第3話 正気と狂気のはざま

帰還した後も、あの方は正気と狂気の狭間を行き来していました。

狂気に陥った時の暴言は……あなた方に語るには酷かしら。私はその度に耳を塞ぎ、両親がオリヴィエ様を宥めていましたね。

この頃には一番若い私がオリヴィエ様の侍女となりました。

古参の使用人が止めると、暴走に拍車がかかるのです。

ええ、そうなれば最後。

騎士として鍛錬を積んだ貴婦人の折檻は壮絶なものですわ。

…………あぁ、ごめんなさい。少し思い出してしまって……。

屋敷内の人間を皆殺しにするかもしれない。そんな不安を使用人たちは抱いたのです。

オリヴィエ様の夫ですらひどい怪我を負わせたのだもの。

だからオリヴィエ様が比較的穏やかに接する私や両親が常に傍で仕えました。我が子へ凶刃を向けられないか、両親の心労は絶えませんでした。

ご子息も分家に避難していましたよ。

でも、一番可哀想なのは旦那様。あの方の暴言と暴力を真っ先に受けていたもの。

…暴言が気になるの?困った子ね。

そうね、暴言は優しい言い方だと、種無し、種馬、不能といったところかしら。

あら、ごめんなさい。

でも、仕方がないと思うの。

だって、当時のオリヴィエ様は、本当に旦那様を憎んでいたんだもの。

いいえ、少し違うかしら。

オリヴィエ様は、ハンク家そのものを憎悪していた。


そして、オリヴィエ様は出産しました。

生まれた女の子は本当に可愛らしい容姿をしていたものです。

けれど、祝福したのは私と両親だけでした。

魔王の子だとうわさされる赤ん坊を、魔女を狩る一族が祝えませんものね。

オリヴィエ様だけは歓喜の声を上げました。理想通りの女の子だと。

でも、他の人間は違います。

オリヴィエ様の奇行も重なり、使用人たちは赤子を恐れるでしょう。

そして、恐れは憎しみへと変わっていきます。憎しみの矛先は、当然のように弱い赤子に向きます。

私は嫌な予感が止まらなかった。

名づけの際、オリヴィエ様は自室を人払いしました。

許されたのは私と両親だけです。

この部屋にいるのは、私達だけ。

「名前はお腹にいた時から決めていたのよ」

そう言った時のオリヴィエ様の顔はとても嬉しそうだったのを覚えています。…………。

シルヴィア。

創世のシルヴィア。真なる英雄騎士である祖先の名前を付けると言うのです。

オリヴィエ様はこの子を、いずれ一族の災いとするのではないか? そう思うと怖かった。

いえ、それだけではありません。

私も両親も。この時、既にこの子を愛おしく思っていた。

こんなにも純粋な寝顔の女の子がいばらの道を歩むのは避けたい。

「オリヴィエ様……、お嬢様のお名前をもう一度熟慮して戴けませんか……?」

母が言葉を選びながらあの方へ願います。

禍根を生みかねない名前をお嬢様に与えるわけにはいかない。

私の両親はそう考えたんでしょうね。

でも、それは逆効果だった。


「黙れ!お前達が余計なことをするから、あの子が苦しむことになるだろう!!」

狂ったように叫ぶと、あの方が振りかざした手が花瓶に当たり割れました。その破片を手に振り回し始めました。

その現場に戻った私の父が咄嗟にお嬢様を庇いました。私もこんな小さな赤ちゃんに何かあってはいけないと抱きしめます。

父の肩に破片が刺さった時、我に返ったオリヴィエ様が破片を落としました。

「ああ、そうだわ……。」

すると、突然オリヴィエ様はポロポロと涙を流したのです。

「夫に、そうやって守って欲しかったの……私の最初の子を……」

私は、初めて見た彼女の弱さを知りました。

同時に、彼女が旦那様へ向けている諦めの気持ちも感じ取れてしまったのです。

怪我をさせたことを詫びて、あの方はハンク家の闇の一部を語りました。

「私がおなかを痛めて産んだ子は、生まれて30分で燃える暖炉に放り込まれた」

あの方は泣いていました。泣きじゃくりながら話していました。

「生んだばかりで私は動けなくて。這いずって暖炉に行ったわ。あの子の手足は焼け爛れて、全身火傷を負った。それでもまだ生きていた。あの子は、生きようとしていた。なのに……」

