第26話『陰流邪報剣』
月が怪訝そうに少し傾いている。
風魔小太郎こと、滅びし北条家の元家臣、尾白仁左衛門との戦いから、少し時間が経ったころあいだ。
闘争の気配をなくした藤斬丸と風魔小太郎は、「さてどうしたものかな」と宗章を顧みて、思いのほか面白そうな表情の彼から「蕎麦でも食いに行くか」と促され、少し南の川辺に河岸を変えるため歩いたのだ。
「のっぺり坊主の噂のせいか、夜泣き蕎麦もとんと見かけなくなっておったが」
蕎麦を丼からふた切ればかり摘まみ喰うと、宗章は並んで腰かけた小太郎にフフと笑う。その妖怪のっぺり坊主は、張り合わせた甕の底をかぶり直し、器用に蕎麦を食っては、熱い汁をすすっている。
ふたりとも、腰かけているのは防火用水を組み置くために誂えられた水桶で、みっつばかりあるそれをひとつずつ逆さまにして腰かけている。
桶には持ち手の部分があるので、下にしているその部分のせいか安定はしないのだが、一本下駄に乗る天狗のように揺るぎがない。
ズズと汁をすすりながら、「噂を撒けば、食いつく輩がいるかと思うてな」と、小太郎。甕の底に押し当てられてるとしか見えない丼から汁が垂れてもいない。どこに消えてるのかと疑問に思うが、あの半分削がれた口から胃の腑へ消えているのだろう。
藤斬丸も「あの口で、物が食えるとは」と邪推するが、言葉には出さない。こちらは防火用水の大きい水瓶の蓋に座り、足をぶらぶらさせながら蕎麦をつまんでいる。
「あの、お代を」
と、この蕎麦を供した夜泣きの男が、屋台の陰でびくびくとしている。
のっぺり坊主本人と、女侍。このふたりはまだいいが、宗章をこそ、この蕎麦屋の主人は怖がっている様子であった。
宗章にちらりと見られ、思わず男が一歩後退る。
「藤」と宗章。
「甕顔」と藤斬丸。
「なんだ、負けた俺が三人分払うのか。――」と、懐から銭を出す小太郎。
よかろうと、桶に座ったまま小太郎は主人を呼び、ちゃりちゃりちゃりんと、数えながら彼の手のひらに銭を落としていく。小太郎が三人分払い終えると、「ヘェ、確かに」と、また彼は宗章を遠巻きにして屋台の陰へと隠れる。
「おやじ、もう一杯くれ。――」
それを逃がすまいと宗章が空の丼を差し出し、箸をかちゃかちゃと鳴らす。さすがに忍者は隣から苦笑交じりに肘で小突く。
「二杯目は自分で払え。俺がしたのは一敗だからな」
「足柄山の大将が面白いことをいうのは構わぬが、小さいことをいうなョ」
「お前には負けておらんからな」
「じゃあ今度だな。――」
……と、差し出した丼をふるふると催促する。箸を咥え、小銭を渡す。
おっかなびっくりな主人が受け取り二杯目を作り始めると、「さて」と仁左衛門が空になった丼を膝に抱えながら、何から話そうか、と独りごちる。
「いや、何から聞こうか、ともいえるな。お主ら、喘月をどのように手に入れた」
「まあ、有り体にいえば、厄介払いされてな」
腰の喘月をポンと叩きながら破顔する武士。
無貌の忍者、甕顔、尾白仁左衛門こと末代風魔小太郎は、ことのあらましを聞くことになる。
柳生宗章が喘月を帯びるに至った経緯は、宗章が知る情報を包み隠さず伝わったことになる。
これには藤斬丸が渋い顔をしたが、止める様子はなかった。
「なるほど
小太郎が蕎麦屋に丼とともに銭を渡す。二杯目である。
「わしは、
「その話、難しい話か」
「うぬ。――」
風魔小太郎が主家の滅亡と、それに係わってきた毛利輝元の陰謀をとつとつと語ろうとした矢先、柳生宗章は待ったをかける。
かけられて小太郎は思わず考えこみ、「うむ。まあ、込み入った話ではあるな」と自信なさげに唸る。
