駆引き
だいぶ時間を使ってしまった。
息が切れているが構わず自転車を漕ぎ続ける。アドレナリンが出ているのか、あまり苦しく感じない。
陽芽高はひらきの家から徒歩10分程度の距離なので、思ったより早く着いた。
当然、正門は固く閉ざされていた。時計の針は20時35分を指していた。
侵入するなら正門を避けて外周の柵から登るのが正解だろう。正門と昇降口には監視カメラが設置されている。
他に監視カメラがあるのは部室棟……だけのはず。
幸い、田舎の高校なので周りに住宅があるものの、数軒程度だ。
人目につきづらい東側の柵に自転車を止め、足場代わりにして柵を登る。
柵は自分の背丈より高いし、足を引っ掛けられそうな場所が高い位置にしかない。
そのため、腕の力で無理矢理に柵を乗り越える。
夜の学校に侵入……普段の俺なら絶対にやらないことだ。
面倒事は……嫌いだ。
だが、山下やひらきが芳川の毒牙にかかるのは絶対にあってはならないことだ。
芳川の言う通り、東棟一階のベランダから中に入れる出入り口を探る。
一番手前の教室のスライド式のガラス戸が開いた。
音を立てないように、静かに侵入しガラス戸を閉める。真っ暗な校内に不安を覚える。
ライトを点けようと左のポケットからスマホを取り出す。
その瞬間、ひらきの顔が頭をかすめた。
駄目だ、落ち着いて行動しなくては。
取り出したスマホはディスプレイを明かりの代わりに、そして壁に手をあてながら壁沿いに階段まで移動する。
ライトを使わなかったのは巡回している警備員に気づかれないためだ。
廊下は火災報知器の表示灯が赤く灯っているだけで、明かりの消えた校舎は不気味だった。
稀に近くを走る自動車の音が遠くに聞こえる程度で校内は静かだった。そのせいもあって、自分の足音と息遣いをうるさく感じる。
一階、二階、三階……慎重に階段を昇り、東棟側の4階に着いた。
屋上への階段は西棟側にしかないので、また、壁伝いに身を低くしながら廊下を移動した。
少し頭を出して、吹き抜けのある内側の窓から西棟の方を見たが巡回している警備員はいないようだ。
……夜の学校のセキュリティはこんなに甘々なものなのかと、首をかしげる。
屋上への階段を昇り、出入口の前まで来た。非常灯の明かりがぼんやりと出入口を照らしていた。
スマホを操作して配置する。
これで良い……筈。
そして、出入口のドアノブを回す。鍵はかかっていないようだ。
鉄製のドアは滅多に使わないからか、開けるとギギギと音が出たので、慎重に少しずつドアを開けてそっと閉めた。
屋上は月明りに照らされ、足下のコンクリートに所々苔が生えているのが見えた。
周りを見渡すとフェンス越しに街頭や家の明かりがチラホラと見えるだけだ。
そして、地上と比べると少し風が強く、吐く息が風に流されて行く。
「やあ、待ってたよ。藤井くん」
声は背後から聞こえた。いや、正確には屋上の出入口の建物の上から聞こえた。
芳川は建物に腰掛け、出入口の上部に足をプラプラさせながら、こちらを見下ろしていた。
「お前の要望通り来てやったぞ。何のつもりだ? 」
「その話をする前に君のスマホを渡して貰おうか。録音でもされてたら困るからね」
流石にその程度の警戒はしているか……。
渋々、右のポケットからスマホを取り出す。ただ、これを渡せば交渉が不利になる。
俺の本当の目的は裏サイトへの画像アップロードの阻止ではない。
山下とひらきの画像を完全に消去することだ。
「そっちが山下やひらきの画像をアップロードしないと確約を得るまでスマホは渡せない」
「なら、力ずくで取り上げるまでだ」
その発言に身構える。
病院では不意をつかれたが、こちらも既に臨戦態勢だ。間合いを保てば負ける気がしない。
「木崎、室伏、あいつからスマホを奪え、対価は用意してある」
そういうと出入口の建物の裏から、ぬうっと人影が現れた。
風の音でシナスタジアが阻害されているのか気が付かなかった。
嫌な汗が背中を伝う。
柔道は一対一の競技だ。多対一の勝負に向いていない。
「芳川さん、スマホさえ無事なら、こいつがどうなろうと構わないんですよね? 」
ひょろ長い体型の方が芳川の方を振り返り、不穏なことを聞く。
「好きにしろ」
芳川が吐き捨てる様に言う。
……が、遅い。
ひょろ長い方の懐に入り、反応される前に背負投げで投げ飛ばす。コンクリートの床に叩きつけた。
「ぐうあっ」
引き手は少し緩めたが、離してはいない。引き手を放せば、普通に殺してしまう可能性があるからだ。
もう一人の中肉中背の方が呆気に取られていたので、間合いを詰める。
「てめっ」
右手の拳を振り上げるのが見えたので懐に潜り、左手で下から相手の右腕を掴む。そして、右脚を掬い上げて後に倒す。
もろに背中を打ったようだ。
「ぐっ」
これで暫くは動けないだろう。
しかし柔道の試合と違い、喧嘩の場面で多対一なら何とかなるもんだな。
だが、油断はできない。すぐに顔をあげて間合いをとる。
出入口の建物に座っていた芳川がいない!
「チッ」
左から反射音の感触がした。右に跳ぶ。
「今のを避けるとは思わなかった」
そう言った芳川の右手には黒い箱状の物が握られていた。
……なんだ、あれは?
「大人しくスマホを渡してくれないかな?それに立場が分かっていないみたいだから、はっきり言うが……」
芳川がニヤニヤしながら、自分のスマホを俺に見せる。そこには山下の下着姿の画像が表示されていた。
「僕はいつでも裏サイトに画像をアップロードできる。大人しく渡したほうが身のためだぞ」
俺は、ひらきと話し合い、現状を把握したうえでここに来た。だから、冷静に対応できる。
「芳川……アップロードしてみろよ」
芳川が嫌悪感を露わに言う。
「できないと思っているのか?」
「……思ってるよ。お前は卑怯者だからな」
最近、ランサムウェアというウィルスがインターネット界隈で流行っているそうだ。
パソコンがランサムウェアに感染すると、中身が暗号化されて見ることも触ることもできなくなる。
その代わりに身代金を指定の口座に振り込むと暗号化を解除してくれるという仕掛けだ。
この話を聞くと反応は様々だが、大多数の人は『お金を払っても解除してくれないかもしれない……』と思うそうだ。
だが、実際は違う。
お金を払えば暗号化は必ず解除される。
なぜなら、暗号化を解除しないと次からは誰もお金を払わなくなるからだ。
つまり……
「芳川、お前が裏サイトにファイルアップロードをすれば、お前の欲しいものは永遠に手に入らなくなる 」
「意味がわからないな」
そう言いながら、芳川は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「お前は……山下が仕掛けた計略にまんまと嵌ったんだ」
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