第42話 暗闇の中の扉
「え、ああ」
ユリシーズ様の慌てたような声が聞こえて、ハッと我に返ったわたしだけど、今の状況を把握した途端に身体が硬直してしまった。自分の視線の先には、彼のシャツの胸元に置いている自分の手があって、そろそろと視線を上に上げたら、目元を赤く染めたユリシーズ様の整った顔がある。
手のひらから伝わってくるのは、ユリシーズ様の心臓の鼓動。そこで、一気に顔に血が集まるのが解った。
わたし、何をしてるの!?
いや、でも、それでも目の前の彼から離れたいとは思えないわけで。
ここで慌てて押しのけて、嫌われたら一生立ち直れない……気がする。
だって、だって。
「え、と」
「……まあ、本当に無事でよかったよ」
彼がそう緊張したような声で言いながら微笑み、さらに……おずおずとわたしの頭を撫でてきたから、とうとうわたしのちっぽけな頭脳は限界を迎えた。
死ぬ。多分わたし、死ぬ。でも、それでもいいんじゃないかな!?
いや、こんなことを考えている場合じゃない!
「説明しろ」
そこに聞き覚えのある声が辺りに響き渡り、わたしはその声の主――ユリシーズ様の背後に現われた人影に目をやった。するとそこには、鋭い双眸をこちらに向けているウィルフレッド殿下の姿があった。
「エリス、君は何をした? 王城の図書室から禁書を持ち出したのか? それで……!」
学園内では絶対に見せない、凍てついた表情だ。いつもの穏やかな『王子様』然とした雰囲気とは違い、鬼気迫るものがあった。
でも。
「やあ、我が親友」
エリス様はウィルフレッド殿下ののんびりとした口調で返す。「何だ、バレてたのか。やっぱり、僕の魔法ってしょぼいよね?」
それを聞いたウィルフレッド殿下の表情が、完全なる失望の色に染まった。
「私は今、親友としてでも幼馴染でもなく、この国の王族の一員として訊いている」
「ああ……それは失礼いたしました」
エリス様は僅かに目を細め、恭しい態度で頭を下げる。「殿下のお傍に仕えるために、力が必要でした。どんな手段を使っても」
彼はそう言いながら、血で汚れ、ところどころ破れている制服を見下ろしてため息をついた。
「……怪我を」
したのか、と殿下は訊きたかったのかもしれない。
でもそこで、殿下のことを追ってきたらしい――いや、わたしたちを探していたらしい教師たち、ベアトリス様や殿下のご友人たちも駆けつけてきて、大騒ぎになった。
「……大丈夫か」
「え、あ、すみません!」
そこで響いたユリシーズ様の声に、わたしも我に返った。
ま、まだしがみついたままだった!
お父様やお兄様以外の男の人とこんなに距離が近いのは――前世含めて初めてだ!
わたしは動揺を隠せないまま、軽くユリシーズ様の胸を押して数歩後ずさったけれど、完全に遠ざかる前に足がとまる。それは、地面に膝を突いているウォルター様――いや、遠藤君を見たからだ。
そして彼の足元には、ぽたぽたと滴り落ちる血の量の多さが、軽い怪我ではないと教えてくれていた。
「一体何が……」
ミルカ先生の茫然とした声。
「何てことをしたの」
と、怒りに満ちたベアトリス様の声。
「殿下、ここは危険ですからお戻りください」
ウィルフレッド殿下の友人たちの一人が、緊張した面持ちで囁く声。
「……エリスを捕縛しろ」
ウィルフレッド殿下が苦渋を交えた台詞を絞り出すのも聞こえて。
状況が掴めていない人たちの色々な声が飛び交って、収拾がついていない。さらに、野次馬らしい生徒たちも遠くに姿を見せ始めていて、教師たちから叱責の声が飛び交うものだから、騒々しいことこの上ない。
しかも、そこに教師たちの一部から新たな叫びが上がる。
「早く退避を! キマイラがこちらに向かっています!」
