彼を解く

鳳梨

彼は暗号

 下駄箱を開けると、暗号がひとつ。

 

 私はそれを丁寧につまみ上げる。

 紙片に書かれた平仮名四文字の暗号は、いつもの挨拶を示していた。


『かひらえ。』


 私たちは月毎に変わるルールに従って、暗号で会話をしている。何故そんな面倒臭いことをしているのかと問えば、答えは単純明快、私たちの関係が露呈しては困るからである。若しくはより単純に、この暗号でのやり取りを楽しんでいるからというのも答えの一つなのかもしれない。

 上履きに履き替えて昇降口を上がる。教室に向かう間、必要ないかとは思うが一応、暗号の「検算」をする。


 今月のルールは

「五十音を一文字戻す」

 というもの。

 詰まる所、「い」は「あ」を指し、「ゆ」は「や」を指し、「あ」は「ん」を指す。但し、小さい「つ」等は大きい文字に直して扱い、濁点、半濁点は無視する。

 それに沿って「検算」をすると、『かひらえ。』は――。


『おはよう。』


 それだけだ。今日もそれだけ。やっぱり「検算」は必要なかったな、とさっきの私を振り返る。教室に着いて、ドアを開けて、『かひらえ。』の挨拶をした。

 席に向かう途中、彼の机の横を通り過ぎる。瞬間、ふわっと彼の柔軟剤の香りが鼻腔を撫でた。その感触に今日も彼を感じながら、自席についた。

 もう付き合って3年になるだろうか。新しい環境に慣れず右往左往していた私を、彼は優しくリードしてくれた。彼は何でも教えてくれた。授業のこと、部活のこと、この高校のことをたくさん。私が何か尋ねれば、一を十にして返してくれた。不思議と、それに倦む事もなかった。きっとこれが巡り合わせというものなんだと、今はそう勝手に思っている。

 この関係になったのも、私が勝手に彼の優しさに——そのクールな眼差しと爽やかな笑顔には惹かれなかったと言えば、私は法螺吹きになるのだが——惚れたからだ。いつだって恋は勝手なものだと言われればそれまでだが、連絡先を訊いたのも私だったし、告白をしたのも私だった。

 だから、彼がどう思っているのか分からなかったから、こんな不可思議な約束をも交わしてしまったのだろう。


 ある日、家に来たとき突然彼は言った。

「学校にいる間は、暗号で話しませんか?」

 と。

「……どういうことですか」

「そのまま、ですけど」

 暫く沈黙が流れた。彼は私の顔をじっと見ていた。まるで小動物を観察しているかのように。私はその間に彼の言わんとすることを理解しようとしたが、その前に彼が口を開いた。

「あの、僕たちの関係がバレたらまずいじゃないですか。お互いに困るかなって。だから、学校ではあまり喋らない方がいいかと思って……だから、せめて筆談で、内容が漏れないように暗号で、と、思って……」

 声は段々自信無さげになっていった。もう最後の方は息が漏れる音だけになっていた。彼の視線は膝に落ちていた。けれど、私は嬉しかった。そのとき初めて彼の思考の一片が顔を出した気がしたから。それに、何だか面白そうだと思った。暗号で会話だなんて、漫画のようで憧れもあった。

「いいですよ」

 しかし、私の声色がどのように響いたのか、彼は恐る恐る上目遣いになって言った。

「……あの、無理はしなくていいんです。あの……すみません、忘れて下さい」

 また、視線が膝に落ちた。だから私は彼の視線に手を振って顔を上げさせ、距離を詰めて言った。

「本当です。面白そうです、暗号。二人だけの秘密って感じで」

 でも、まだ彼はどこか不安げで、怯えているように見えた。

「いや、本当に、嘘じゃないんです」

 私の声だけが部屋に残った。数秒経って、もう一度何か言おうとしたとき、彼の唇が微かに動いた。

「あの……目が、怖いんです」

 ……へ?

 彼の眼に映る景色を見ると、そこには眉間に皺が寄った私の顔があった。

「あ、ご、ごめんなさい」

 脊髄反射的に私の視線が斜め後ろに逸れた。ああ、真剣になると顔が怖くなるこの癖が憎い——。

 ふっ、と、吐息が漏れる音がした。

 無論、私のものではない。徐に視線を前に戻すと——彼が笑っていた。

 思考が停止した。彼の自然な笑顔なんて見たことがなかったから。

「あの……どう、したんですか。間抜けな顔、してますよ」

「……そちらこそ、どうして笑ってるんですか」

 そう尋ねると彼はまた、ふっと優しく笑って「いや、」と続けた。


「いや、北桑きたくわ先生は可愛らしいな、と思って」



 あのときから、彼——柏原かしわばら先生に抱く情は、憧憬的な恋慕から親愛的な恋慕へと遷移した。それはお互いにとって、いい変化だったのだと思う。実際、あれ以来ぐっと、本当にぐっと距離が縮まり、双方の両親に認知されるくらいの関係にはなった。

