帰れない二人
春雷
第1話
夜は過ぎ、朝が来る。
暗かった空は東の方からだんだんと白んでいき、新しい今日を世界に届ける。
今日も宇宙は続いている。
今は夏だが、朝は冷える。ジャンパーでも持ってくればよかったと後悔した。
歩道橋。
僕と彼女は、真下を通る車を見るとはなしに見ていた。
彼らの行き先はどこだろう。
「ねえ」
彼女は、僕を見ずに、言う。
「やっぱり、帰りたくない」
一緒に暮らしている妹と喧嘩した。きっかけは些細なことだったと思う。妹は僕の人生観や、生活態度や、人間関係や、性格や、趣味嗜好など僕に関するあらゆることを否定した。僕の何が妹をそこまで怒らせたのか。僕にはよくわからない。毎日一緒に暮らして、顔を合わせているのが嫌になったのかもしれない。あるいは、何か嫌なことがあって、僕に八つ当たりをしていたのかもしれない。いずれにせよ、妹の機嫌が過去最高に悪かったことは確かだ。
僕は部屋を出た。玄関を出る時、「帰ってくんな」という妹の声が聞こえた。僕は苛立って、殴ってやろうかと思った。でも人を殴ってはいけない。暴力はいけないことだ。そう訴えかけてくる理性の声に、素直に従った。怒りに身を任せても状況はきっと良くならない。
怒りが空気中に分散していくのを待っていると、入れ替わりで悲しみがやってきた。妹が抉った僕の傷を癒すように、涙が溢れ出てきて、心を浄化していった。泣きながらアパートの階段を下りていく。何て惨めなんだろう。
僕は二十二歳。
時刻は午後六時。
友達もいない。恋人もいない。
行き場などない。
金もない。
ネットカフェか、安いホテルに泊まるか、あるいは公園で過ごすか。
クソッタレな夜になりそうだった。
惨めだ。
そんな自分に酔っている自分、が少しだけいて、それが気持ち悪かった。
酒が飲みたい。
わかりやすい快楽に溺れたい。
安っぽいご都合主義の物語。僕が欲しているのはそれだ。出会う人物全員が僕に惚れて、尽くしてくれる、みたいな。笑っちまうような非現実的な物語。妄想空想でしか成立し得ない話だ。
現実はいつだって現実的で、僕如きが思い描く夢や空想が、現実に叶うものではないということを定期的に知らせてくる。その度、僕は現実の残酷さに傷つき、落ち込み、消えてしまいたいと思う。
思うだけで、実行はしない。
その勇気がない。
勇気?
いや違う、僕はまだ何かを期待しているのだ。
こんなに打ちのめされても、まだ。
自分の人生に、何かを。
大学受験に二度失敗し、大学入学を断念したのが、二十歳の時。つまり二年前だ。親は仕方がないよ、と諦めた口調で僕を慰めようとしたが、落胆していることは明らかだった。僕にはエリート街道を歩いて欲しかったのだろう。しかし僕は、勉強が不得意だったし、出世できるほど世渡りがうまくなかった。
高校生の頃にはまだあった、生きる情熱が、この受験を機に完全に失われた。
密かに抱いていたミュージシャンになる、という夢も、どうでもいいものになった。音楽について学ぶうちに、自分の才能のなさに気づいたし、努力しない自分にも腹が立った。音楽を作る度、自分のどうしようもなさに気づかされる。地獄のような作業。作る度下手になっているように思えた。絶望感。全てがどうでもよくなっていった。
受験は失敗。音楽もダメ。
もう生きる意味がない。
抜け殻のような人生。
実家にいるのが嫌になって、アパートを借りて一人暮らし。
ただバイトして、帰って、寝るだけ。
それだけの日々。
楽しくない。
去年から専門学校に入った妹が僕のアパートに引っ越してきた。
生活の変化。
しかしそれもすぐに慣れて日常となる。
単調な生活。
同じことの繰り返し。
繰り返し、繰り返し、繰り返し。
いいことも悪いこともない。
生命の浪費。
少しずつ死んでいく。
寿命を削る。
生きていることは身体に悪い。
生きることは死んでいくこと。
不健康極まりない。
楽しくない。
モノクロ。
死。
朝、昼、夜、朝。
繰り返し。
僕は何を期待している?
人生が劇的に変わる瞬間があると、まだ信じているのか?
