優太のあさがお

津川肇

優太のあさがお

 優太は、小学一年生にして、人生最大の悩みを抱えていた。大人からしたら、ちっぽけな悩みに思えるかもしれない。しかしこれは、私たちにとっても優太にとっても、大きなものなのだ。


 ベランダの窓ががらりと開く音がして、優太の「おはよう」が聞こえた。今日もクラスで一番に登校してきたらしい。私たちも『おはよう』と返すが、その声は優太には届かない。

「はやく大きくなってね、あさがおさん」

 ちょろちょろと音がして、私たちの寝床に優太の注ぐ水が染みる。朝日で燃えるようだった体が潤って気持ちがいい。

「やっぱり今日も、芽、出てないね」

 優太がぽつりと呟く。まだ種を破れないこの身体が情けない。初めて出会った時のはずむような翔太の声を、もう随分と耳にしていない。

「ちいちゃんのあさがおはね、もう双葉が開いたんだ。健くんのはもっと大きいし」

 優太の声はくぐもっている。手で顔を覆っているのか、それとも体育座りして顔を埋めているのか、私たちはその姿を見ることすら叶わない。

『あの子、はずれくじ引いてかわいそうね』

『いや、こいつが育てるのへたっぴなだけだろ』

 あちらこちらから声が聞こえる。この心無い言葉たちが、優太の耳に届かなくてよかったと思う。ただ『がんばるから待っててね』という言葉を伝えることもできないのは辛かった。


 一か月以上経っても、私たちは優太の喜んだ顔を見ることはできなかった。優太は朝だけでなく、授業がひとつ終わるたびに水やりに来たし、私たちに励ましの言葉をかけ続けた。私はいくらか足を伸ばしただけで、土の上にはまだ届きそうもない。一緒に埋まったあさがおはもうぴくりともせず、優太の「おはよう」に言葉を返すことも無くなっていた。ひとりぼっちになった私にとって、優太だけが心の拠り所になっていた。


 ある日、私の寝床は急にぐらりと揺れた。

「芽が出てもないのに持って帰るのかよ」

 健くんの声だ。「うわ、健くんいじわるう」と、女の子の声もする。

「だってほんとだろ。夏休みずっと、土とにらめっこする気だぜ、こいつ。違うあさがおに変えたほうがいいよ」

 私は、夏休みの間、優太の家でお世話になることになっていた。今この寝床を持ち上げているのは優太のはずだが、優太の声はひとつも聞こえてこない。

「ただの土見て日記つけなきゃいけないなんてかわいそう」

「育てるのがへたっぴだからだよ。こういうの、ジゴウジトクって言うんだって」

 周りの子どもたちも健くんに同調して、心無い言葉を浴びせる。くすくすと笑う声もする。それでも、優太は何も言わない。その代わりに、私の頭の辺りが少ししっとりと濡れた。

 その時、たたたっとこちらへ向かってくる足音がした。

「ちょっと、ゆうくん泣いてるじゃん!」

 大きな声をあげたのは、優太の一番の仲良し、ちいちゃんだ。健くんも「何だよ、千鶴!」と声を荒げた。

「ゆうくんのあさがおは、今まだパワーためてるとこなの! 健のよりずうっと綺麗な花が咲くんだから」

「嘘だね。今からでも新しい種をまいた方がいいに決まってる」

 健くんとちいちゃんの間に火花が散っているのが、声だけでも分かる。その後ろの方から、「千鶴のホラ吹きが出たぞ!」「健を舐めんな!」という他の子どもたちの声も聞こえる。

 ちいちゃんの「ほら行こ、ゆうくん」という声に、優太は一言だけ「うん」と返した。


 夏休みに入ってから、ちいちゃんは優太の家へ毎日やって来た。いつもの「おはよう」の挨拶は、二人分になった。

 お水は一日に二回でいいの。太陽に当てすぎちゃダメ。ちいちゃんは優太にたくさんのアドバイスをした。私も二人の気持ちに応えようと、毎日踏ん張った。優しい優太を泣かせたくない。ちいちゃんが嘘つきじゃないって証明したい。その一心だった。


「ねえ、どうしていつも健に言い返さないの?」

 私がもうすぐ目を開けられそうになってきた頃、ちいちゃんは優太に尋ねた。

「……僕が言い返したら、健くんも嫌な気持ちになるから」

「ゆうくんは、優しすぎるよ」

 優太は確かに優しい。私のことも見捨てないし、健くんのことも悪く言わない。痛々しいほどに、心優しい少年なのだ。

「優しすぎても、よくないんだよ」とちいちゃんは続ける。

「ママが言ってたけど、優しくしすぎるとどんどんだめになる人もいるんだって。ゆうくんが何も言わないから、健くんだって調子に乗るし、ゆうくんがお世話しすぎたから、あさがおだって芽が出るまでこんなにかかったんだよ」

「でも、このあさがおが咲いたら、きっと仲直りできると思うんだ」

「健くんのいじわるは変わんないよ。まあ、あたしがいつでも助けるけどね」

「ちいちゃんは、強いね」

 私は『優太も強いよ』と言ってあげたくてたまらなかった。しっかり者のちいちゃんの強さとは違うかもしれないが、優太だって見えない強さを持っている。優しい強さを。


 夏休みもいよいよ終わるという頃になって、私はようやく目を開けた。そして翌朝、初めて優太の顔を見た。肌は思ったよりこんがり焼けていて、目尻の垂れた目を眠たそうに擦っている。後ろの髪はぴょんと跳ね、口の端にはよだれのあとが白く残っていた。起きていちばんに、私の様子を見に来てくれたのだろう。

「咲いてる……!」

 優太は嬉しそうに唇を噛み締めた。

「早くちいちゃんに見せなくちゃ。健くんもきっとびっくりするよ。ありがとう、あさがおさん」

 眩しい朝日に照らされた優太の綺麗な瞳を、私はいつまでも忘れないだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

優太のあさがお 津川肇 @suskhs

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説