ウィンチェルシーの思い出

ヤギサンダヨ

ウィンチェルシーの思い出

 イギリス英語研修の引率は、私にとって楽しい仕事だった。要は高校1年生たち数十名をイギリスの系列校に連れて行くという「誰にでもできる簡単なお仕事」だ。現地に着いたら、あとは向こうのスタッフがすべて生徒たちの世話をしてくれる。もちろん、授業もイギリス人教員が行うので、私の仕事はほとんどない。せいぜい日本へ報告書を送るとか、写真を撮る程度で、あとは1カ月半の間、近隣を散歩したり、夜はパプへ通ったりしてのんびりしていればよい。たまに病人やケガ人が出て病院へ連れて行ったりもしたが、そんなことはめったにない。タダで飛行機に乗れて、ロンドン観光もできて、花粉のない春を遊んで過ごせる。しかも、給与の他に1日あたり3000円の海外勤務特別手当まで支払われるのだから、はっきり言って、こんなおいしい仕事はあまりないだろう。

 滞在先はケント州といって、イギリス南東部の田舎町である。ここに私が勤務する私立学校の海外研修校が3つあった。一つはフォークストン、一つはブロードステアズ、一つはカンタベリーという所である。カンタベリーは立派な聖堂が聳える有名な観光地だ。休日ともなるとフランス側からドーバー海峡を渡ってたくさんの観光客が訪れる。フォークストンとブロードステアズは、それぞれカンタベリーから1時間ほど鈍行で揺られた位置にある。やはり避暑地のような存在で、まあ日本で言えば伊豆みたいなところだ。立地的にも、ロンドンまで快速列車で2時間ほどかかるから同じ感じだ。修善寺がカンタベリーだとすると、伊東がフォークストンで下田がプロードステアーズってところだろう。

 私は20代のころから10回くらいこの引率に行ったので、3校ともすべて制覇した。この地方の観光については「現地人より詳しい」という時期さえあったぐらいだ。さらに、長い年月をかけて行き来してきたため、それぞれの町の変化というものも目の当たりにした。

 特に、最初にカンタベリーに滞在した1900年代の終り頃は、一昔前の長閑な田園地帯の雰囲気が印象的だった。電車の駅なんかも、まだ腕木式信号機が現役で使用されていた。今でこそユーロスターがフランスまで貫く新路線や新駅ができたが、当時のカンタベリーウェスト駅はロンドンからはるか彼方にある地方路線の田舎駅だったのだ。ユーロスターは少し手前のアシュフォードというところで線路が分岐するのだが、当時はそのアシュフォードにもレンガ造りの機関庫や給水塔が残っていた。ロンドンのチャリングクロス発でこちら方面に向かう鈍行列車は扉も手動式で、なぜか内側には把手がなく、降車の際には窓を開けて手を出して外側の把手をまわすという意味不明の構造になっていた。そういえばその扉も、各シートごとに一つずつついているという、これまたナゾの造りだった。

 その列車は、アッシュフォードで前後に切り離されて、違う路線を通る。こういった複雑な運行の割には案内が適当だから、最初にロンドンからこの列車を利用したときは乗り間違えて焦った。というか、ブロードステアズ方面行き列車のはずなのに「アシュフォードで乗り換えろ!」と言っていたチャリングクロス駅員の言葉の意味が、列車が切り離されて出発した後に知れた。このころは駅の運行掲示板もなかったし、アナウンスもロクにしてくれなかった。もちろん発車ベルなんて存在すらしない。

 イギリス英語研修の週末、多くの生徒たちはホームステー先のホストファミリーと遊園地やショッピングへ出かける。そうでないカレッジに残っている生徒も、日直の現地スタッフが面倒を見てくれる。だから私はフリーである。もっとも、引率中はほぼオールフリーだったが、一応勤務中なので平日の遠出は遠慮していたのだ。

 最初にイギリスに来て、カンタベリーに滞在した時の何度目かの週末、私はさらに田舎のほうへ一人で出かけたことがあった。カンタベリー駅からアッシュフォードへ行き、そこでライ方面行きのディーゼルカーに乗り換えた。ライもなかなか人気の観光地だが私の目的地はその一つ手前の無人駅、ウィンチェルシーだった。古い町並みがそのまま残っているのはライと同じだが、もっと田園風景が楽しめるという噂を聞いたのだ。

