第2話 ゼロからのスタート


 暗い内に帝都をひっそりと抜け出した俺は、ひとまずこのエルグランド帝国を抜けて隣国であるインサール王国を目指して歩いている。

 ただ、これから隣国に行かなければならないというのに俺の手持ちの荷物はほとんどなく、暗殺者としての足がついてしまいそうなものは全て地下に置きっぱなしにし、爆弾によって焼却してしまった。

 俺は腰に身に着けている小さなホルダーをまさぐり、なけなしの今の手持ちを確認する。


 いつだかに賃金として受け取った銀貨三枚。

 勇者を殺した際に使った小刀とは全くの別物の、刃こぼれしていて少し錆びた鉄の短剣。

 水を入れることができる便利な革袋。

 そして――クロが俺を解放する際に手渡してくれた偽造身分証。


 名前はジェイド・クローンと書かれており、出生地に年齢、それから俺の顔写真まで張り付けられている精巧に作られた偽造身分証。

 顔写真以外は俺の情報ではなく、このジェイド・クローンという人物は元々存在していた人物であり、クロが大量の金銭と引き換えに命ごと身分を買い取った人物のもの。


 ……金が手に入っても死んだら意味がない。そう思う人も多数いるだろうが、自分の命と引き換えに大金を欲している人間は裏の世界ではそう珍しくない。

 家族が大病を患っている者、大家族故に食っていくことにすら困っている者、家族が抱えた多額の借金を返済しなければいけない者。


 そんな人間達から臓器や身分を買い取り、必要としている人間に斡旋するという仕事もクロは行っていた。

 その仕事の一環で作られたのがこの偽造身分証で、『ジュウ』という番号で割り振られた呼び名しか持たずこの世に生きているという証明がない俺は、これから『ジェイド・クローン』という人に成り代わって生きていくことになる。


 まるで寄生虫のようなものだが、何の充てもない知らない国で生きていくためには絶対に身分証は必要。

 余計なことは考えないようにしつつ、俺は偽造身分証を再びホルダーに戻して歩く速度を上げたのだった。

 

