第38話 幕間:7 アリシア・グレース
「協力、ですか?」
わたしは目の前にいる彼――エリス・エイデン様に対し、胡乱そうな視線を向けただろう。それに気づいた彼は、僅かに眉尻を下げて笑う。女性的な柔和な顔立ちでそんな表情をされると、ほとんどの女の子なら胸の奥をつつかれるような感情に襲われるだろう。でも、わたしには警戒心しか抱かせなかった。
「そうだよ。君はディアナ嬢と仲がいいだろう? 何とか彼女と話をしたいんだけど、どうやっても逃げられてしまってね」
――それは当然なのではないでしょうか。
そう言いたかったものの、相手が相手だから正直に口にするわけにはいかない。わたしはただ黙って申し訳なさそうに微笑むだけだ。これが拒否の想いとして伝わってくれれば――と思ったが、彼の方が一枚上手だったらしい。
人気のない学園の裏庭に呼び出されたわたしは、エイデン様に色々と――甘言としか思えない言葉を言われ、それでも何とか逃げようとわたしが言葉を探していると。
とうとう痺れを切らした彼にやんわりと脅されることになった。
「君はまだ婚約者もいない立場だよね? 今、問題を起こすのはどうなのかな」
「問題って」
「君の友人……いや、ディアナ嬢じゃないよ? 君の大切な友人、ミランダ嬢は君よりもずっと、確固たる道を進んでいるようなのにね」
「ミランダ、が」
「君は知っているかどうか解らないけど、同じ子爵家だからと安穏としているのはどうかな? ミランダ・レッドウッド……レッドウッド家は、何かと王家から覚えのいい立場なんだ。君なんかとは違ってね」
眩暈を覚えたような気がした。
ミランダはわたしの親友だ。
誰よりもずっと一緒にいて、色々な悩みを話し合った気の置けない相手。幼い頃からずっと、一緒に勉強し、魔法を習い、ずっとそれが続くのだと思っていた。
彼女は甘え上手で、わたしを頼りにしてくれることが多かった。そしてわたしは、そんな彼女のために何かをすることが、彼女の手を引いて歩いていけることが嬉しかった。
同じ学園に通い、同じクラスで学ぶ。
同じチームで同じ敵と戦う。
それがとても心地よかった。
わたしが彼女の親友で、わたしが彼女のことを一番理解できている。その自負があったから、そこにディアナが入ってきても気にしていなかった。
でも最近、ミランダは彼女の従兄弟と一緒にいることが多くなった。相手は女の子じゃない、男性だ。わたしと立場が違う。だから怖かった。
わたしからミランダが離れていってしまう。もちろん、いつかはそうなることは覚悟していた。でも、学園に通っている間は違うと信じたかった。
焦り。
苛立ち。
そんな感情を持て余したわたしは、自分の心の黒さに気づいてしまった。
ミランダはわたしの大切な人間だ。
ずっといたいと思うくらいに。
わたしのものだと言いたくなるくらいに。
この感情は抱いてはいけないものだと気づいているのに、どうにもならなかった。
「僕に協力してくれたら、僕――エイデン公爵家とつながりができる。それは君にとって、魅力的なんじゃないのかなあ。ミランダ嬢だって、そんな君と一緒にいて自慢できると思うけど」
エリス様の言葉は着実にわたしの弱い部分を暴いた。
そうだ。最近はずっと考えていた。
学園を卒業してもなお、ミランダと一緒にいるならば。彼女にとって、わたしはもっと役に立つ存在でなくてはならない。子爵家の後を継いで、婿を取って生活するだけのわたしなんて、一緒にいて何の得がある? ミランダだって誰かと結婚して、その相手とずっと一緒にいて、わたしという存在を忘れて生活していくに違いない。
でも、でも。
わたしはそんなの、厭だった。
わたしはミランダの自慢できる親友でなくてはならない。
一緒に並んで歩んでいける、人生の仲間でなくては納得ができない。
だって、わたしは。
ミランダのことが誰よりも好きだから。
きっと、これから結婚するであろう男性よりもずっと、大切な存在であり続けるはずだ。
でも、ミランダはどうなのだろう?