ここは学園が管理する森だけれど、大人しい魔物だけが生息しているわけではない。先生たちの慌てぶりを見ると、ドラゴンほどではなくてもそれなりに危険な魔物なんだろう。
そんな混乱が、一瞬の隙を産んだのかもしれない。
「エリス!」
ウィルフレッド殿下のその声で、エリス様がこの場から逃げ出したのを知った。森の奥に駆けこんでしまったのか、気が付いたらどこにも姿が見えない。
誰かの舌打ちと、ミルカ先生の叫び声が重なった。
「深追いはするな! 生徒たちの安全を確保、退避!」
そう言ってから、ミルカ先生は地面に座り込んだままのウォルター様の方へ歩み寄った。他の教師たちもそれに気づき、怪我人を助け起こそうと駆け寄ったが――。
「……ジェシカ、様」
人垣の隙間から、ウォルター様――遠藤君が顔を上げてわたしを見つめ、すっとその視線をユリシーズ様に滑らせる。
彼の唇が歪んだ形を作り、それに続いてその唇が呪文らしき詠唱のため動く。その途端、彼の足元に広がる血が生き物のようにずるり、と蠢いた。赤黒い文字列が瞬時に宙に浮かび上がると、この辺り一帯の空気が冷えていった。
「精霊よ、我が詠唱に応えよ。我は汝の忠実なる僕、この血を代償に降臨せよ、降臨せよ、その偉大なる力を我に示せ」
遠藤君なのか、ウォルター様なのか、それとも別の名前を持つ人なのか。
彼はこの世界の魔法とは違う呪文を詠唱し、彼の魔力ではなく、大気に含む魔力をかき集めていた。
「道よ開け」
彼がそう言った瞬間。
わたしの前にユリシーズ様が庇うように立つのと、火花のような光が目の前で弾けるのが同時だった。
わたしは咄嗟に両手をクロスさせて頭を庇う。
ぱきん、という音がして、手首につけていた銀色のブレスレットが割れる。飛び散る破片が、わたしの身体を守るように動いたユリシーズ様の腕に傷を作った。
誰かが――教師の誰かと、ユリシーズ様の魔法が放たれる気配がした。もちろん、わたしも防御魔法を展開させる。わたしだけじゃなく、ユリシーズ様も包み込むように防御壁が出来上がるのを確認して、少しだけ安堵の息を吐いたけれど、辺りには悲鳴と怒号が響いている。
「キマイラが! 血の匂いに惹かれたか!」
「殿下、お下がりください!」
「先生!」
そんな雑多な叫び声が飛び交う中、ユリシーズ様がわたしの肩を揺らして鋭く言った。
「動けるか!?」
「もちろんですっ!」
わたしも叫び返し、この場から逃げようとする他の人たちに紛れて走り出した。
ユリシーズ様がわたしに並んで走り、幾度か背後を振り返った。わたしは振り返る余裕なんてなかった。安全な場所を目指して必死に走った。
でも、何か――おそらくキマイラの咆哮が木々を揺らし、さらには地面をも揺らし、凄まじい魔力が背後に動くと振り返らずにはいられなかった。
そしてわたしの目に飛び込んできたのは、わたしが考えているよりもずっと巨大な体躯を持つ魔物だった。まるで炎のように揺らめく魔力を放ちながら、鋭い鉤爪を持った太い前足で地面を叩き、蛇のような尻尾をくねらせて威嚇する猛獣らしき存在。
鋭い牙から滴る唾液からは悪臭が立ち上り、爛々と赤く輝く瞳はウォルター様へ向けられている。いや、正確に言えば血の匂いを纏わりつかせている人間に向けられている。こうしている間にも、ウォルター様の身体からは血が滴り落ちているのだから。
そうして今にも獲物に飛びかかろうとしているキマイラだったけれど、ミルカ先生を含む教師たちが魔法による攻撃を開始すると、その魔物はひるんだように後ずさっていった。
何なの、この展開。
もう、ゲームどころじゃないし、何だか意味解らないし。
結局、ジェシカ様って誰なのよ!