「すまんな、この男、難しい話が分からぬのだ。説明したところで右から左、頭にあるのは酒と食い物と剣のことのみ。許してやってくれ」
藤斬丸からも申し訳なさそうに謝られると、さしもの風魔小太郎も二の句を継げずに頬を――甕顔のそのあたりを、かりかりと掻く。
「短く。わかりやすく。その蕎麦がふやけぬうちにたのむ」
「今この世に、俺より開いた口がふさがらぬ男はそうおらぬだろうよ」と、二杯目の蕎麦を受け取った小太郎。顔を削がれた身でいわれると笑うほかはない。宗章は苦笑しながら肘で小突いている。
もっとも。
もっともな話、柳生宗章にとって、やるべきことは喘月の解呪に他ならない。そのために、過去の使い手たちを斬るのが役目だ。ありていにいえば、毛利輝元なぞどうでもいいのだ。
「端的に、か。よかろう。そうさな――」
情報報告の取捨選択は忍者の必須
「風魔滅亡の実行中枢にいた、当時の喘月の使い手たる興徳弥八郎を仇と定め狙ったが、返り討ちにあった」
と、顔の真ん中の部分をトントンと指で叩く。
「顔削御免。――」と、静かに藤斬丸がひとりごちる。
「左様。弥八郎はこの風魔小太郎が必殺の技を、そのまま喘月で返してきおった。哄笑とともに、宣言しておった。『カオソギゴメン……陰流邪報剣』と。――」
じゃほうけん。
その音の文言を『邪報剣』と書き当てたのは、まさに因果応報、同じ技で仕留められかけた小太郎の直観であっただろう。
「その傷で、よォ生きておったな」
「人の死は、心の臓と肺の腑、そしてこの脳みその恒久的な麻痺により陥る。やんぬるかな、そんな、いや、こんな状況でもそれらは無事であった。だが、それだけでは即死は免れども、いずれは死ぬ。が、死ななかった。それもそのはず……」
と、小太郎は汁をひとすすりして、喘月を指さす。
「俺の無念か、喘月の魔気か、おそらくその双方が相俟ってだろう。――」
左手に箸を添えた丼を、そして右手でのっぺりとした、その仮面を取る。
「俺は、鬼と成っていた」
あッ――っと、息を飲んだのは藤斬丸だ。それもそのはず、あごの半ばから鼻まで削ぎ落され、赤黒い骨と肉を見せていたそこには、乳白色の牙持つ
鬼の口である。
「男前だな、まあ俺の次くらいだが」
「ゆえに蕎麦もすすれる。ふふ」
喘月に斬られし者も、魔性に堕ちる。
「ゆえに尾白甚左衛門の名を捨て、末代風魔小太郎として妖刀破壊を悲願としていたが……。――」
甕をかぶり直し、大きくため息をつく。
「破壊すれば、呪いは解けず。大納言がふたたび世を戦乱に、か。
「忍者の頭領とは思えぬ言葉よな。戦あってこその忍びではないか。と、思うたが」
今度は、宗章が汁をすすり頬を掻く。
「そんなものは、武士も同じよな。いやはや、俺も戦はもう懲りた。あんな腹が減るだけの迷惑行為、人の世には……しばらくは要らぬよ」
「わしも、子が腹を空かせ死んでゆくのはもう見とォない」
しばらくは要らぬ。
しかし戦の火が消えることはない。人の世の常である。それを、このふたりはよく知っている。そして形を変え、戦というものは、必ずどこかに燻るのだ。それを、この武士と忍者は心得ている。
そして、武士と忍者はそろって丼を空にする。
「興徳弥八郎は、関ヶ原で死んだ」
「おうよ。それは
「ゆえに、仇はもう死んでいると。ふむ、落葉御前。反魂香。にわかには信じられんが、わが身見れば頷くほかあるまい。なにせ、あの……いや、その妖刀を身をもって知ったのだからな」
「で、人の弥八郎と、鬼の弥八郎を、この妖刀で斬ることが解呪の段取りとなるわけだ。……ほんらい妖刀喘月の解呪に必要な仇敵は無辜の命。しかし、それをさせぬと黒幕が仕掛けた罠が、毛利家の陰謀よ」と、宗章。そのくらいまでは把握しているらしい。