 動物や魔物、虫を捕まえて食糧難をなんとか凌ぎつつ、帝国を目指して南下していくこと約三日が経過。

 俺はエルグランド帝国とインサール王国の国境へと辿りつくことができ、そして――無事に偽造身分証を使ってインサール王国へと入国することができた。


 ちなみに偽造身分証は少しも怪しまれることなく、想像していたよりも何倍もあっさりと入国検査を突破でき拍子抜けしている。

 あの程度の検査ならば、精巧な偽造身分証じゃなくとも突破できたのではないかと思ってしまうが……とにかく入国できたのだから深くは考えないようにしよう。


 長年過ごした帝国の地から、自由の国と呼ばれているインサール王国へと足を踏み入れた俺。

 インサール王国は様々な人種が暮らしているらしく、無職のはぐれ者である俺でも幾分か過ごしやすいであろうと考えて移住先を王国に決めた。


 ただの“殺しの道具”だった俺が‟普通の人間”として生きていくため、どこかの街に滞在し生活するところから始めてみようか。

 何があるか分からないため国境近くの街は避け、紛れやすいように人が多く住んでいて栄えている街が良い。

 木を隠すなら森の中。隠れるのに最適なのはより多くの人が住む街。

 王国に入国できたがもう少しだけ歩くことを決め、俺は再び歩みを進めたのだった。



 インサール王国に足を踏み入れてから、更に三日が経過した。

 身を隠すために最適な街を探しながら歩き続け、ようやく俺のお眼鏡にかかる街を見つけた。


 街へ入るためだけに、商人やら観光客やらが長蛇の列を作っている街。

 なんという名前の街かは分からないが、非常に栄えているのが見ただけで分かるため身を隠すのにはうってつけの街と言える。


 早速街へと入るため、俺も長蛇の列を成している最後尾に並んで入門検査の順番を待つ。

 街に変な人間を入れないように身体検査と身分の確認を入念に行っているようで、列の進みはかなり遅くこの長蛇の列を考えると相当な時間がかかりそうだ。


 暗殺者だった時ならば潜入するという手段を取っていただろうが――今は時間にも人にも追われていない何のしがらみもない状態。

 待つという行為自体は馬鹿らしいと思ってしまうが、一般人らしく順番が回ってくるの大人しくを待つとしようか。


 長蛇の列に並び始めてから一時間ほどで、ようやく俺の番が回ってきた。

 鉄のフルプレートに鉄の剣を帯びている兵士が、高圧的な態度で俺に話しかけてきた。


「荷物を全部見せろ。身分証は持っているだろうな?」

「持っている」


 ホルダーから偽造身分証を取り出し、変に逆らうことはせず身分証を左の兵士に。

 俺の全ての持ち物が入っているホルダーを右の兵士に手渡した。


「けっ、しけた荷物だな。体もなんかきたねぇし、行く当てがなくて来たのか?」

「ああ。職を探しにこの街に来た」

「へっへっ、やっぱりそうか。おっさんに親切な忠告をしてやるが、まずは見た目からどうにかした方がいいぞ。そんな小汚い恰好じゃどこも雇ってくれないだろうからな」

「助言をくれて感謝する」

「……うーん、身分の方は問題ないな。ちっ、入っていいぞ。くれぐれも問題を起こすなよ」


 ここでも何も問題がないと判断されたようで、ホルダーと身分証を返された後に入門の許可を貰った。

 助言をくれた右の兵士は口は汚かったものの手を振ってくれているため、俺は軽く頭を下げてから街の中へと入ったのだった。


 今の兵士たちを見てなんとなく思ったが、職業の一つとして兵士もいいかもしれない。

 暗殺者として鍛えた技術が表の舞台で活かせる職の一つだし、俺には合っている気がする。


 ただ今までが今までだっただけに、戦闘とは一切関係のない職についてみたいという気持ちもある。

 戦闘職だとボロを出してしまう可能性もあるしな。


 まぁ選択肢はより多い方が良いに越したことがないし、残りの人生を良い人生にするためにも慎重に決めよう。

 若い兵士を見てそんなことを考えつつ、俺は久しぶりの人の住む街へと入った。


 街の中は活気で溢れており、日の光も合わさって綺麗に輝いているように思えた。

 暗く殺伐した世界で生きてきた俺にとっては眩しすぎる世界。


 暗殺者として働いていた時は夜に活動することがほとんどだったため、こういった光景を久しぶりに見た気がする。

 変なところで感動的な感情を抱きつつも、とりあえず宿屋を探すところから始めようか。


 地下牢で生活していた俺にとっては路上生活でも全く問題ないのだが、人間らしく生きていくためには宿屋に泊まることは絶対。

 社会経験のない無職の小汚いおっさんなんて、ただでさえ雇ってもらえる可能性は低いのに、路上で生活しているとなれば可能性は皆無となる。


 とにかく安い宿を探して、ひとまずの拠点を手に入れてから職探しを始めよう。

