金星浮遊都市3001

宇部詠一

金星浮遊都市3001

 嫌な夢を見て目を覚ました俺は、服を着たままシャワーを浴びた。「節水」という注意書きを無視して、俺はシャワーの勢いを最大にする。全身を打つ水が心地よい。この痛みこそが、自分が懐かしく思い出すものだ。俺は腹の底から叫ぶが、防音壁で誰にも聞こえない。怒りを吐き出す。悪夢を終わらせてくれた召集のサイレンは、かえってありがたかった。

 そのまま服を脱ぎ、ダストシュートに投げ込む。俺は制服に着替えて出勤する。金星の浮遊都市、東京都あかつき市瑞穂区のコックピットへと向かう。瑞穂区は金星の浮遊都市であり、軍艦でもある。

 すでにあかつき市の全二十六区・浮遊都市は陣容を整えつつあった。旭区はすでに砲塔を誇らしげに持ち上げ、青葉区は陽光からのエネルギーで満たされている。そして最後に令和区からの通信が入る。俺のいる瑞穂区が開戦を告げる。

 空から落ちてくるのは彗星、すなわち氷の塊だ。俺たちはこれを金星に落としてはならない。撃ち落とすのではなく、反重力場で金星の重力圏外に撃ち返すのだ。俺の敵はテラフォーミングの過激派・テロリストだ。なんとしてでも金星を緑あふれる星にしようとする、手段を選ばない連中だ。対する俺たちは金星を科学研究のため現状のまま保とうとする。硫酸の雨が降り、鉛も解ける高温高圧の世界を、あるがままあらしめるためだ。地球の複製を作ってどうするのだ。確かに俺はこの暑い世界で雨に打たれたい。だが、この世界に雨を許してはならない。

 俺たちは数えきれない彗星を跳ね返す。溶かさずに大気圏外に打ち返す。浮遊都市が砲撃するたびに虹色の場が干渉する。この世界に水の雨は降らない。だから七色の虹は生まれない。俺たちが作り出す虹はいびつな色合いで、空に帯を描かず、果てのない砂漠のように不毛だ。

 どれほど戦い抜いたかはわからない。彗星の群れが大気圏外へと去っていく。だがテロリストはあきらめない。またどこか、オールトの雲のむこう側から無数の彗星を投げ込んでくる。この戦いに終わりはない。彗星をすべて跳ね返すと艦長は戦いの休止を告げ、テロリストのスパイに気をつけるよう訓示する。


 俺にとっての悪夢は、地球での生活を細部まで思い出してしまうことだ。天が雨雲で覆われ、水の雨が降る世界。どこまで自転車で走っても大地が終わることのない世界。今俺が暮らすのは、数キロ四方の浮遊都市だ。確かにフロアが複数あるので、面積は政令指定都市の行政区ほどになる。だが、自転車でどこまでも走っても同じところに戻ってこない道はない。瀬戸内の島を自転車で巡ったことのある俺はそれが無性に恋しい。ひたすらまっすぐな道を走り続けたい。

 今朝の俺の夢は、大雨の中でコンビニまで何かを買いに行く夢だった。俺の田舎にはコンビニなんってものがまだ残っているのだ。レインコートが湿って張りつく不快な経験だが、今の俺にはそれが狂おしいほど懐かしい。そしてこれが夢だとわかっていたから、俺にとっては悪夢だった。目覚めれば消えると知っていたからだ。

 ああ、雨! 俺はこれほどまでに雨に飢えている。重篤なホームシック。にもかかわらず、金星に雨をもたらそうとしている連中を罰しなければならないのだ。俺は太陽系の原野を守るのは正しいと思っている。ただ、身体が地球の低気圧と雷雨を恋しがっている。