そこで小太郎が待ったをかける。「その話、長くなるか」と小太郎。さっきのやり返しである。
しかし宗章は構わず「まあ聞け」と
「まあ俺も御前や宗矩に使われてやってもいいが、柳生の意地は徹す。必ずや、この妖刀が引き起こす凶事の撃滅を誓おう。……いいか、柳生の意地は、必ず徹すぞ」
最後は、なぜか蕎麦屋の主人に向けて、念を押すようにいう。
蕎麦屋はきょとんとしていたが、宗章が小太郎と藤斬丸の空丼も重ねて渡すと、「へ、ヘィ」となぜか頷かざるを得なかったのか、二、三度、「ヘィ」と繰り返している。
「ところで、小太郎、と呼んだほうがいいのか」
「どっちでもよい」
「じゃあのっぺり坊」
「子供か、おのれは」
「馬鹿なのだ、すまんな」と、これは藤。
札が張り付けられた朱塗りの鞘をポンと叩き、「小太郎、この喘月の破壊はしばし待ってくれ。俺と、この藤斬丸がしくじった後なら、どうとでもしてくれて構わぬ」と、目礼をする。
真摯な、清涼ともいえる風を感じ、血生臭い生を経てきた小太郎は、思わず「承知仕った」と、居住まいを正し頷く。
「ということだ。よいな」
と、もう一度、なぜか蕎麦屋の主人に念を押す宗章。
さしものふたりも、月のように首をかしげる。
ただただ、その主人だけはきょとんとも、しどろもどろにもならず、静かな声で「いつからお気づきで」と、腰低く控える。
「ぬう。――」
小太郎も唸るほど、その身の熟しは見事であった。静かで速やかで軽やかな重みに満ちている。
――忍者のそれであった。
「紹介しよう。おそらく、二代目服部半蔵。――」
「小半蔵とお呼びください」
この者が、と小太郎は、
戦国の倣い、もはや恩讐も遠い彼岸である。徳川方の忍びに思うところがないといえば嘘になるが、この身すでに鬼の妖魅。人の世の恨み辛みは、なぜか希薄となっている。鬼とはそういうものなのだろう。しがらみを生贄に、変粧するのだ。
「いつから気付いていたかと問われれば、蕎麦屋を都合よく見かけたときからだ。誰も出歩かぬ夜にポツンと居れば、俺が来ると思ったのだろう。マ、そのとおりなんだがな。ふふ」
「こたびは気づかれぬと思っておりましたが。――」
「正宗の工房を探っているのは配下であろう。お主がこの喘月から離れるとは思えんのでな」
「なるほど、恐れ入りました。しかし、この小半蔵が離れぬのは、その妖刀からではありませぬ。柳生宗章さま、あなたを監視してるのでございます」
「仕事の出来をか」
「銭の使い道をでござる」
小太郎と藤が噴出したように笑う。
「まあ冗談はともかく」と小半蔵。彼は髪をまとめていた手拭いを取ると、屋台を片付け始め、「毛利の話を遮られたときに、少々気を揉み申した。あれが気取られたのでしょう。見事な誘いと外しでした」と、文字通りの脱帽だった。
「そうかなあ。ほんとうに難しいことが聞きたくなかっただけだと思うがなあ」
「藤」
そんな三人を面白く見ながら、「なれば、拙者はここで。あとは結果を見てやろう。弥八郎が仕掛けた呪詛を解いた後ならば、そこな小半蔵……どのに、北条家を揺るがした毛利の一件、すべて話そう。かの柳生宗矩ににらまれたら、さすがに敵わぬ」と立ち上がり、桶を戻す。
「俺には何かないのか」と宗章。
そんな彼に、小太郎は小銭を一枚、ピンと弾いて渡す。
「怨敵、興徳弥八郎。あやつに一敗馳走してやってくれ」
それを袖にしまうと、大あくびをしながら頷く。
「一敗でも、二敗でも。満腹まで馳走してやるさ」
相手は興徳弥八郎。
使うは陰流邪報剣。
いかに戦う新陰流。
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