 安い宿がありそうな場所といえば……俺は人で賑わっている場所を避け、暗くじめっとしている方向へと歩き出した。


 人の行き来が少なく、治安の悪いところの方が色々と値段が安いと聞いたことがある。

 記憶の片隅にあったどこぞの誰かが言っていた情報を信じて歩を進めていくと、宿屋街のような場所へと出た。


 昼間のせいか人通りは少なく、ピンク色の店構えの風俗店やラブホテル等が立ち並んでいる通り。

 看板には大きくピンク街と書かれており、予想していた通り治安の悪い場所へと出てきたようだ。


 居心地が良いとはお世辞にも言えないが、元の仕事柄こういった裏の場所は慣れている。

 違法風俗店に潜入して暗殺したこともあるし、性行為中を狙って暗殺したこともある。


 昔の懐かしくもあり嫌な記憶を思い出しつつ、俺はとある一軒の宿屋の前で立ち止まった。

 ピンク通りにあるのに、ボロいけれど見た目はごく普通の宿屋。


 店の前に出されている看板には、一泊銅貨三枚と書かれていた。

 古く汚いし、周りはピンク一色で治安も悪そうだが値段がとにかく安い。


 俺の手持ちは銀貨三枚しかないが、銀貨三枚でも十泊もすることができる。

 まだ一軒目だが、部屋さえ空いていればこの宿屋に決めてしまうとするか。


 別の宿屋を探すことはせず、俺はピンク通りにある古く汚い宿屋の中へと入った。

 建物の中は外観以上に汚く、掃除をしているのかどうかも怪しい内装。

 それでも地下の金属牢よりかは全然マシなため、入ってすぐ見えたフロントにて話を伺いに行く。


「いらっしゃい」

「世話になりたいんだが、部屋は空いているか?」

「ああ、空いているよ。何泊するんだい?」


 何泊……か。全く決めていなかったけど、とりあえずは手持ちの分で泊まれる十日は取っておこうか。


「とりあえず十日。大丈夫か?」

「もちろん大丈夫さ。十日分の料金は前払いにするかい? それとも一日ごとに支払うかい?」

「前払いで払わせてもらう」


 俺は銀貨三枚を取り出し、受付に立っていたおばさんに手渡した。

 これで十日はこの宿で寝泊まりすることができる。

 そしてこの十日間の間に職を見つけ、衣住食がまともに行えるだけの金を稼げるようにならないとな。


「はい。確かに銀貨三枚頂いたよ。シャワーは裏手から外に出たところにあるから好きに使っとくれ。共用のものだから雑に扱わないでくれよ。部屋の番号は三〇一号室。階段を上がってすぐの部屋」

「分かった。感謝する」


 部屋の鍵を受け取り、おばさんに感謝の言葉を伝えてから早速部屋へと向かった。

 いつ底が抜けてもおかしくない激しく軋む階段を上り、渡された鍵の部屋の前に立って開錠する。


 鍵を開けても尚、開きづらい扉を押し開けて部屋の中へと入った。

 換気をしていないからかカビの臭いが鼻を衝いたが、全然許容範囲内の部屋。


 カッピカピでぺったんこの布団に古びたランプ。

 錆びついた窓に、申し訳程度の水漏れした洗面台がついた小さな一室。


 一般的に見れば酷い部屋なのだろうが、俺からしたらテンションが上がってしまうぐらいにはちゃんとした部屋と言える。

 任務で金属牢以外にも宿屋で寝泊まりをしたことはあるが、殺しの仕事が絡まないというだけでこうも気持ちの持ちようが違うとはな。


 あの時は一切気が抜けなかったし、心が休まるタイミングは金属牢に戻ってからだった。

 ただ、金属牢では体が休まらないという矛盾が孕んでおり、心身ともにゆっくりと休めるのはこの部屋が初めてかもしれない。


 まぁ職が決まるまでは休んでいる場合ではないんだが、少しくらいはかまわないだろう。

 錆びついた窓をこじ開け、新鮮な空気を取り込んでからぺたぺたの布団に横になる。


 長旅での体の汚さが気になりはするものの、体が重力を逆らうことができなかった。

 職探しは明日から行うとして――今日は初めて全てを忘れて眠るとしようか。



 翌日の朝。

 何の警戒もせずに眠ることができ、蓄積された疲労が全て取れたと思うほど快適な朝だ。


 錆びついた窓をこじ開け、少し冷たいが新鮮な空気を取り込みつつ、荷物をまとめて共用のシャワーへ向かう準備を整える。

 今日の予定はシャワーを浴びて汚れを洗い流したあと、色々な店を巡って雇ってくれる店を探す。


 社会経験なしの三十代後半の無職。

 更に使い古された少し臭い地味な服に、髪型も乱雑に切られただけの無精ひげ面で清潔感も皆無ときた。


 正直まともな店で雇ってもらえるか分からないが、何事も行動に移してみないと分からない。

 どこも駄目となれば、兵士や冒険者といった少しでも暗殺者としての経験が活きる職を探す。

 気合いを入れるため頬を思い切り叩いてから、俺は着替えと布を抱えて共用シャワーへと向かった。

 