 それでもやはり彼の思考の全ては見通せない。たまに下駄箱に暗号が入っているかと思えば、中身はいつも『おはよう。』だけ。それなのに——。

「北桑先生、これ、お願いします」

 顔を上げなくても分かる。声の主は彼、柏原先生だと。差し出された紙片を、小さく「はい」とだけ返事をして受け取る。その紙片に目を落とすと、そこにあったのは意味不明な平仮名の羅列だった。

 ——それなのに、こういう「中身」がある暗号に限っていつも手渡してくる。今日もまた、例外ではなかった。こういう暗号こそ下駄箱に入れればいいのに、と私は微かに呆れながらも、それを素早く解読する。


『ひつすぬ、えつぬ。』

 

 五十音を一文字戻すから、「ひ」は「は」。「つ」は「ち」。「す」は「し」……。

 つまり、『はちしに、うちに。』

 意味が通るような文にすると、


『八時に、うちに。』

 

 カレンダーに目を遣る。今日は六月三十日、金曜日。夜更かしをしても問題はない。私は、


『るらえきう。』

 

 と定型文を書いて彼に手渡した。

 手渡してから、『了解。』くらいそのまま書いてもよかったかな、と思った。



 夜ご飯は、彼が作ってくれた。珍しく「ステーキを買ってきた」なんて言って。「手伝おうか」と声を掛けても、「大丈夫だからゆっくりしてて」と返されるのみ。手持ち無沙汰になってしまった身を二人掛けのソファに預けて、ステーキの出来を待った。

 肉を焼く音が静かな部屋に響く。同時に、食欲をそそる匂いが漂ってきた。「下味はシンプルに塩胡椒だけなんだ」と、どうでもいいと言っては何だが、やはりどうでもいい事実を彼は何の前触れもなく発した。私は料理に無知な故に何と返したら良いのか分からず、結局「美味しそうだね」という定型文しか出てこなかった。「赤ワインもあるよ」という言葉には、「酔わせる気か」と冗談めかして——いや、彼は本気かもしれないが——あしらった。

 しかし、と逆接表現を使うのも何だが、彼の焼いたステーキは驚くほど美味しかった。さては「美味しいステーキの焼き方」なんて検索をしたのではないかと、少々ひねくれた考えを持ってしまう。でも、そんな彼も好きだな、と惚気のろけた。


 夕食が片付いてからも、残った赤ワインに彼が適当に作ったおつまみを添えて話し続けた。小皿とグラスが空になる頃には、時刻は零時を回ろうとしていた。

「来月の暗号、どうしようか」

 彼は二人分の食器を片付けながら言った。

「今月が『一文字戻す』だったから、『二文字戻す』とかでいいんじゃない」

 などと私が言おうとしたとき、

「今月が『一文字戻す』だったから、『一文字進める』とかでいっか」

 と独り言のように完結させられてしまった。まあ、別にいいのだが。

 彼はふと壁の掛け時計を見て、テレビ台の上にある小さな収納箱から何かを取り出した。

 紙片、のようだった。

「今日って何月何日だっけ」

 そう問いながら歩いて来る。

「六月三十日だと思う。もうほぼ七月だけど」

「じゃあ、これ。今月最後の暗号」

 そう言って、さっきの紙片が手渡される。


『くちけをさつ』


 二人しかいないのだから直接言えばいいのに、とまた彼の思考の迷路に入ってしまったが、彼が妙に真剣な顔をしているので、私も真剣に解読をする。

 一文字戻して、「き」、「た」、……。

「きたくわこち……」

「さん」

「へ?」

 何故、名前を、と視線を上げると、彼は誠実な瞳で私を真っ直ぐ射抜いていた。

「北桑小智さん」

 意図が知れない。彼は暗号だ、などと呑気に考えた。

「……はい」

 彼はまた掛け時計を見上げた。ゆっくりと、でもいつも通りの速さで秒針は他の二針に重なった。

 とんとん、と私が手にしている紙片が指差され、視線を戻す。

「もう一回」

 と、彼は小さく呟いた。もう一回と言っても、『北桑小智』のままじゃ——ない。

 今は、七月一日。

 ——来月の暗号、どうしようか。

 ——今月が『一文字進める』だったから、『一文字戻す』とかでいっか。

 はっとして、もう一度例の文字列を見る。

『くちけをさつ』

 これを一文字進めると、

「 、 、 、 、 、 」

 目を見開いて彼を見る。「ください」と彼は息を漏らした。

 手にはいつの間にか、小さな箱を携えて。

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