第10話 butterflyeffect 10

 火照った頬を切り裂くのは、張り詰めた冷気だった。



 黒い夜の鳥を追いかけて、僕は階段を駆け上る。

耳にうるさい、銃が僕の背中でカチャカチャ音を立ててる。

ヨーセフによく言われた、なるべく音を立てない様に動くんだ。

そんな事頭から全部飛んでいってしまうぐらい、僕は興奮をしていた。

なんでだろう。

導師アースィムを言い負かしたから?

見たこともないぐらい強く、綺麗な人に出会ったから?

理由は多分、色々ある。

色々あるけど、今は何も関係がない。


 地下の会談場所から、土臭い塹壕を通って、それからまた、泥だらけの階段を上がる。

そうしたら地上で、地上は月の光を反射する雪でキラキラと光っていた。

カンテラすら必要のない目もくらむような寒さの中、僕は情熱を込めてあの黒い戦士を探した。

スラッシュ・ライトを例えるなら、と僕は弾む息の奥で考える。

彼は暴力だ。瑞々しい美しさを持つ暴力だ。

その瑞々しさゆえ、正しささえ孕んでいる暴力だ。

右に、左に流した視線が、今にも暗闇の中に消えかけている彼を見つけた。

反乱軍の誰一人、そこにはいなかった。

なら僕は、彼に駆け寄る権利を有している。

重いケルベラのブーツを絡ませながら、雪を踏みしめた。

足跡は真っ直ぐ、黒い暴力に向かっていった。


 彼の後ろ、数メートルの距離をとって、小走りから歩き始めた。

口の奥がムズムズして、僕は忙しなく辺りを眺める。

言いたい事、聞きたい事が山ほどあったからだ。


 その服はなんていうの。

どうしてそんなに背が高いの。

寒くはないの。

あの手の宝石はなんていうの。


そして、何よりも思った。


どうして貴方は、飢えていないの。


 僕が無くしてしまった平和な世界の未来がそこにあった。

スラッシュは強くて、逞しくて、大きくて、綺麗だ。

もしかしたら僕も、そうあれたかもしれない、この戦争がなかったら。

これは憧れだ、と僕は彼の背中を見ながら考えた。

分厚いケルベラのコートの奥で、飢えと痛みを抱えている、僕の筋張った腕じゃ、彼の背中に届くわけがないんだ。

彼の手の甲には美しい宝石と、その宝石に見合った正しい筋肉が張り付いている。

この細い、汚れた手にあの美しい宝石が飾られていたらどうだろう、と僕は思った。

ひび割れた爪の間には真っ黒な泥が挟まってる。

なんて似合わないんだ、と笑った僕に、夜から突如声がかかる。「おい」


 どきり、と胸が鳴った。

ふっと顔をあげると、数メートル先で振り返るスラッシュの迷惑そうな顔があった。

表情は一切の変わりがないけれど、発する雰囲気が拒絶のそれをとっている。


「ついてくんな、鬱陶しい。さっさとバカの檻に帰れ」


 喉が詰まったけど、何を言われてもいい、と飛び出した時に決めていた。

その為の言い訳も用意していた。


「・・・雪の中だと、その格好目立つから。政府軍に見つかったら、殺されるだろ」


 はっと吐き出しながら正面を向いたスラッシュが再び歩きだした。

置いていかれない様に少し歩幅を広げて、僕はスラッシュの後ろに続く。


「この雪の中で攻めてくる気合があれば、こんなクソくだらねえ小競り合いも長引いてないだろうよ」


 言いながら胸元を探るスラッシュの仕草を、僕は観察する。

強くて綺麗なスラッシュにしてみれば、こんな戦争、小競り合い程度のものなんだろう。


 ヨーセフの事を思い出した。

ヨーセフもこんな戦争はクソくだらないと言っていた。

導師アースィムは言った。

イムワットへの信仰を試す、これは聖戦だと。

本当にそうなのか。

本当は、ただ憎いだけじゃないか。

信仰も尊厳もそこにはない。

殺された母さんの、エタナの、父さんの仇が取りたいだけじゃないか。

イレさんが言ってた事こそ、本当じゃないか。

雪で滑った足元を立て直して、そのついででスラッシュに声を掛けた。


「・・・群になったケルベラは危ないんだよ。この時期、食べる物がなくて飢えてる」


 これを聞いたスラッシュはまた笑った。

広い手の中には、タバコのケースが収まっている。


「何匹だ?二十匹程度なら殺せるが、それ以上になったら厳しいな。そんときゃお前を囮にして俺は逃げるよ」


 スラッシュの歩みが止まった。

彼の口元に手が寄せられて、オレンジ色の炎が一瞬だけ煌めいた。

彼が息を深く吸い込む音があって、続いて芳しいタバコの煙が辺りに漂った。


「まぁ、いい。ケルベラの囮役に使ってやるよ。ただ、この街の出口までだ。迎えが待ってるからな」


 夜と共に歩む許可が出て、僕の足は飛び上がりそうになった。

伸びた背中の線を一生懸命引き止めて、でも浮かぶような足取りで、僕はスラッシュの後ろを歩く。

何処か踊る様なリズムをとりながら。


 スラッシュの背中は健康的に流れて動く。

夜の中でも、寒さの中も、一切の悲しみを持たない、なんて力強いしなやかさ。

