焼き鳥「大衆」
東京・吉祥寺駅前のハモニカ横丁。
そこに大学生の頃によく通った焼き鳥屋があった。
店の名を「大衆」と云う。
店に入ると吊るした太鼓をドンドンドン……と叩いて、初めてのお客を驚かせ、常連たちはそれを聞いてほっとする。当時からハモニカ横丁でも個性的で有名なお店だった。「ああ、あの店か」と当時のハモニカ横丁を知る人は多いはずだ。
店内は狭くカウンター四、五席。階段下のわずかなスペースにも小さなテーブルと椅子があってそこに五席くらい。
客席部分は三畳もなかったのであるまいか。二階に上る階段は狭く、しかも足を滑らせると無事では済まない急勾配。その先にある宴会部屋もせいぜい六畳くらいだった。
学生時代、毎週のようにサークル仲間と飲んで騒いで、時には深刻な話をした思い出のある場所だった。
二階でどたんばたんと騒いでマスターが注意しに来たことも何度かあった。サークルの先輩が代々贔屓にしていた店だったので多少の無理は聞いてくれたように思う。
店内にトイレがなかった。
周辺の店もまた似たような敷地面積なので、やはりトイレなし。だからハモニカ横丁の店が共同設置したトイレが少し離れたところにあった。特に女性用トイレは店主に申告してカギを借りた。今では考えられないようなシステムだ。
ふと思いだすマスターとの思い出。
ある夜、閉店までひとりで飲んでいたら、マスターに誘われて閉店後の吉祥寺を歩き回ったことがあった。大学生相手にマスターは何を思って誘ってくれたのか判らない。
でもマスターが身の上話をちょっとしてくれて、まだ小さなお子さんがいるのだと聞かされた。そのために店の稼ぎで子供をしっかり育て上げるのだと言っていた。そのことが妙にはっきりと記憶に残っている。
戦後昭和の雰囲気を残し続けた店だった。
最後にこの店を訪れたのは2004年、年号が平成になって16年のことだ。
大学を卒業して18年も経っていた。
その日ふと思い立って嫁さんと二人で訪れたら、顔を見るなりマスターが「XXさん(私の名前)が奥さん連れて来てくれた!」と喜んでくれたのを思い出す。名乗る前だったのに覚えていてくれたのだ。店は何一つ変わっていなかった。マスターがちょっとだけ年取ったように見えるくらいだった。
その帰り際にお土産と称して五千円ものじゃこ天を買わされたのはいい思い出だ。学生時代は散々安い酒とつまみだけで何時間も粘ったので、社会人になってその罪滅ぼしか。
そしてその8年後、名物マスターが亡くなった。2012年のことだ。
ネットに残る常連客の書き込みによると、実に35年も続いた店だという。1977年ごろに店を始めたことになる。そんなに古いとは知らなかった。同時にアップされていた店内の様子や日本酒のカップ、名物のレバ刺などの写真が懐かしさを呼び起こす。
あのレバ刺だけはマスターが作る以上のものに出会えなかった。
もう一度食べたかったがもう叶わない。
五十を超えた頃から、そういうものがだんだん増えてきた。
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