第16話 逃げるが勝ち

「それで、どうするのー?」

 わたしがアリシアの背後でセミ状態となって固まったままでいると、ミランダが意味深な笑みを口元に浮かべて覗き込んでくる。

「どうって……」

 わたしはこっそりと講堂の片隅にいるウォルター様を見つめた。視線の先にいる彼は、友人らしき男の子たちと談笑していて、明らかに揶揄われている雰囲気だった。照れ隠しなのか何なのか、ウォルター様は仏頂面で顔を顰めていたけれど目元が赤く染まっていて、友人たちに小突かれたり何か言われている様子だ。

 きっと、さっきの――告白? みたいな……いや、告白かな、彼らにも知られているんだろう。時折、ウォルター様の視線もわたしの方に向けられて、ぎこちなく笑いかけてくるけれど、そのたびに冷やかされて――の繰り返し。


 うううん。

 嘘でしょ?


 わたしはアリシアの背中に顔を押し付けて、小さく唸った。


「まあ、ディアナが男の子が苦手っていうのは、過去に何かあったんだろうな、と思うのだけれど」

 ミランダがくすくすと笑いながらも、僅かに真剣な声音で言うのが聞こえて、わたしは顔を上げる。アリシアも困ったようにわたしを見つめているのが解るから、何とかセミ状態から抜け出して二人の間に居住まいを正した。

 ミランダがそこで少しだけ表情を引き締め、眉根を寄せた。

「でも、ディアナ、あなたはいつまで『そのまま』でいるの?」

「え?」

「わたしはよく解らないけど、あなたに酷い思いをさせたのはウォルター様じゃないでしょ? 同じような扱いをするのは間違ってるんじゃない?」

「えっ?」

 わたしの胸がきゅっと何かに掴まれたような苦しさを訴えた。

 それは多分、言われたくなかった言葉だからだ。

「そうね」

 と、アリシアも僅かに咎めるような表情でわたしを見た。「ウォルター・ファインズ様……ファインズ伯爵家の名前は有名だわ。それも、わたしたちみたいに婚約者がいない女性の間には、特にね」

「そうよぉ。いわゆる、優良物件ってやつー」

 ミランダが声を潜めてわたしの耳元に口を寄せた。「ウォルター様は次男で、伯爵家から出てどこかに婿入りするのが間違いないでしょ? つまり、そういう女の子たちの狙い目なのよねぇ」

「狙い目……」

「だから、ディアナも頑張らなきゃ。せっかく相手から声をかけてもらったのよ? いい人だったら捕まえておかなきゃ、他の猫たちに連れていかれちゃうからね」


 猫……。

 そんなことを言われても。


 わたしは少しだけ泣きたくなって、小さく唸る。すると、ミランダが「よしよし」と頭を撫でてくれた。それは嬉しかったけど……。


 正直、恋愛には興味ないんだもの。

 ゲームの中のヒロインみたいに、お父様の呪いを解くことよりも攻略対象の男の子と仲良くイベントをこなす――なんてやりたくない。学園に通う目的を見誤らないようにしなきゃ駄目だ。

 だからこそ、彼らは手の届かないアイドルのままでいて欲しい。それが推しのウォルター様でも同じこと。

 わたしがもう一度ウォルター様たちに視線を向けた時、ちょうど視界の隅にウィルフレッド殿下たちがチーム戦を終えたようで、それを見物していた女生徒たちから歓声が上がっていた。


 ――年頃の女の子だったら、あれが普通なんだろうけど……。


 きゃあきゃあ騒ぐ少女たちを見て、わたしはそっとため息をこぼす。そして、その一部の生徒たちがこちらの視線に気づいたようで、敵意に塗れた目をわたしに向けた。そして、何かひそひそと会話している様子も見て取れた。その中にはSクラスで見かけた女生徒もいて、うんざりしてしまった。

