震える。
……あと一人、あと一人。この男を斬るだけで――
そう思ってもエレナの腕は、まるで石のように固まって動かない。
「どうした、エレナ?」
後ろから聞こえてきたクロエの声も覚えている。そして――
「エレナくん――」
聞こえてきたラジェフの声も一緒だ。彼がこれから言う言葉も知っている。
――見逃したいのかい? なら見逃すといい。
驚いて振り返ったエレナとクロエに、優しげな微笑みを見せてくれた事も、その後に言ってくれた言葉も、一言一句覚えている。
軍人はね、騎士としての誇りを忘れてはいけないよ。我々は人々の剣だ。私情を挟み、命令を無視することは許されない。……でもね。命令を無視しても守らないといけないこともあるんだよ。
その言葉にエレナは彼らを見逃し、そしてラジェフは断罪され、クロエと袂を分かった。
エレナにとってはこれから先に続く人生における訓示であり、同時に呪いとも言える言葉だ。今度こそその言葉を聞かぬよう、エレナは「大丈夫です!」と声を荒げて、ラジェフの言葉を遮った。
あの言葉を聞いてしまえば、またあの道を選んでしまうだろう。だから。だから、あの言葉を聞くより前に、これから続く悪夢を断ち切るために、今は心を鬼にしてこの刃を振るうのみ。
大きく深呼吸をしたエレナが、切っ先を振り上げた――
……出来るのか? 私に。
迷いのせいで振り上げた切っ先がカタカタと震える。自分は荒野をなくすために能力者になったはずだ。こんな無抵抗の人間を斬るために剣を取った訳では無い。
だが、ここで自分が刃を振り下ろさねば、その振り上げた刃は敬愛する師に降りかかる事になる。己の信念と、師の命。その狭間で揺れ動くエレナの耳の奥で知っている声が響いた。
――お前が死ねばいいじゃないか。
自分の声のようで、クロエの声にも聞こえるし、ラジェフのようでもある。
誰の声か分からない。だが、妙に納得できる言葉だ。その言葉がやけにストンと腑に落ちた。
……そうか。悪夢を終わらせるのなんて簡単だったんだ。
そう思った瞬間、エレナの瞳から光が消えた。何度も繰り返し、その度にこの男を殺せずラジェフを処刑台に送ってしまった。だが自分にこの男を殺す事は出来ない。
ならば己の命を、代わりに差し出せばいいだけではないか。
「不思議と晴れやかな気持ちだ」
虚ろな目で呟いたエレナが振り上げた切っ先を下ろし、刃を己の首にあてがった。それを黙って見ているクロエも、止めようとしないラジェフも……普通ではあり得ない事に、エレナは気がつくことすら出来ない。
あとはこの刃で己の頸動脈を掻き斬るだけ……そう思っても、なかなか腕が動かない。この期に及んで死を恐れているのだろうか。何とも情けないともう一度腕に力を込めるエレナの脳裏に、声が響いて来る――
――アンタ、強いな
――アタシ達三人、売出し中なんだー。
――ぼ、僕は大した事ないけど
「フェン…アデル、ラルド」
瞳に光が戻ったエレナが呟いた瞬間、世界が黒く染まった。眼の前の男も、それを庇う少女も、そしてクロエもラジェフも……全てが黒く染まり、エレナの耳元で絶望を囁き始めた。
「お前が殺したんだ」
「お前が変わりに死ねばいい」
「アンタ達が攻めてきたから」
耳元で響く怨嗟の声に、「ごめんなさい」エレナが耳を覆い蹲る。それでも止まぬ怨嗟の声に、再びエレナの瞳から光が失われたその瞬間……
「……歌?」
……塞いでいる筈のエレナの耳に、懐かしくも心強い歌声が響いてきた。何処かで聞いたことがある……あれは、どこだったろうか……
怨嗟の声を掻き消す様な歌声に、徐々にエレナの瞳に光が戻って来る。そんなエレナの瞳が捉えたのは、怨嗟渦巻く暗い空間にポツンと見える光。それを頼りにエレナは覚束ない足取りでゆっくりと前に進みだした。
まとわりつく怨嗟を払い、ゆっくりだった足取りは今は既に駆け足に――息を切らせてエレナが辿り着いたのは……
「とび…ら?」
どこか見覚えのある木で出来たレトロな扉だ。それをゆっくりと押し開けると――
「あ、エレナさん! いらっしゃいませ!」
目に飛び込んできたのは、リリアと彼女の店だった。リリアに導かれるまま、席についたエレナ。そんな彼女を不思議そうな顔でリリアが覗き込んだ。
「……私の顔に何かついているか?」
「いえ、なんだか辛そうな顔をしていたので」
そう言って「ごめんなさい」と頭を下げるリリアはまるであの日のようだ。そんな彼女にエレナは小さく笑って口を開いた。
「少々……道に迷ってな」
そう言いながら窓の外に目を向けたエレナ。昏く何も見えない窓の向こうでは、今も怨嗟の声が渦巻いているのだろうか。
「そうなんですね。じゃあ、暫くゆっくりして行って下さい」
それ以上は何も聞かないリリアは、再び別の客の相手をする為に、エレナから離れていった。あの日と同じような光景だが、少しだけ違う。どうやら記憶が混同しているのだろうか。
差し出されたグラスをエレナが傾けた時、ドアベルを上品に鳴らして入口が開いた。
「全く……天気は悪いし、問題児ばかりだし、散々だ」
「でも、そこが可愛いのでしょう?」
入ってきたのはサイラスとクレア。あの日にこんな光景は無かったはずと、エレナが固まった。
「おや、エレナくんも雨宿りかね。君がいないと問題児ばかりで大変だよ」
笑顔を見せたサイラスが、手を挙げて席へとつくのとほぼ同時、再び扉が開いて今度はフェン達三人が顔を見せた。