嘘だろう?
飲み屋街。その路地裏。たまに行く居酒屋。僕はそこに足を運んだ。酒を飲みたかった。とにかく何も考えたくない。意識を混濁させたい。そうすればクソみたいな思考を断ち切れるかもしれない。
しかし、入り口で立ち止まる。居酒屋に一人で入るのか。躊躇う。世間体を気にしているのだ。そう、世間体。僕はいつもそいつに苦しめられてきた。実体のないそいつに。
やめようか。
そう思い、振り返る。
「おぼろろろろろ」
後ろでゲロを吐いている女がいた。
居酒屋の前にある空き地の草むらに吐いている。飲み過ぎたのだろうか。
長い黒髪。スーツを着ている。背が高い。僕と同じくらいの身長だと思う。百八十センチくらいか。
眼が合った。
切れ長の猫のような眼をした女だ。年齢は二十代後半といったところか。
「君、ちょっと」そう言って、彼女は僕に来いと手で示す。
僕は、はあ、と溜息をついて彼女に近づく。
「何ですか」
「一緒に水を買いに行ってくれない?」
「何で僕が。てか、水ならどこかで買ってきますよ。ここで待っていてください」
「いや、一緒に行こう」
「はあ……、まあ、いいですけど。コンビニでいいですか」
「コンビニでいい」
彼女はよろよろと歩き出す。辛そうだ。時々おえっと吐きそうな声をあげる。まったく、大人なら自分のアルコールのキャパシティーくらい、把握しておいてほしいものだ。
僕は先を行っていた彼女に追いつき、横を歩く。
「飲み過ぎは駄目ですよ」と僕は言う。
「わかってる……」彼女はちらりと僕を見て、「君は高校生?」
「そんなガキに見えますか? もう二十二です」
「大学生か」
「いや、フリーターです」
「ああ、そう……」
「そっちは、会社員ですか?」
「教師」
「教師ですか」僕は驚いた。
「非常勤だけどね。英語を教えてる」
「へ、へえ……」
「そうは見えないって?」
「いや、何も言ってませんけど」
「あ、そう」
夜の飲み屋街は騒がしい。あちらこちらで酔客の愉快そうな声が聞こえる。あらゆる問題を棚上げにしたような、ある種のから騒ぎ。
それは僕も同じか。
それから五分ほど歩いて、コンビニについた。
ペットボトルの水を二本買って、彼女に渡す。
「ありがと」と彼女は言って、ぐびぐび水を飲んだ。「はあー」
「じゃ、僕はこれで」
そうして立ち去ろうとしていると、彼女が僕を呼び止めた「ちょっと待って」
「え?」
「公園行こう」
「公園?」
「高い場所にある公園」
「どうしてですか」
「行きたいから」彼女は笑う。
「いや、でも僕とあなた、今日初対面ですよね」
「だから?」彼女は僕の眼を覗き込む。綺麗な眼だった。
「だからって……、まあ、そうですね……。断る理由もありませんけど」
「じゃ、行こうよ」
「……わかりました。僕、ビール買ってきてもいいですか」
「いいじゃん。飲もうよ」
「あなたはもうやめといた方がいいんじゃ……」
「吐いたらすっきりしたから大丈夫だと思うけど」
「……」
「ちょっと。ちょっとだけだから」彼女は手を合わせる。
はあー……、と僕は溜息をつく。「わかりましたよ……」
公園は高台にあった。僕と彼女はぜいぜい言いながら坂道を登り、ようやくそこに辿り着いた。
風が気持ちいい。
公園は広い。遊具はほとんどなく、ベンチとトイレがある程度。残りの空間を埋めるのは芝生だ。
公園からは街が見下ろせる。百万ドルとまではいかないが、なかなか素敵な景色だった。いつも見ている街も、角度を変えれば違って見える。きらきら光る街。遊園地に来たような胸の高鳴りを感じた。少年に戻ったみたいな感覚。
彼女はベンチに腰かけて、僕が買ったビールを飲んでいる。懲りない人だ。
「こっちに座りなよ」彼女はベンチを軽く叩く。
僕は彼女の横に、少しだけ距離を空けて座った。
「星、見えないね」と彼女は言った。
「眼を凝らせば見えますよ」
「眼、悪いんだよねえ」
星は街の明かりに消されている。そこにいるはずなのに、まるでいないかのよう。存在しているのに、認識できない。不思議なものだ。あるはずなのに、見えない。