 本当に、心の底から面倒くさい。

 わたしはもやもやした気持ちのままチーム戦の時間を終え、次の選択授業のために教室に向かった。今日の次の授業は魔法薬科。呪いを解く魔法薬が作れないかな、と小さな期待をしながら、比較的簡単に作れる初級治療薬から教えてもらっている。


 そして、授業を終えて自作の治療薬を魔道具バッグに入れ、Sクラスの教室に足を向ける。これで今日の授業は終わりだから、後は担任教師の話を聞いて帰宅――のはずだったんだけど。


「あら、大変ですわね? 誰か、魔法を暴発させてしまったのかしら」

 と、意地の悪い笑みを浮かべてわたしを見つめている、クラスメイトの女の子たちを目の前にして、わたしは眉間に深い皺を刻んでいた。


 目の前のわたしの机と椅子は、水浸しだった。

 一人一人に与えられた机は前世で学校で使っていたものと見た目はよく似ている。でも、魔法学園の備品だから魔道具に似たような仕掛けがあって、教科書やノートを収納しておく広い空間も持っていた。

 でも、その仕掛けが壊れるくらいの衝撃を受けたのだろう、机や椅子の足は折れ、収納空間に入れて置いた魔法言語辞典や研究ノートもバラバラになって床に落ちている。

 それも、狙ったかのようにわたしの机と椅子だけ。


 うん、狙ったんだよね?

 わたしはその惨状を見下ろしながら、ふつふつと怒りで腹の中が熱くなるのを感じていた。


 ホームルームの時間が始まる前だから、まだSクラスの生徒たちは全員この場にはいない。とはいえ、十人以上の生徒がいて、わたしが立ち尽くしているのをただ横目で見ているだけだ。いや、嗤いながら観察している子たちもいる。


「天罰が下ったのではないかしらねえ?」

 笑っている女の子たちの一人が口元に手を当てて上品さを演じながら言うけれど。言っていることには全然気品なんて存在しない。明らかに身分が下のわたしに対する差別意識と敵意しかないその声に、怒鳴らなかったわたしを自分で褒めてあげたい。

「天罰ですか」

 わたしは低く呟いた。

「そうよ? 自覚はないのかしら」

 その子はまっすぐな金色の髪を細い指先で弄びながら、きゅ、と唇の端を持ち上げる。「あなたは何か勘違いをされているのよね。もちろん、魔物と泥臭く戦う家に生まれているのですもの、我々とは意識が違うのかもしれないと同情するわ。あなたはエイデン様に声をかけていただいて、舞い上がっているのでしょう? それなのに、身の程知らずにもエイデン様の好意を踏みにじるような言動をしておいて、このクラスで上手くやっていけると考えていたの? まともに貴族としての教育を受けてきていなかったのかしら、と懸念してしまうわ」

「それで、これがその天罰ということですか」

 わたしは水浸しになった魔法言語辞典を取り上げ、風魔法でそれを乾かし、修復の魔法言語を展開させた。白く輝く小さな光が舞い踊る中で、水を吸って膨らんでいた本が元に戻っていくのを確認すると、つい笑いだしてしまった。

「明らかに誰かがやったというのが見て取れますが、天罰というのは人間が魔法を使って嫌がらせをすることを言うんですね」

「な」

 気色ばんだ声を上げた彼女に、わたしは真っ向から立ち向かうことに決めた。


「神様の気持ちを代弁してくださってありがとうございます。それが天の意思というのなら、わたしは従います」

 わたしはそう笑顔で言ってから、目の前の机と椅子を防御魔法でぐるりと取り囲んで封鎖した。

 そうしている間にも、次々と他のクラスメイトたちが戻ってきている。

 その中にはウィルフレッド殿下やエリス様、ベアトリス様たちもいて、何事かと表情を強張らせていた。彼らの表情は純粋に驚いているようだったから、これを指示したのは彼らではないのだろう。

 でも、原因になったのはあんたたちなんだから!

