第17話 ささやかな時間
新年早々の夜風は、身に染みるほどに寒かった。吐いた息は白い湯気となって、深い闇の空へと消えていく。
年越し特番のテレビ番組を見ながら除夜の鐘を聞いたのが、だいたい一時間ぐらい前。おじさんの鶴の一声で、みんなで
皆で揃ってどこかへ行くというのは、この家に来てから初めての経験だ。おじさんは「夜中だし、ついそこまでの距離だから」と、いつものジャージ姿の上に冬用の古びたコートを着込んでいる。初詣に行くにはあんまりな格好だとも思ったが、そもそも寒くないのだろうか。
その隣を歩く
イェンさんと、日本の初詣の話をしながらその隣を歩く
となると、私は自然と
「何よ?」
くぐもった美琴さんの声は、ほんの少し機嫌が悪そうだ。
美琴さんの格好は帆夏さん同様、基本的には隙の無いお洒落なものだった――ただ、目深に被ったニット帽と、首元から顔の辺りまでぐるぐる巻きにした厚手のマフラー、そして息で白く曇った伊達眼鏡のせいで、ぱっと見には一体誰だか分からない。
美琴さんがそんな格好をしているのは、きっと前に言っていた
「色々と大変ですよね……でも、みんなで一緒に初詣に行けて良かったです」
慎重に言葉を選んだ私に、美琴さんがわずかに視線を逸らして、小さく鼻を鳴らす。
「まあ、ね。でも、こんな時だし、こんな時ぐらいだろうから」
美琴さんは一見冷徹そうに見えるが、感情表現がちょっと苦手なだけで実は優しい人だということは、ここしばらく一緒に住んでみて随分と分かってきた。ついさっきだって、最初は初詣に行くことを渋っていたけれども、おじさんが一言「たまにはみんなで、な」って言っただけで、仕方が無いといった表情ながらも外出の準備をしてくれていたし。
そんなことを考えていると、ついつい微笑ましかったのだが――
「……何よ?」
「いいえ、別に」
それからしばらくの間、私達は無言のまま並んで歩いた。神社が近付いてくるにつれて、だんだんと通りを歩く人の数が増えてくる。それは親子連れだったり、カップルだったり。何となく、ほんのりと暖かい雰囲気が伝わってくる。
程なくして、私達は目的地である神社に到着した。周囲にはいくつもの提灯がぶら下がっていて、神社の周りだけが真昼のように明るい。新年になってまだ間もないというのに――あるいは、間もないからなのか――そこそこの数の参拝客で境内は賑わっている。
刺すような痛みに近い感覚で
おじさんの家の金庫番である帆夏さんからお賽銭を貰って、みんながそれぞれにお賽銭を投げ込んで神様にお祈りをする。おじさんは大雑把に、帆夏さんは静かに、イェンさんは勢いよく、そして莉奈さんは自分の財布からも小銭をひとつかみ取り出して豪勢に。
「よくよく考えてみれば、案外便利なものよね」
「小銭一枚で願い事を聞いてくれるなんて、神様ぐらいのものなんだから」
いかにも美琴さんらしい、ちょっと皮肉っぽい物言い。
「まあ、そうですよね。これで願い事を叶えてくれれば、もう言うこと無しですけれど」
私がそう返すと、美琴さんは一瞬目を丸くした後、くくっと喉を鳴らして笑った。
そんな私達を見て、おじさんが呆れたように言う。
「お前ら、神様の目の前でよくそんな罰当たりなことが言えるなぁ」
私は軽く肩をすくめ、お賽銭を投げ入れて適当に手を合わせた。わざわざおじさんに反論するつもりはないが、人を救うのは、決して神などではない。
それから私達は、神社の振る舞いを堪能した。おじさんと美琴さんはお酒、あとのみんなは甘酒とおしるこ。それほど大きくもない神社で屋台も出ていなかったため、この時間帯の楽しみと言えばそれぐらいしかなく、こちらも結構な人で賑わっていた。
美琴さんが何度か、おじさんが何度もお酒の振る舞いの列に並んでいる間、私は他の皆と一緒におしるこを食べていたのだが、その輪の中で唐突に莉奈さんが言った。
「ねえねえ
「別に、これといって何も」
「ええーっ、せっかくお参りしてお賽銭まであげたってのに、なんで?」
ややおおげさなアクションを見せた莉奈さんに、曖昧な笑みを返す。
「そういう莉奈さんは、結構な額のお賽銭を入れられていましたが、何をお願いしたんです?」
「そりゃあもう、商売繁盛!」