しかも星が届けている光は、何年、いや、何十年、何百年も前の光だと言う話だ。すでになくなった星の光が、こちらまで届いているのかもしれない。しかしその光は、今は見えない。
僕も缶ビールを開ける。プシュ、という小気味いい音。一口飲む。冷たい液体が喉を通っていく。
風が吹いた。
木々がそよと揺れる。
「帰りたくないな……」と彼女は言った。
「何か……、あったんですか」
ふふ、と彼女は笑って、「まあね」と言った。
「彼氏とさ、一緒に住んでるんだけど、彼が……、浮気っていうか、ちょっとね……。最近仲がよくなくて。会話も少ないし、私に対して態度悪いし、みたいな。むかっと来ちゃってさ、色んな事をわーって言っちゃって……」
「……なるほど」
「今日はもう帰ってやるもんかって、決意して、友達と居酒屋で酒を飲んで、愚痴言って……」
「その友達はどこ行ったんですか?」
「男捕まえてホテルに行った」
僕は苦笑した。
「その友達、どうかしてますよ……」
「だよねえ」
恋愛がらみの話は、僕にはよくわからないが、彼女の帰りたくないという気持ちには、とても共感できた。
「僕も、妹と喧嘩しちゃって」
僕は自分のことを彼女に話した。初対面の人にこんな話をするなんて、と自分でも驚いたが、初対面だからこそ話せたのかもしれない。あるいは、彼女が先に、僕に傷を見せてくれたからかもしれない。
「そうか、君も帰りたくないわけだ」
「ええ……」
「人生、色々だね」
「月並みなセリフですね」
「酔うと人は月並みなことしか言えなくなるものだよ」
「まあそうですけど」
ゆっくりと時間が流れた。夜は次第に深くなっていく。今が何時なのか、もうわからない。僕らは喋り、黙り、また喋って、そして飲んだ。ただそれだけの時間だった。
空は少し曇って来た。月も星も見えない。
雨が降りそうだった。
「どこかで雨宿りしましょう」と僕は言った。
「そうだね……、じゃあ……」
そう言って、彼女が指さした場所は……。
城のような外装。内装は普通のホテルに近かった。お洒落で綺麗。もっとピンク色の光で満ちているイメージがあったので、少々拍子抜けだ。
僕らがいるのは、ラブホテルの一室。
僕らは公園の近くにあるラブホテルで、雨宿りをすることにしたのだ。今日はここで一夜を明かす。お互い、家には帰りたくないから……。
「映画でも見よっか」
彼女はそう言って、テレビをつけた。リモコンでチャンネルを選択している。しばらくしてホラー映画が流れ始めた。
「ホラーですか」僕は言う。
「ホラー嫌い?」彼女はビールを一口飲む。
「ちょっと苦手ですね」
「どうして? 楽しいよー、ホラー。幽霊とかが駄目なタイプ?」
「幽霊は見たことないから怖くないですけど、ほら、急に飛び出してきたりとか、びっくりさせる演出あるじゃないですか」
「ああー、突然、幽霊が鏡に映ってたりとか」
「そういう驚かせるようなやつが苦手ですね」
「それちょっとわかるかも」
「高校生の時、お化け屋敷に初めて行ったんですけど、あれはお化けどうこうというより、急に飛び出てくるのが恐ろしいだけですよ。驚かせるのがお化けじゃなくて人でも十分怖い。まあ結局お化け屋敷のお化けは人間ですけど」
テレビでは女が不審な男からの電話に怯えていた。
「なんかさ、こう、むしゃくしゃした時はホラーみたいな過激なやつ見たくない? 殺人鬼が人ばんばん刺していくようなやつ」と彼女は言う。
「ジェイソンみたいなやつですか」
「そうそう」
「うーん。何となくわかりますけど、僕はホラーあんまり見ないので」
「じゃあ、普段何見てるの?」
「映画はあまり見ないですけど……、強いて言えば、SFが好きですかね」
「どういう系? 宇宙とかのやつ? スターウォーズみたいな」
「いや、ETみたいなやつが好きですかね」
「なるほどねえ」
映画の中の女は不審な男からホラーに関するクイズを出されていた。僕には答えられない。
「私さ、洋楽や洋画が好きだったんだ」と彼女は言った。「中学くらいかな。天邪鬼っていうか、逆を行ってみようみたいな性格で、邦画や邦楽は駄目だ、みたいな」