 朝の10時頃だったろうか、比較的空いているディーゼルカーのボックスシートに陣取って出発を待っていると、向かい側の席から現地のおっちゃんが話しかけてきた。イギリスでは電車で他人に話しかけるのは別におかしなことではない。日本から来たとか、仕事で生徒を引率してきたとか、簡単な英語で通じることだけ話した。おっちゃんは釣りが趣味で、今日はこちらの方面に鰻を捕りにきたらしい。「イールという単語のつづりを知ってるか?筆記体で書くと、まるで鰻そのままさ。ガハハハ。」みたいな陽気なおっちゃん。足元に釣り竿とビクのようなものを置いていた。

 そこから2、3駅、30分程だったと思うがよく覚えていない。ウィンチェルシー駅に降り立ったのは私一人だけで、無人の短い木製プラットホームが陽に照らされてとても明るかった。季節は5月。イギリスでもっとも気持ちの良い時期だ。踏み切りを渡って、村のある丘を目指す。辺りは一面の菜の花畑だった。5月のイギリスは、車窓や高速道路からあちこちに黄色い絨毯が見える。先週末の遠足のバスの中で、「あれは菜の花。オイルを抽出するのよ。英語ではレイプフラワーって言ってね、そう、レイプ。つづりもいっしょよ、ホホホ。」と、女の先生が教えてくれた。

 駅から十数分歩いて、木製の橋が架かった小川を渡り、崩れかけた石門を抜けて坂道を登り、教会と博物館しかない村の中心部に到着した。私はたくさん写真を撮った。当時のメインカメラはCanon F-1だったが、広角50ミリを装着した中判カメラ、ハッセルブラッド500Cもサプ機として持って行っていた。ここぞという時には、このサブのハッセルで高精細な撮影を試みていたわけだが、この村の教会や菜の花畑は、ハッセルで何枚も撮った。

 この時撮影した菜の花畑の作品は、その後長い間、先に紹介したフォークストンの学校の玄関ロビーに、立派な額入れて飾られていたのだが、現在は法人が建物を手放してしまったのでどうなったことやら。青い空と白い雲、そして緑の丘と黄色い菜の花の写真は、我ながら良いデキだと思っていたが、今になって考えてみれば、イギリス人にとっては見慣れた景色に過ぎなかったかもしれない。

 同様にこの頃のイギリスで私たち日本人があっと目をとめるに違いないのが、ブルーベルだ。こちらは紫色で、その名のとおり小さな鐘のような形の花が、薄暗い森の中一面に咲いてとても幻想的なのだが、こちらもイギリス人にとっては日本の花大根、(別名諸葛菜)程度にしてか思っていないかもしれない。もっとも数年後キューガーデンに行った時、売店でブルーベル模様のハンカチや飾りを売っていたから、イギリス人にもやはり美しく見えていたのかと少々ホッとした。

 さて、ウィンチェルシーの丘に戻ろう。そう、前述したとおり、この村は丘の上にあり、中央には古い石造りの教会がある。そして周囲は墓地になっている。だから中央といってもひっそりしていて、人影はなかった。私が訪れた日は天気がよくて風もなく、暖かい日差しが教会の壁や墓石に白く反射していた。

 教会の隣には同じく石造りのミュージアムがった。ミュージアムと言ってもおみやげ屋に毛が生えた程度で、もちろん私の他には観光客はいない。入り口付近に立っていると、いつのまにか小柄なじいさんが近寄ってきて、町の歴史をペラペラと話し始めた。私は英語がそれほどできないので、半分くらいは何を言っているか分からなかったが、だいたい次のような内容だった。

「今は遠くまで畑になっているがね、昔はこの丘のすぐ下まで海だったんじゃ。フランスとの戦いのときにはひどい砲撃を受けて、ほら、そこの教会の壁なんか今でもそのときの跡が残っているだろ。この教会はステンドグラスが綺麗だから後で中に入って見てみるといいよ。もちろん自由に入ってかまわないさ、教会は皆のものなんだから。ただ、ハトが入らないように扉をちゃんとしめておいてくれよ。」

 このおじさんが係の人なのか、地元のボランティアなのかは分からなかったが、私は言う通りに教会に入ってステンドグラスを見学した。ステンドグラスも見事だったが、教会のひっそりとした雰囲気は印象的で、木の長椅子や石壁には村人の長年の祈りまでもが感じられるような気がした。もちろん入り口の重たい扉は、見学後しっかり閉めておいた。

 おみやげ屋に戻って新婚の妻のために、ドライフラワーの飾りがたくさんついた大きな帽子を買った。それからやってきた方角とは反対側の坂道を下って、坂の下のパブに立ち寄って地ビールを注文したところまでは覚えている。そのあとはたぶんぐるっと遠回りして駅へ向かったのだと思うが、少し飲みすぎた地ビールと数十年の時が過ぎたため、はっきりとは覚えていない。のどかな春の一日だったことだけは確かだ。

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