 数日ぶりのシャワーを浴びて身をスッキリさせたところで、早速雇ってもらえる店を探しに行くとするか。

 目星は何もつけていないため、とにかく視界に入った良いと思った店に入って交渉を行っていく。


 宿屋のあるピンク通りから離れ、昨日は忌避した人で賑わっている大通りを歩いて進む。

 武器屋、鍛冶屋、防具屋、道具屋……。


 元暗殺者という職業柄、どうしても戦闘に関わる店に目が行きがちになってしまっているが、できるだけ関係のない職業から探していきたい。

 思わず見てしまう意識外の誘惑を振り切り、俺はとりあえず適当に目の前にあったパン屋から入ってみることに決めた。


 客の入りはそこそこ。焼きたてのパンの香ばしい匂いが鼻孔を擽り、朝食はおろかここ数十日まともな飯を食べていない俺の腹をぐぅーと鳴かせた。

 何でもいいから一つだけ買ってみたい衝動にも駆られたが、手持ちの金は全て昨日宿屋の受付で支払ってしまったため、俺の今の手持ちは正真正銘のゼロ。

 この店で一番安いであろう、銅貨一枚の袋いっぱいに入ったパンの耳すら買うことができない。


「あ、あの……。な、何かありましたでしょうか?」


 店に入り、パンに触れることなく凝視していた俺を見て、不審に思った様子の店員が話しかけてきた。

 年は二十代前半の若い女性の店員。不審者だと思われているらしく、これでもかというほど眉を潜めている。


「実は仕事を探していて、雇ってくれないかと思って入ってみた」

「し、仕事ですか? ……ここであ、アルバイトをしたいということですか?」

「あるばいとがよく分からないが、働く代わりに賃金を頂きたい。文字通り何でもやるから雇ってくれないか?」


 俺は若い店員にそう頼んだのだが、おどおどした様子で返事をしてくれない。

 しばらくの間沈黙が流れ、若い店員の額に大粒の汗が噴き出始めたタイミングで、店の奥から大柄の男の店員が出てきた。


「おいっ! うちの従業員になんか用があんのか! ああ!?」

「て、店長。ち、違うんです。お、おちつつ」


 俺の胸倉を掴み、いきなり宙へと持ち上げてきた大柄の店員。

 若い店員も止めてくれているが、声が小さいせいもあって一切耳に届いていない様子。


 手首の関節を外し、この状況からの打開を図ってもいいんだが……真っ昼間の注目を浴びている状況で荒業での打開は好ましくない。

 そもそも、暗殺業とはかけ離れたことをやりたいという理由からこの店を尋ねた訳だし、自衛のためとはいえ攻撃するのはよくないな。


「……少し落ち着いてくれ。俺はその店員に話を聞いただけだ」

「何の話を聞いたってんだ! ナンパなら他所でやるんだなぁ!」

「なんぱ? 俺はここで働かせてくれないかを尋ねただけだ」

「くだらない嘘を吐いたって無駄だ! どちらにしたって従業員なら間に合ってんだよ! 殴られたくないなら、とっとと帰るんだな!」


 大柄の店員はそう告げると、胸倉を掴んだまま俺を外へと放り投げた。

 それから両手をはたくような仕草を見せてから、俺に当てつけるように扉を勢いよく閉めた。


 受け身を完璧に取ったからダメージはゼロだが、一件目から酷い目にあったな。

 俺の見た目があまりにもよくないのか、それともあの大柄の店員が早とちりな性格なのか。


 後者だと思いたいが、若い女性の店員も自棄におどおどとしていた。

 笑顔が苦手だし、清潔感がない上に暗い雰囲気なのが悪いのかもしれない。


 だからといって、今からどうこうできる訳ではないため、俺のありのまま姿で雇ってくれる店を探すしかないな。

 幸先の悪いスタートに深いため息を吐きつつ、俺は諦めずに次なる店を当たってみることに決めた。


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