わたしと同じ思いを返してくれる?
「わたしは何をすればいいですか?」
わたしがそうエリス様に問いかけると、彼は本当に嬉しそうに微笑んだ。その顔を見た瞬間、上手く説明できない不安を感じた。でももう、逃げることはできなかった。
「一度引き受けた以上、逆らったら……君の家に迷惑がかかることだけは覚えておいて」
彼はそう釘を刺した結果がこれだ。
エリス様から声をかけられてしばらくの間は平穏だった。もしかして、エリス様も気が変わって何もしないことにしたのだろうか、と期待すらした。
しかし、実習前になって再度呼び出され、わたしがやるべきことを指示してきた彼。その目はどこか狂気みたいなものが見えて怖かったし、逆らえる雰囲気でもなかった。
ぎりぎりまで悩んだものの、わたしはエリス様の命令に従うことを選び、ディアナを実習の場で人気のない場所へ誘い出す。
そう、全てエリス様の計画通り。
ディアナは男性が苦手で、特にエリス様には派手なくらいの拒否反応を示している。ウォルター・ファインズ様もディアナに興味を持っていて、ディアナも少しは彼に興味があるみたいだけど――あの呪い持ちの先輩ほど心を許してはいないみたいだった。
改めて思うけれど、ディアナはわたしにとって無害な友人だ。
彼女が厭な性格をしていたらよかったのに。そうすれば、今回のこともこんな後味の悪いことにならなかった。
だって今のわたしは、完全に悪役だ。流行している小説などに出てくる、主人公を陥れる役割。そして最終的には天罰が下る。
「わたしは、男性が苦手なあの子を裏切ったんだわ。そう、見捨てたのね。最悪だわ」
森の中を歩きながら、だんだん……手足が震えて仕方なくなった。乾いたわたしの笑い声はどこか虚ろで、自分でも頭がおかしくなってしまったのではないかと思うくらい。
やがてわたしは魔道具で空けた穴を潜り抜け、他の生徒たちがいるであろう方向を探す。
こんなことをしたとミランダが知ったら、どう思うだろう。
わたしを軽蔑するのではないか。
あの明るい笑顔を向けてくれなくなるのではないか。
……当然だ、そんなこと。
わたしは嫌われて当然のことをしたんだから。
そして、そっと穴の方を振り返る。
エリス様の本当の目的は何なのだろう。
学園の防御壁の向こう側には、危険な魔物がいるはずだ。それこそ、ドラゴンが出たという話も聞く。
二人きりになるのに、こんな魔道具を使うなんてあり得ない。学園が設置した魔法の防御壁を一部だけ破り、それを学園側には気づかせないための魔法が展開しているのだけれど――どう考えても、これは使ってはいけない魔道具の一種だ。
ただ単に二人きりになるなら、もっと安全な方法はたくさんある。
もちろん、安全な場所も。
つまり。
あの危険な場所で会う理由があるということだ。
わたしは唇を噛んで考える。
どうしよう、どうしよう。
そして、他の生徒たちの声がわたしの耳にも届き始め、わたしは慌ててそちらの方向へ歩き出す。先生か、頼りになりそうな誰かを見つけて……それから、それから。
「あれ? ええと、ディアナ嬢を見なかったかな」
そこへ、ウォルター様の声がかかってわたしは肩を震わせた。
相変わらず明るい笑顔を向けてきた彼だったけれど、きょろきょろと辺りを見回しながら困惑している様子だ。彼は実習メンバーと一緒にいたけれど、もうすでに飛行船に戻ろうとしているところだった。
「せっかくいいところを見せようと思ってたのに、タイミングが合わないんだよな……」
そう頭を掻いている彼の横顔を見上げ、わたしは――。
「向こうに向かうのを見ましたが……」
と、わたしは元来た獣道を指さした。