「ああ、ありますよね、そういう時期」
「うん。それで英語を必死になって勉強して。洋楽や洋画に詳しい自分、みたいなものに酔いたかったのかもしれない。私の居場所は日本じゃなくて海外にある、みたいに思い込んでて。でも結局、留学して気づいたのは、日本が合ってるっぽいなーってことと、私って日本が結構好きだなってこと。日本っていうか、自分の生まれ故郷が好きだなって」
「そういうものですか」
「そういうものだね。だからさ、愛しいものから一度離れてみるってのも重要なことかもしれない。離れてみて、初めて気づくこともある」
「そう……、ですね」
「私、彼氏のことまだ好きみたい」彼女は画面を見ながら言った。殺人鬼が女を刺していた。悲鳴が上がる。「……やっぱり、好きみたい」
僕は缶ビールを飲み干して、「ホラー見ながら言うセリフですかそれ」と言った。
「確かに」彼女は笑った。
「僕も」
「うん?」
「僕も妹のこと、嫌いじゃないみたいです」
「……そっか」
しばらく沈黙が流れた。映画は進み、高校生たちが殺人鬼の噂について話し合っていた。
「今日さ、私、彼氏に仕返ししてやろうと思ってたの」
「仕返し、ですか」
「うん」
「男に抱かれてやろうって思って」
「ええ⁉」僕は飛びのいた。
「ふふ……、でもやっぱやめとく」
「その方がいいですよ」
「あ、君、もったいないことしてるよ? チャンス逃してる」
「いやいや」
「じゃあ何で一緒にここに来てくれたの? 下心一切なし?」
「いや……、それは」
「まあでも、君とはちょっとそういう感じじゃないな」
「僕もそう思います」
「あっそ」
「何でちょっと不機嫌になったんですか」
ふふ、と彼女は笑った。
「でも、今日は楽しかったよ。いいリフレッシュになった」
「それならよかったです。僕も……、いい気分転換になりました」
「それはよかった」
それから何本かホラー映画を観て、眠って、夜が明けた。僕らはホテルを出て、家路につく。
彼女が最後に少しだけ話そうと言って、僕らは歩道橋で立ち止まった。
歩道橋の下では、車が走っている。
「ねえ」彼女は言った。「やっぱり、帰りたくない」
「……どうしてですか」
「何となく」
「気まずいってことですか」
「まー、そう」
「でも、まだ好きなんでしょう?」
「そうだけど、好きだからこそ許せないこともあるし」
少し肌寒い空気が頬を撫でる。
空が明るくなっていく。
もう、朝だ。
「もう、朝ですよ」と僕は言った。「新しい今日を始めなくちゃいけない」
「そうね……」
「僕も……、これから変わってみようかな、って思います」
「就職するってこと?」
「いや、それはまだわからないですけど、やっぱこのまま腐っていくのは駄目かなって」
「……そっか」
「ええ、だから……」
「私も帰れ、と」
「そんな乱暴な言い方ではないですけど」
「わかってるよ、そんなこと。でも、ちょっとだけこの心地よさを感じていたいなって」
僕も同じ気持ちだった。
けれど、どれだけ夜を引き延ばそうとしても、結局、自動で朝は来る。
人生で何度目の朝だろうか。
繰り返しの日々を抜け、新しい気持ちで世界を見ることができたのなら、それはどんなに素敵なことだろうか。
たとえば、今、この瞬間がそうなのかもしれない。
繰り返しを抜けるチャンスなのかもしれない。
「帰るべき場所……か」彼女はそう言って笑った。「ちょっと仰々しいかな?」
それから僕と彼女は別れた。電話番号も交換せずに。
きっともう、会うことはないだろう。
彼女もそう思っていたに違いない。
名前も知らない彼女……。
時々、彼女は今、どこで何をしているのだろうかと想像する。
でも、近頃はそうやって想像することも減った。
僕らはみんな旅人で、いつか生まれる前にいた場所に帰るその日まで、どこかに向かって旅を続けているのかもしれない。
いつかどこかに辿り着く、その日まで。
今はまだ、
帰れない。
帰れない二人 春雷 @syunrai3333
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