 と、八つ当たりに近い感情を抱きつつも、わたしはもう一度女生徒に視線を戻して微笑んだ。


「証拠保全というやつです。これを先生に見てもらい、話をさせてもらいます」

「話?」

 彼女はそこで少しだけ不安げな光を瞳にチラつかせたけれど、腕を組んで胸を張る。「誰かがこれを故意にやったと言いたいのかしら。でも、証拠はないわよね?」

「そうですね。でも、極端な話、証拠なんてどうでもいいです」

 わたしは戦ってやると腹を決めたのだから。

 どうなろうと知ったことか。

 人間、開き直ると何でもできる。今以上に自分の立場が悪くなったとしても、その結果、この学園から追い出されることになったとしても、もうどうでもいいのだ。


「先生。どうか、わたしを別のクラスに移動させてください」

 わたしは、教室の扉を開けて入ってきたミルカ・ノルディン先生にそう嘆願した。

 彼は白い顔を強張らせながら、魔法の壁に取り囲まれたわたしの机と椅子を確認し、苦々し気に教室の中をぐるりと見回した。

「魔力の痕跡を確認すれば、誰がやったのかは簡単に解るがな」


 わたしは机の傍に立ち尽くしたまま、そっとさっきの女生徒に視線を投げた。少し前方の席に腰を下ろしていた彼女の背中には何の動揺も見えない。その代わり、彼女の近くに座っていた女生徒がびくりと肩を震わせていた。

 つまり、手を下したのはその子なのだ。

 ふーん、へえ、ほー。

 さすが、上に立つ人は違いますね。汚れ仕事は自分の配下にやらせるってわけですかあ。

 わたしはそう言いたいのを我慢しつつ、にこにこと微笑みながら言った。

「先生、わたしは犯人が誰かなんて問いませんし、逆にそれを調べたら後が怖いから避けたいとさえ思います」

「ディアナ・クレーデル嬢」

「でも、このようなことをしてくるクラスメイトがいる状態で、勉強なんて無理です。それに元々、高貴な方々の間に身分の低い人間が混じることが間違いだったのです。だって、身分が原因で起こるいじめも差別も、どうやってもなくならないのですから。だから、このクラスから逃げることを許してください。逃げるが勝ち、なんて言葉が世の中には存在するのですから、わたしはその教えに従います」


 そこで、ミルカ先生の目が細められた。

 ただでさえ人形のように整った先生の顔から感情が消えると、ぞっとするほど凄みを感じる。

 ミルカ先生は肩を震わせている女生徒に一瞬だけ視線を向けた後、わたしに向き直って頷いた。

「解った。職員会議にかけるから待っていなさい」

「ありがとうございます」


 わたしは多分、満面の笑みで応えただろう。

 ミルカ先生は少しだけ驚いたようにわたしを見つめ直した後、小さく頷いて見せた。


 これが権力を使うってことよね?

 身を守るためなら、活用できるものは利用しなきゃ。


 奇妙な空気が流れる教室の中を見回しながら、ウィルフレッド殿下とエリス様が興味深そうにわたしを盗み見ていることに気づいて、内心で『ちっ』と思う。たとえ何があったとしても、殿下たちの権力に頼ることはしたくない。わたしは彼らの視線に気づかないふりをしつつ、ふと――。


 そう言えば、前世でも同じようなことがあったな、とかうっすら思い出していた。

 その時は自分がいじめを受けていたわけじゃない。でも、誰かがいじめられていて、それを見たわたしは先生に相談したのだ。今と同じように。

 前世も今の自分も、中身はほとんど同じだな、と頭のどこかで感じる。だから、わたしは正しい戦い方を知っているのだ。自分の立場を守りながら、相手を追い詰める方法を。


 確かにわたしはSクラスにおいては最弱の立場だけど。

 窮鼠猫を噛むって言葉を思い知らせてやりたい、と拳を握りしめながら、ゲームなんかくそくらえだ、と内心で呟いたのだった。

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