だからこの背中についていけば、何かしらの希望が見える様な気がしたんだ。

夢を見る事を許可された様な、そんな開放感があった。

戦争が終わったら、とその時僕は初めて考えた。

戦争が終わったならたくさん食べて体を鍛えよう。

そして僕も、夜の闇の中にあっても、消えない心と力を持とう。

その為には、スラッシュの全てを刻みつけておかなくちゃ。

だから、僕の目はスラッシュの全てに注がれる。


 雪を踏む音をそれぞれに響かせながら、泥で汚れた雪道を歩く。

一直線の大通りにもうかつての繁栄はない。

壊れた石の壁が点在していて、壊れてしまった街そのものの上に雪が積もっていた。

そしてとうとう月明かりが街の外れの出口を照らしてしまっている。

結局ここまで何も言えずに歩いてしまった。

このまま終わりだなんて思いたくなかったけど、仕方がない。

だから凍えた外気を吸って、目を見開いて彼を見た。

そうしたら彼の背中が停止して、何かを探っている様子が見てとれた。


 スラッシュの背中が、彼の纏う雰囲気が、ぴんと張った気配がする。

僕にはなんのことかわからなくて、彼が何を考えているのか、何を見ようとしているのか、探して辺りを見回した。

静かな雪の夜があるだけだ。

けど、黒いスラッシュの美しい背中、そこから張り出す雰囲気が、引き絞られた糸のように緊張、している。


 僕にはその時、彼の出すそれが、殺気であるとは理解できなかった。

彼の纏う雰囲気は、まだ優雅だったからだ。

僕は無謀にも彼に声をかけようとした。

けれど不思議と声を出せなかった。

彼の優雅さの糸の先、針を通すような隙間の中に張り詰めた殺気が、僕の喉を潰した様だった。

不安だ。不安が足元から一気に喉に迫り上がってきた。

草むらから飛び出す前の獣の静謐さを持って、彼は先ず、煙なのか、凍った呼気なのかわからない白いものを吐き出した。

ゆったりと左に目線を寄せる。


一つ間をおいて、スラッシュが唸った。「ガキ」


 胸元に入ったスラッシュの手の平が振り抜かれたのを、僕は見た。

左上の廃墟を狙って彼のナイフが夜を切り裂き飛び出した。「逃げろ!」


 何かが弾けた音がして目を閉じた。

目を開いたら、倒れていくスラッシュの姿が見えた。

頭部を撃ち抜かれた衝撃で、脳の一部と眼球が彼の背後にあった壁に張り付いた。

美しい夜の鳥はざわめきを残して、糸が切れた様に膝をつき、倒れて、動かなくなった。


「・・・あああ・・・!うああああああ!」


 絶叫と一緒に銃を構えた。

音の方向を確認したけど、廃墟の奥は暗くて見えない。

スナイプはヒット&ランが基本、もうすぐそばにいるかもしれない。

抜けた腰は、血を吹き出し目を見開いて倒れた彼の遺体のそばに落ちた。

まだ温かい、でも動かないスラッシュの遺体に縋って僕は頭を守る。

どうしよう。どうしよう!

混乱の中でも僕は、スラッシュの遺体をどうにか隠そうとした。

これは見られちゃいけないものだ、誰に見せてもいけないものだ、その確信だけはあった。

頭を低く保ちながら、僕は彼の遺体を何処かに引きずろうとした。

彼の腕を掴み、立ち上がらせようとした

僕は隠れる場所を探して右を見る。左を見る。左を見る。

上を見る。

底冷えする恐怖が、周囲で僕たちを笑っている、いや、僕たちを嘲笑っている。

笑いながら、そこら中から、銃口が僕に向けられている感じがする。


 震える手でスラッシュの体を引っ張る。

重い死体が指に食い込む。動かない。

僕の貧弱な、小さな手じゃスラッシュを動かすこともままならない。

揺らされたスラッシュの頭部から、血と内容物がぼたぼたこぼれ出して、真っ赤な血液が雪を汚していく。

怖かった。ただ、怖かった。

自分の死が目の前に迫っているという予感に震えた。

嫌だと思った。

あんな風になるもんか、とも。

母さんみたいに、ハーディみたいに、死にたくない。

スラッシュを動かせないのなら、動かさずに戦えばいい、と僕は切り替えた。

彼を背中に守り、彼の体を崩れた壁に腰で押し付けた。

そのまま銃を構える。

来てみろ、撃ってやる。殺してやる。僕は絶対に、あんな無様な死に方なんかするもんか!


 突然世界が逆さになった、と思った。

何故か体が空に浮いて、何処かに叩きつけられた。

頭をしこたま打ったから、痛む場所を押さえながら起き上がった。

目を開いて、最初に目に入ったのが、磨かれた木の床。

周りにあったのはオレンジの西陽が差し込む、暖かな室内の温度だった。

雪と夜が僕の視界から消えている。


目を白黒させながら辺りの様子を確認した。

僕の後ろには確かにスラッシュの遺体がある。そして。


亜麻色の巻き毛を夕日に透かした“何もない”表情をした男性が仁王立ちで、僕を見下ろしている。

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