エリス様は今回のことは他言無用だと言われていたし、逆らえばただでは済まないことも理解していたけれど、僅かに残っていた罪悪感がわたしの唇を動かした。
「エリス・エイデン様もそちらに向かったみたいですが、何かあったんでしょうか?」
「エリス・エイデン」
するとウォルター様はその目を僅かに細めて、厭そうに舌打ちした。そこで少しだけ、ウォルター様の笑顔の裏を見たように思う。ディアナに向けているまっすぐな――無害そうな笑顔とは違う、何か。
彼は少しだけ何か考え込んだ後、わたしが指し示した方向に足を向けた。
「……今度は、いいところを見せないと」
そう小さく呟いた彼の声が、妙に低く響く。
本当なら、ここで安心できるはずだった。
一応、ディアナを助ける人間を向かわせることに成功したのだから。
でも、どうしてこんなに不安になるのだろう。どうして、背筋に冷たいものが這い上がってくるのだろう。
わたしは何かに急き立てられるような感覚に陥りつつ、辺りを見回した。
そして足早に森の中を進みながら探し人の姿を視界に捉える。
多くの生徒たちに囲まれているウィルフレッド殿下と、その学友たち。そしてそのすぐ傍に、カーティス・レッドウッド様とミランダの姿もあった。
いつもの自分だったら、ミランダが身分の高い人たちと一緒にいることに疑問を抱きつつも、遠くから見るだけだったと思う。
でも、わたしは礼儀とか全く無視して、彼らの前に駆け寄ると軽く頭を下げて言った。
「エリス・エイデン様のことで相談がございます」
「え?」
「あれ、どうしたのアリシア」
殿下とミランダの声が同時に響き、わたしは頭を上げて次の言葉を口に出そうとした。でも。
「どうしたらいいのかしら、ミランダ。どうしたら」
わたしの目からは涙がこぼれていて、彼女の手を取った自分の手も震えている。
「ちょっとちょっと、え? 何があったのよ」
ミランダの困惑しながらも優しい声に背中を押されて、わたしは何が起きているのか――いや、わたしが何をしたのか説明した。
確かにわたしは子爵家の人間で、立場的に侯爵家のエリス様には逆らえない。
だったら、エリス様よりも立場の上の人に頼ればいい。この場合はウィルフレッド殿下だ。
「……それは、王宮で保管している魔道具だ」
そこで、ウィルフレッド殿下の表情が氷のように固まっていることに気づかされた。「戦争でも使われる類の……持ち出し禁止のやつだね。最近、エリスの様子がおかしいから誰かに見張らせようかと思っていたんだが、遅かったな」
それからは、一気に空気がぴり付いた感じになった。
殿下は近くにいた男子生徒に教師を呼んでくるように命令し、カーティス様に小声で何か言っている。ミランダはカーティス様のすぐ近くに立っていて、ちょっと困ったように眉尻を下げていたけれど。
やがて、わたしの傍に近づいてくると肩を震わせているわたしをじっと見つめて言った。
「後でゆっくり話しましょ?」
「……ごめんなさい」
「わたしに謝るの?」
「……いえ、そうじゃなくて……ディアナに謝らなければ」
「そうよねぇ」
ミランダは小首を傾げた格好で薄く微笑む。「取り返しのつかないことになっていたら、覚悟してよね?」
もちろん、それは仕方ない。
わたしは地面に視線を落として頷き、もう何も言い訳などしないと自分に言い聞かせた。
最初からこうすればよかったのだ。
ウィルフレッド殿下にエリス様のことを相談していれば、何も起きなかったのに。
「一体、何が起きてるんだ?」
そこに、騒ぎを聞きつけた先生たちと――呪い持ちの先輩、ユリシーズ・ヴェスタ様もやってきて、辺りはさらに騒然となった。
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