そう言い切って胸を反らす莉奈さん。ああ、大きい人がうらやましい。
「この歳になると今の仕事、色々ときついからねー。若い子達に負けないように、お客さんがたくさん付いてくますようにって」
「莉奈さんだって十分若いじゃないですか」
「だーめだめ、アタシらの業界じゃあ二十代半ばなんて、もう十分にオバさんなんだよ」
莉奈さんの言葉に、帆夏さんが苦笑いを浮かべ、美琴さんのお酒の手が止まる。
「あっ、いやいや、お客さん達から見たらって話だからね、これ……で、イェンは何をお願いしたの?」
莉奈さんによる強引な話の方向転換に、イェンさんは最初きょとんとしていたが、莉奈さんが自動翻訳機に向かって話をし直すと、イェンさんが笑って答えた。
『早くベトナムへ帰れますように、とお願いしました』
至極ごもっともな願い事だと思ったが、その願い事をおじさんが聞いたら一体何て思うんだろう? 事情はあれど、一応二人は法的に夫婦なんだし。ちょっと複雑。
「まあ、イェンだったらそうなるよねー。で、帆夏さんは?」
「えっ、私?」
突然話を振られた帆夏さんは、少し困ったように笑った。
「そうね……今年も一年、みんなで幸せに暮らせますようにって」
いかにも帆夏さんらしい願い事に、思わず笑みがこぼれてしまう。やっぱり帆夏さんは優しいなぁ。
「ふぅん、そっかー……ってことで咲希っち、みんなこんな風にお願い事があるんだから、今からでも遅くないよ。何かお願い事って思い浮かばないの?」
そう言いながら、肘で軽く私を突いてくる莉奈さん。そんなことを言われても、正直困るのだが――。
「お願い事はやっぱり思い浮かびませんが、今のこの時間はそれなりに楽しいですよ」
まだお母さんが生きていた頃、初詣は一年の中でも数少ない楽しみの一つだった。お母さんと二人でお参りをして、ささやかな願い事をして、それから今みたいに振る舞いのおしるこなんかを食べて――ほとんどお金の掛からない娯楽。そう言えばあの頃は神様に、お母さんの体調が早く良くなりますようにってお願いしていたっけ。
「……あっ。今一つ思い浮かびました、お願い事」
「えっ、なになに?」
いかにも興味深そうにこちらを見る莉奈さんに、私は答えた。
「みんながずっと元気で入れますように、って辺りでどうです? 帆夏さんのパクリみたいで恐縮ですが」
おじさんは毎日遅くまで働いているし、帆夏さんには持病の
「くーっ、咲希っちったらもう、可愛いなぁ」
莉奈さんが私の頭をくしゃくしゃっと撫で、そのまま私の肩に手を回して力を込めた。その様子を見て、帆夏さんは穏やかな笑みを、美琴さんは目元だけで小さな笑みを浮かべる。イェンさんがニコニコしているのは、いつもと変わらない。
そこへ、顔を真っ赤にしたおじさんが戻ってきた。振る舞い酒ということで、どうやらしこたまお酒を飲んできたらしい。おじさんが日頃晩酌をしているところをほとんど見ないことから考えると、これを機会にとお酒を堪能してきたのだろう。
「うぉーいお前ら、もうそろそろ帰るとするかぁ」
タダ酒にありつけてご機嫌のおじさんの様子に、私達女性陣はお互いに顔を見合わせて、ぷっと笑った。
「そだねー。アタシらもそれなりにお腹いっぱいになったし、
莉奈さんのその一声で、私達は家路についた。ここに来た時と同じように、おじさんと帆夏さん、莉奈さんとイェンさん、そして美琴さんと私のペアで並んで歩く。
「美琴さん」
「何?」
今は普通のテンションで返事をしてくれた美琴さんに、私は言った。
「こんなに大勢で初詣に来たの、実は生まれて初めてなんです」
「そう。で、それなりに楽しめた?」
「ええ、それなりに」
そう言って私が笑うと、美琴さんがまだ曇り気味の伊達眼鏡の奥で、少しだけ目尻を下げた。
「そう。だったら良かったわね」
やっぱり美琴さん、感情表現が苦手なだけで、根は優しい人なんだなって思った。そしてそのことが、何だか少し嬉しく思えた自分がいた。新年早々、皆とのささやかな時間を過ごせたのは、本当に良かったと思う。
あ――そう言えば、おじさんは一体どんな願い事をしたんだろう。
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