第19話 喧嘩の時はネクタイを外せ

 イスタンブールの下層に所狭しと立てられた無数の建物。旧時代の物から、新しく立てられた物まで――それらが作り上げるのは、巨大な迷路のような無数の路地だ。


 あまりに多い路地の数に、魔導灯の数もそれを稼働させる魔石の数も足りていない。そのため奥に行けば、それぞれの路地が交差する場所に申し訳程度に魔導灯が点在するのみだ。


 それでもまだマシな部類であろう。本当の路地裏まで行けば、昼でも夜の様に暗く、夜ともなれば星の光すら無い深淵と化すのだから。


 そんな深淵に向けて、ユーリとそれを取り囲むマフィアたちは歩いている。


 既に街灯の数も少なく、先程通った交差点の街灯など今にも切れそうに明滅を繰り返していた程だ。


 少し前を歩くハット男、その後を取り巻き五人に連行されるように歩くユーリ。


 昨日の今日で連行続きとは、とユーリ自身溜息が出るのをこらえるのに必死だ。加えて、店を出てから既に10分程は歩いているだろうか。正直気持ちも強い。


「どこまで行くんだよ……」


 呆れ声のユーリに、「黙ってついてこい。殺すぞ」とマフィアの一人がドスの聞いた声で囁いた。


 既に通行人とすれ違う事もなくなっているので、囁き声で脅す必要があるのか分からないが、裏手とは言え建物の近くだ。住人が居るかも知れない以上、大声で脅すのは良しとしないのだろう。


 正直言ってユーリからしたらマフィアの脅しより、ちゃんと知っている道に帰れるかどうかの心配の方が大きい……と言うかその心配しか無い。


 一応目印っぽい建物は覚えてきたが、途中から暗いし似たような建物ばかりだしで正直自信が無いのだ。


 最悪屋根伝いに帰るしか無いが、あまり目立つことは避けたい。


 そんな不安から、キョロキョロと周囲を伺うユーリに


「今頃ビビっても遅いぞ?」


 右隣のマフィアがニタニタと笑いながら声をかけてくる。


「うるせぇ、話しかけんな」


 ユーリとしては、今まさに道を確認している最中なのだ。訳の分からない脅し文句などに意識を割いている暇はない。


 そんなユーリの態度が気に食わなかったのだろうか、「テメェ、調子に乗ってると今直ぐ殺すぞ!」とドスの聞いた声を上げたマフィアの一人がユーリの右肩を掴んだ。


 瞬間、ユーリの左手がそれを掴み――


「うるせぇ、ってんだろ。二度も言わせんな三下が」


 大外から回されるユーリの右腕。

 相手の肘を右腕で極め、一気にへし折る。


 乾いた音が暗い路地に響けば、相手の悲鳴も待たずにユーリはそのままマフィアを引き摺り倒した。


「ぐぁああ――」


 地面に強かに打ち付けられ、初めてマフィアが痛みに悲鳴を上げれば、それに気がついたハット男が暗がりでこちらを振り返った。


「う、腕が――」

「耳障りだ」


 冷たく吐き捨てる言葉と同時に、ユーリが漢の顎を踏みつけた。


 骨が潰れる鈍い音が、石畳を砕く音に混じって響く。


 地面に減り込み、身体を痙攣させるマフィアAに、他のマフィアが呆ける中、ユーリがその髪の毛を掴んで顔面を持ち上げた。


「アゥ……グ」


 男の声にならない苦痛の声と、顔についた小石が落ちる「パラパラ」という乾いた音が不気味に響いた――


「良かった……


 笑いながら男を地面に放りだしたユーリが、その腹を蹴り飛ばした。


 ボールの様に跳ねてハット男の足元に転がった取り巻きA。その様子にハット男だけでなく、残りの取り巻きマフィアも「テメェ」と漸く臨戦態勢だ。


「もういいだろ? 


