神社の桜並木の奥からよぶ声

透影 弦

神社の桜並木の奥からよぶ声

 吹き抜ける風の冷たさは和らぎ、穏やかな陽が木々を包み込む。生命の芽吹く季節が訪れていた。

 桜が咲く度、神社へ俺をよぶ声を聞いた。花に興味がなくても、忙しくてもお構いなしで、散り際が近づくとその声は次第に大きくなる。ただ、おいでおいでと手招きする誘引に負け、もう二度も山上にある小さな社へと足を運んでいた。

「あいつ驚くかな」

 今年の春はまだ始まったばかりだ。いつも一方的に呼ばれてばかりいるから、三度目はこちらから出向いてやろうという魂胆だった。

 神社へと繋がる石橋を越え、一礼して鳥居をくぐる。本殿までの急な石段を急ぎ足で上った。声は未だ聞こえないというのに、会いたいと渇望してしまっている。随分と絆されたものだと、最後の一段を踏み切り、そのまま鳥居をもう一つ潜った。

 春の盛りになれば、風と共に花びらが舞い踊り、桜色に染まる神社の並木道もまだ蕾すら膨らんでいない。

「早すぎたか」と独り言ちながらも、着飾る前のあいつを見てやるのも悪くないかと、最奥へと踏み出した。

 参道から外れ、最深部へ辿り着く。

 胸を強烈な違和感が襲った。桜が咲いていないせいではない。もっと根本的な違和だった。

 あいつが、いない。あいつの定位置だけが、ぽっかりと空いていた。

「そんなはず……」

 何度確かめても、あいつがいたはずの空間には何もなかった。

 触れたはずの枝も、左右へ枝条を広げる太い幹も。

 嫌な予感を抱えたまま視線は地面へ吸い込まれる。最悪の想像を掻き立てられるものの、その痕跡すら見つけられなかった。

 途端にあいつの存在が朧気になり、怖くなった。

 一年前、確かに黄緑の柔らかな新葉と薄紅の残った枝と触れあい、散り際の姿を愛おしんだはずだ。あいつを、その葉桜を見上げて、切なさと懐かしさに、知らぬはずの感情に心を震わせた。特別な桜なのだと、散るまでに間に合ってよかったと安堵したはずのだ。

 日々の疲弊と憂いを癒やし、胸奥に積み重なった枷を解いた優しさは何処へ消えたというのだろうか。

 瞬間を留めようとシャッターを切り、その温かさまでは映らないなと惜しんだではないか。

 もう少し一緒に居たいと伸ばした手を留めて、背を優しく押したのはあいつだったはずだ。

 「また、来年」と約束したはずじゃないか。

 数枚の花弁をのせた涼風に背を押されたのは嘘だったというのか。

 もう、あいつによばれることはないのだろうか。

 世界に興味を失っていた俺を世界と結びつけたくせに。自分は何も言うことなく、何処かへ行ってしまうなんて。

 この先、桜を見る度に思い出すのか。それとも、存在ごと忘却してしまうのだろうか。

 どちらになっても苦しいと、胸を掻き毟りたくなる。

 

 ――ああ、桜なんて嫌いだ。


 俺にもただ一本の桜に執着している理由がわからない。

 埋まっていた死体を骨の髄まで吸い尽くしたとでもいうのだろうか。俺を次の標的にでもしたかったのか。

 なんだっていい、答えてほしい。

 せめて最後にさよならくらい言わせてほしかった。

 二度と逢えないのなら「また」なんて言うんじゃなかった。

 

 ――ああ、あいつなんて嫌いだ。


 いつもと同じ青空に春風が吹いた。数年ぶりの静寂に満ちた春がもうやって来ていた。

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