あの方は涙を拭き取りました。

「火を付けた使用人は、こう言ったのよ。『化け物』とね。

旦那も諦めろと言ったわ……私の欠けた手の中で死んじゃった……」

怒りと悲しみに満ちた声色でした。

私達は何も言えなかった。

でも、これだけは言わなければなりませんでした。

「申し訳ありません。そのようなことがあったとは知らず、出過ぎた真似を致しました」

両親も私も、オリヴィエ様に頭を下げました。

「いいのよ。私もどうかしていた。私こそ、あなた達の主人として恥ずかしいわ」

この時のオリヴィエ様は狂気の感情が静まり、穏やかに話してくださいました。

「白銀の髪か、新緑の瞳か、女の子なら…そうならなかったの」

でも、と彼女は続けました。

「あの子を産んだ瞬間に、私の中の全てが燃え尽きた。せめて、黒翼の魔女との約束を守る為に生きるしかないと思った」

魔女狩りを生業にする家長の口から魔女との約束が飛び出たのは驚きでした。

「では、あのご子息は誰なのですか?」

母がそう尋ねると、あの方は口の端を歪めて言いました。

ハンク家の分家の役割は、『理想の当主』の育成。

生まれながらにして『欠陥品』だと烙印を押された子供たちは、当主として相応しくないと判断されると、分家へ送られる。

そこでは、徹底的な管理が行われる。

とりわけ入念に調べられるのが、生殖能力だそうです。

そして、分家の当主が満足いく『素材』と判断したならば。

次世代の当主のスペアとなるべくあらゆる教育を施される。

「それが、あの子。私の今の息子よ」

オリヴィエ様は、悲しそうでした。

私は絶句しました。

分家の子供が本家の養子になる。

そんな話は聞いたことがありましたが……。

まさか、そんな残酷なことが行われていたなんて……!

「分家の気まぐれかしら。私が反抗的なのがバレたのかしら……。

私が動けないうちに処分された」

「因果の呪いのせいかしら。呪いにかかると子供にも影響が出たのかしら」

「…………」

私の母は泣きながらオリヴィエ様を抱きしめていました。

父も、血がにじむほどに拳を握りしめて震えています。

でも、お嬢様だけは違いました。

無垢な笑顔をあの方に向けていたのです。

まるで、母親を理解しようとしていますかのように。

私はお嬢様を抱き上げました。

「だから、私はこの子を産んだ。私の全てを賭けて、この子を幸せにすると決めたの。

シルヴィア。この子はきっとこの世界を変える」

オリヴィエ様は、お嬢様の頬に触れながら呟いた。

「私は、この子の為に生きて死ぬわ。もう、何も残らないと思っていたのに、こんなに素敵な贈り物を貰えるなんて」

そう言って、あの方は私達に微笑みかけました。

その笑顔は本当に母親の顔でしたよ。


あの方が狂気に支配されたのは、彼女自身の性質でしょうか?

あなた達はそう思いますか?

違います。

周囲の人々がそうさせたのです。300年も前の奇跡に胡坐をかき、英雄騎士の栄光を忘れ、オリヴィエ様を道具のように扱った。

それが彼女を狂わせたんです。

あなたはどうですか? 自分の親や親戚が、あなたのことをそういう目……、思い通りに動く人形のように見ていたとしたら? 私は、嫌ですね。

想像するだけで吐き気がします。

あなたはどんな家庭で育ちましたか? 家族から愛されていましたか?

ああ……、ごめんなさいね。

話を続けます。

オリヴィエ様はただの女の子です。15歳の少女がおなかを痛めて産んだ子に、ハンク家がした仕打ちを思えば、狂うのも無理はないでしょう。

いいえ。

狂ったのはオリヴィエ様が最初でしょうか?

祖先である創世のシルヴィアの容姿を受け継がない子は、オリヴィエ様の御子のような末路を迎えたのではないしょうか。積もり積もった因果の果てに、先祖の無念すらも抱えてオリヴィエ様は狂気に支配された…。

私にはそう感じられました。

英雄騎士を祖に持つ貴族として召し抱えられた人間の業と、人間の堕落を良しとせず、英雄騎士という品格を保つためにあらゆる事柄を管理するファインブルクの王族たち。

彼らの業によって、ハンク家は呪いに縛られているのかもしれません。

そして、私の両親も、使用人達も……私自身も、呪いに囚われている。

そう考えると、合点がいきませんか? いえ、私の考えすぎかもしれません。

ですが。

そのせいで、あの方は壊れてしまったんです。

血狂いのオリヴィエの本質は優しくて弱い人です。

「だから、何としてもこの子を生き残らせるために協力して。

この子が生きる世界を作るために」

子供の私が、母親としての想いを踏みにじられた彼女に何と答えることができたでしょうか。

「最初の子は…私が生んだあの子は……貴女のようなキレイな黒髪と黒目だったわ」

だからね、と彼女は続けます。

「あなた達に最初に出会ったとき、貧しくても仲睦まじくて…幸せそうな親子で羨ましかったの。

年もあの子に近くてね。あなたに何かを教えているときは、あの子と遊んでいるみたいだった」

彼女は、とても優しい表情をしていました。

「あの子にも、あんな風に幸せになって欲しいと思ったのよ」

それは、偽らざる本心だったのでしょう。

だからね、と彼女は続けます。

「あの子を……私の愛する娘を守ってあげて。あの子が心の底から笑えるように助けて欲しいの」

私は咄嗟にこう言っていました。

「私を……シルヴィア様のお友達にしてくれませんか……?今しがた生まれた、貴女の御子のお友達に……!」

私にできることは、それくらいしかなかったから。

オリヴィエ様は私の言葉に目を大きく見開いておりました。

「素敵なお願いね」

「私で良ければ喜んで」

「ありがとう。私の可愛いお姫様をよろしくね」

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