そんなことを考えているのも無駄な気がして、わたしはすぐに視線を走る方向へ向けた。答え合わせはいつだってできるんだから、今はとにかく逃げるのが先。
「ああ、もう、面倒だな」
そんな時、ウォルター様が投げやりになったような口調で言った。「どうせ、もうこの身体は傷がついた。もう一度、次に期待しよう。次の世界では、きっと」
その声音に厭な予感がして、わたしの足がとまる。
「ディアナ!」
ユリシーズ様がわたしの腕を引いて走ろうとするけれど、彼もまた、息を呑んで足をとめた。
振り向いた先に、ウォルター様が笑いながらキマイラの方へ歩いていく姿があった。僅かにおぼつかない足取りで、それでも躊躇いなどない動きで。
「下がれ!」
ミルカ先生の驚愕したような声が飛んだ。
でも、もうその時にはキマイラは巨大な足を蹴ってウォルター様の方へ飛び掛かっていた。
ユリシーズ様が慌てたようにわたしの目を覆うように手を伸ばしてきたけれど、僅かに彼の狙いは叶わず――赤い血が宙に舞い踊るのを見てしまっていた。
誰かが悲鳴を上げた、と思った。でもそれはわたしの喉から出ていたんだろう。
それを自覚するより早く、目の前から全ての光景が消えた。
何かに引きずられるような――、いや、階段で足を踏み外すような気持ちの悪い感覚が襲ったかと思えば、わたしの周りは暗闇に覆われていたのだ。
耳が痛くなるような静寂と、明かりのない夜よりも黒い闇。訳も解らずそんな場所にいるという恐怖感に溺れそうになって、わたしは浅い呼吸を繰り返した。
動けない。
暗い。
何?
これは夢?
っていうか、わたしはどこにいるの。どうしていきなり暗いの。どうして何も見えないの。まるで、まるで。
失明したみたい。
「……ユリシーズ様?」
わたしは暗闇の中で手を伸ばし、何か触れないかと必死になった。視覚というのはわたしが考えていたよりもずっと重要で、何も見えないというのは本当に恐ろしいことだった。
「どこにいるんですか? 誰かいます? 誰か……」
そこで、わたしは我に返って魔法の呪文を口にした。
光の魔法で明かりをつける。火の魔法で炎を生み出す。空気の浄化、大きな音を出す、何でもいいから頭の中に思い浮かんだ呪文を片っ端から試していく。
すると、わたしの魔法は確かにそこに展開し、暗闇を少しだけ切り裂いて光を生み出した。
「ああ、すまない」
そこに、どこか茫洋とした声が響いてわたしは悲鳴を上げそうになった。
「誰!?」
わたしは素早く辺りを見回して声の主を探す。すると、一瞬遅れて少し離れた場所に木製のドアが灯に照らされて浮かび上がった。それはあまりにも唐突すぎて、わたしは息を呑んでじっと見つめる。
あまりにも幻想的な光景だった。
暗闇に浮かび上がるのは扉だけだったのに、いつの間にかじわじわとその扉の周りに石造りの壁が現れ、屋根や窓も出現し、頭上にはたくさんの星が煌めく夜空がある。
とても現実とは思えない状況なのに、何故か――現実だと納得している自分がいる。
「ごめんね、驚かせただろう。まさかこんなことになってるなんて予想もしてなかったからこちらも驚いているんで、お互い様だけど」
そして、そんなことを言いながら、その扉を開けて顔を覗かせたのは――黒髪と黒い瞳を持つ男性。皮肉げに歪む口元が印象的で、そしてかなり整った顔立ちの青年は、困ったように眉根を寄せて微笑んで見せる。
「紹介状を持たない人間をここに呼ぶのは、なかなか厄介でね。君の腕には印がないから、探すのも面倒だったよ」
そう言った彼は、わたしをその扉の中に入るように身振りで示す。
警戒しつつわたしは彼の方に歩み寄り、その秀麗な顔を見上げて首を傾げるのだ。
「……どこかで、見た、ような?」
「それはそうだよ?」
苦笑しながら肩を竦める彼を見上げながら、もしかして、とわたしは目を細めて見せる。
「そう、お察しの通り、私が転生屋と呼ばれる者だ。君とはこれが初めまして、ではないんだよ」
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