 殺気立つマフィアを前に、ユーリが首を鳴らして手招き一つ。


 ユーリとしては店の前でなければどこでも良かったので、相手がついて来いというのに従っていただけだ。

 店からも十分離れたし、もうこの辺りで殺しても良いだろう、と


「テメェ……調子に乗るのも大概にしろよ」


 ハット野郎から溢れる濃密な殺気が、路地裏を冷たく満たしていく――


「うるせぇな馬鹿が。ここまで黙ってついて来ただけ、ありがたいと思え」


 そんな殺気を受けても、涼しい顔のユーリ。「殺してやるからさっさと来い」とまで口走るものだから、ハット男以下マフィアの怒りはマックスだ。


「お前ら、殺さない程度に痛めつけろ――」


 怒りに震えるハット男の声が合図だったように、ユーリを囲んでいたマフィアが一斉に襲いかかった。


 暗く然程広くない路地で、前後左右から襲い来るマフィア。


 その拳がユーリに届こうかという瞬間、ユーリが跳躍。


 宙で上下を入れ替えたユーリ。

 右手で後ろにいたマフィアの頭を抑え込み、そのまま宙返り。


 一瞬で位置が入れ替わったユーリとマフィアB。

 包囲から抜けられたマフィアの誰かが「逃がすな!」と声を荒げれば――


「誰が逃げるかよ」


 笑ったユーリが未だ背を向けているマフィアBの背中を蹴り飛ばした。


 つんのめり、前方から向かってきたマフィアCと打つかるマフィアB。


「この野郎!」


 もつれる二人を避けるように、路地の幅ギリギリの横合いからマフィアDがその拳を振り上げ――


「テレフォンパンチが過ぎるだろ」


 ユーリの右拳が僅かにブレれば、「ガハッ――」とマフィアDが悲鳴と鼻血を撒き散らしてその顔を仰け反らせる。


 顎が上るマフィアD。

 その翻ったネクタイを、ユーリの右手が掴んで引いた。


 ネクタイに引っ張られ、前傾姿勢のマフィアD。

 その鼻っ柱に叩き込まれるユーリの左拳。

 骨と肉が潰れる鈍い音。


 と同時にユーリがネクタイから右手を放せば――


 マフィアDが仰け反り、間合いが開く。


 打ち付けた左拳の勢いそのままユーリが回転。


 マフィアDへの攻撃と、残りは三人をほぼ前方に見据える攻防一体の後ろ蹴り――


 くの字に折れ曲がって吹き飛んだマフィアDと壁が轟音を響かせた。


 その音に「テメェ!」と左斜め前方からマフィアEがユーリに掴みかかる。


 マフィアE渾身のタックル。

 ユーリは跳躍でそれを軽々と越え、マフィアEの背中に手をついて再び位置を入れ替えた。


 その目の前には、衝突から復帰したBとC。

 鼻息の荒いマフィアBが、ユーリを殴ろうと間合いを詰めながら大振りの右フック――


 鼻先に迫るマフィアBの拳。


 それをスウェイ――するユーリの後方で、体勢を整えたEが「もう逃げられねぇ――」口を開いた瞬間、ユーリはスウェイどころか、


 不意に倒れ込んできたユーリを「な、なん――」受け止めてしまったマフィアE。


 鼻先を通過するマフィアBの拳。

 身体を預けたままユーリの右ハイキック。


 マフィアBが吹き飛ぶ先には、またもやマフィアC。


 再び縺れ合った二人が地面に転がれば、ユーリは左足を引くと同時に後腰をマフィアEへと押し付けた。


 支えていたユーリに押され蹌踉よろめくマフィアE。


 振り返りざまにそのネクタイを左手で掴んだユーリ。

 引き寄せながら鳩尾に右肘を叩き込んだ。


 マフィアEの口から漏れる苦悶の声。


 左手のネクタイを更に引き

 突き刺した右肘を上へ突出せば、マフィアEの身体が宙に浮く。


 それを引っくり返すように地面に叩きつければ、路地裏に何度目かの轟音が響き渡った。


 目の前に残ったのは、縺れ合いから復帰したマフィアC一人だ。


「く、クソッタレ!」


 マフィアCが懐からダガーナイフを引き抜きざまに、ユーリへと突き出した。


 ユーリに迫るマフィアCのナイフ。

 当たる寸前でユーリは体を開きながら右のジャブ。


 ユーリの胸スレスレを通過する切っ先。

 ジャブで上がるマフィアCの顎。


 ネクタイが翻れば見逃すユーリではない。


 右手で掴んだそれを思い切り引っ張れば、マフィアCの頭が引っ張られ――顔面に突き刺さったのはユーリの左膝。


 失神し、仰け反るマフィアC。

 その眼の前で捩じ込んだ膝の勢いをユーリが

 ユーリの左後ろ回し蹴りが、マフィアCの頭を壁にめり込ませた。


 ピクピクと痙攣するマフィアCの手からナイフが滑り落ちる。


 ――カラン


 ナイフの立てる乾いた音が、やけに煩く路地裏へ響き渡った。


「さて……と――」


 小さく息を履いたユーリがナイフを拾い上げ、とばかりにダメージの少なそうなマフィアBの顔面を踏み抜いた。


 骨が砕ける音に悲鳴は混じらない。


「殺さない程度に痛めつけてやったぞ――」


 笑うユーリが、暗がりで呆けるハット男へナイフを投擲。


 頬から流れる血を拭ったハット男が「ち、調子に乗るなよ……」上擦った声を路地裏へ響かせた。










 街灯もない路地裏のその奥の奥――


 普段から人の気配はなく、賑やかな通りの声が遥か遠くから聞こえてくる。そんな静かな場所だ。


 いつもは静寂と暗闇が支配するそこに、つい先程から「ヒューヒュー」とよく分からない音が微かに響いている。


 暗闇に眼を凝らすと、たたずむ人影が一つ。


 暗がりでゆらりと、その人影が動いた。その人影が口を開くと――


「人の飯を邪魔するようなバカにはよ――」


 どこか穏やかなユーリの声。


「本当はもっとにやりてー所なんだが。俺も色々と忙しくてな……悪いがお前にははやれねぇよ」


 笑顔のユーリが暗がりに手を伸ばし、何かを掴み上げた――


 僅かな布ズレと、ポタポタと何か液体が落ちるような音。それと――


「ヒュー……たじけ――ヒュー」


 ユーリが掴み上げたそれは

 薄暗くよく見えないが、ユーリに掴まれている顔面は原型を留めておらず、絞り出された悲鳴は潰れた喉と砕けた顎のせいで、ほとんど声になっていなかった。


「たじけ? 何だ? よく分かんねぇよ」


 人型の何かを掴み上げたまま、その左手をコキコキと鳴らすユーリ。


「淋しくねぇように、取り巻きも後から直ぐに送ってやるからよ――ハット野郎」


 その手をハット野郎と呼んだ人型へと突き出――


「待て! ユーリ!」


 不意に名前を呼ばれて、ユーリの貫手ぬきてがピタリと止まった。


「……オリハルコンねーちゃんか……何のようだ?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る