「あー! やっぱりここにいた!」
「よ、よかったー」
「探したぜリーダー」
笑顔の三人が奥へ行くと、次は――
「待たせたな〜」
「……誰も待ってない」
「入口で止まるんじゃねーよ」
――ダンテ達一行だ。その後も、
「あら、エレナさんも優雅にお食事ですか?」
「酒場で優雅もなにもねーだろ」
エミリア一行と、
「わ、わわわ私のような愚図がエレナさんと一緒の店でお食事とは……」
「皆で食べれば楽しーよ!」
騒がしいノエル一行まで顔を見せた。
あの日、この店に皆が集合したことなどない。いや、今まで一度だってない。これは何の記憶だろうか、とエレナが困惑した表情を浮かべて、賑やかな皆を見回した。
そして再び入口の扉が、今度はけたたましく開かれた。
「ぎぃぃぃぃええええ! ご勘弁を!」
「こんのバカノン! さっさとそのアホ毛にお別れをだな――」
転がり込んできた騒々しい二人に、エレナは初めて笑みをこぼした。
「君達はいつも煩いな」
ここに来て初めて笑顔を見せたエレナに、ユーリが「元気溌溂といいやがれ」と言いながらも嘲笑めいたいつもの笑顔を見せる。
賑やかだ。知らぬ間に自分の周りはこんなにも賑やかになっていたのか、とエレナがもう一度皆を見回した時――
「ボクの事、忘れてない?」
――耳に吐息がかかる程近くで聞こえる声に、エレナは慌てて振り返った。そこにはヘラヘラと笑みを浮かべるヒョウの姿。
「き、君はいつもいつも!」
顔を赤らめるエレナだが、ヒョウの向こうでゆっくりと扉が開いた。そこから顔を出したのは……
「クロエ……」
口を真一文字に結び、腕を組んだクロエの姿だ。
「エレナ……私はお前を許していない」
その言葉にエレナが小さく頷く。
「だから、さっさと帰ってこい。お前にはまだまだ言いたいことが沢山あるんだ」
そう言ってニヤリと笑うクロエに、「ああ」とエレナも頷いて立ち上がった。クロエが開けたままの扉に、その向こうに見える怨嗟渦巻く深淵にエレナはゆっくりとだが、真っ直ぐ向かって歩いていく。
……もう、迷いはない。
帰るべき場所を思い出したから。ラジェフが繋いでくれた命を思い出したから。だから――クロエの脇を通り抜けるエレナが一旦立ち止まり、店の中を振り返った。
「皆、少し待っててくれ。直ぐに帰ってくる」
皆に笑顔を向ければ、全員から「行って来い」という激励が届いた……一部「帰ってこなかったら、お前の料理は俺のもの」だとか言う声が聞こえたが、リリアに頭を思い切り叩かれていたので、気にしないでいてやろう、とエレナはもう一度笑った。
踏み出した先は、再び怨嗟が渦巻く深淵だ。だが不思議と怖くはない。なぜならエレナの頭の中には、怨嗟に負けぬ懐かしい声がずっと響いているから。
――リリアって言います。
銀髪の女性は自分に出来た二人目の親友だ。
――君がラジェフの秘蔵っ子か。
隊長に良く似た落ち着いた男性は頼れる皆のリーダーだ。
――ぎぃぃぃえええええ!
桃色の少女は最初から煩かったな。
――よお、
女好きのくせに、私を本気で口説いた事はなかったな。
――クラウディア先輩じゃありませんこと?
負けず嫌いだが、可愛げのある後輩。
――わ、わわわ私に近づかないで
仲良くなるのに一番時間がかかった気がする。
――名前が短え。やり直しな。
君というやつは……。
――【戦姫】のねーちゃん。
エレナ。私の名前はエレナだと言っただろ。
――エレナ!
クロエ、大丈夫だろうか。
――誰に向かって言っている?
そうだな。君は、いや私達なら大丈夫だ。
――君達は、僕にとって希望なんだよ。
……隊長。貴方が繋いでくれた私の人生を、貴方は笑って見てくれているでしょうか。
全てを思い出したエレナに迷いはない。ラジェフは無駄に命を散らしたのではない。エレナを守って……エレナに夢を託してくれたのだ。
……だから私は進まねばならない。
思い至ったエレナが、泣き笑いのような顔で、
「「死ね、今ここで死ね!」」
タブって喋る二人を前に、エレナが刀を構える。
「二人の姿で、二人の声で、勝手なことを言うな」
眦に涙を浮かべたエレナが「隊長……ありがとうございました」そう呟いて、二人の幻影に向けて刃を一閃――
ガラスが割れるようにヒビが入り、ガラガラと音を立てて崩れていく黒い世界。同時に崩れ落ちていくラジェフが、先程とは違い柔らかな笑顔を浮かべてみせた。
「……強く、なったね」
その言葉に「まだ、隊長には及びません」とエレナが泣きながら頭を振った。
「直ぐに追い越せるさ……クロエくんと二人で」
「隊長……」
震えるエレナの言葉に、ラジェフは全てを分かっているように大きく頷いた。
「……帰りなさい。仲間の場所に。私は何度でも君達を救おう。君達二人は、私が見つけた希望なのだから」
微笑むラジェフが光の中に消えていく――同時に光に包まれるエレナは、ラジェフが居た方向に頭を下げた。悪夢の最後に現れ、最期まで道を示し続けた偉大な師に……。
頭を下げ続けるエレナを優しい光が包みこんでいく。
※リリアに歌って貰っているのは、勝手ながらエレナのテーマソングにさせて頂いている Choosing Hope(FF15戦友メインテーマ)と言う曲です。
こちらもぜひお楽しみ頂ければ。
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