 俺は地球から単身赴任で来ている一介の公務員に過ぎない。ここの任期は三年。二百年の生涯からすればごくわずかだと思って来たのが運の尽きだ。俺は変わりばえのない毎日に苦しんでいる。大空のない世界に倦み疲れている。完璧な空調の世界。体調を崩さぬよう綿密に管理された四季。外れない天気予報。

 早く帰りたい。だが、休職を申請したところで、輸送船の関係でどのみち金星からは離れ慣れない。確かに外壁に出ることもできる。だがそれは気密服とヘルメットを着て、安全帯とストラップをつけてのことだ。俺の閉塞感はそれでは全く楽にならない。遠くに別の区が浮かんでいる。足元には雲。ぼやぼやしていると視界の隅にはまたぞろテロリスト連中が落す彗星がかすむ。地球でないことが明らかになるだけだ。いっそ昔の物語のように飛び降りたら楽になるかと考えるが、すぐにドローンにつかまってすぐに救出される。飛び降りて死を選ぶことができたのも、太陽系では過去のことだ。

 だから俺はときどき庭園で水を浴びる。庭園、酸素を生み出す区画は水やりのため、定期的な降雨がある。俺はそこで部屋のシャワーでは得られない満足感を求める。確かに濡れた葉と土のにおいがする。だが吹く風は換気扇のものだ。地球を一周してきた大気の流れではありえない。天井に映し出される青空もスクリーンだとわかっている。金星生まれには俺の苦しみはわからない。決まった時間に降る雨など、雨ではない。

 非番の日はなおさら地球が恋しい。休暇でさえ心が休まらない。俺は何度も庭園で全身を雨のようなものに打たれる。そしてそんな俺を無情に緊急の招集が呼ぶ。


 大規模な作戦ののち、何十人ものテロリストを捕らえた。通常、金星に彗星を落す連中はオールトの雲から動くことはない。初速が与えられれば物体は決まった軌道を取る。金星まで出向く必要はない。だが、不合理な信念に従ってここまでやってくる奴らもいる。彗星が落ちるのをこの目で見たいのか。あるいは俺たちと一戦を構えるつもりだったのかもしれない。なんであれ連中は捕らえられ、監獄へと送り込まれる。

 一時期、地球の犯罪者を外部の惑星に送り込むことが検討されたこともある。しかし、外の世界見たさに重罪を犯す馬鹿が出るだろうとされ、却下された。確かに田舎暮らしの若いころの俺なら地球から出るためにやりかねなかったし、その延長で金星行きを断らなかった俺は馬鹿だった。俺は怒りを抱えたまま、連中を尋問しに監獄へ向かう。気が進まないが、大通りをまっすぐ進む。

 突如、最重度の危険を知らせるサイレンが鳴る。大空にニュースが映し出される。潜伏していたテロリストに青葉区がやられた。緑区も落下していく。何万人が金星の暴風の中に消えていく。そして、月面の天文台から入電がある。テロリスト連中がオールトの雲から、到底防ぎきれないだけの彗星を投げてよこしたという。オールトの雲に潜伏していた連中の数を少なく見積もりすぎていたらしい。今までは前哨戦に過ぎなかった。このままでは俺たちは破滅だ。俺の視界の隅で計算結果がはじき出される。俺たちがどれだけ急ピッチで浮遊都市を建造したとしても、降り注ぐ大量の彗星の雨には間に合わない。

 俺は歯噛みする。そしてこの瑞穂区でも爆発が起きる。俺たちが捕らえた連中だけでできる作戦じゃない。隠し通せる爆薬の量じゃない。すでに内通者が多数いたとしか思えない。瑞穂区はすでに傾きだし、立っていられない。物理的な破壊、ハッキング、同時に行われており、すべてが終わろうとしている。

 配管が爆破される。空から水が落ちてくる。人々は逃げ惑う。張り巡らされていた給水管はちぎれる。浮遊都市を循環していた水は豪雨となる。大地は傾き、空からは魚が降ってくる。天井に映し出されていた青空も消える。逃げ場もなく、屋内に入ろうと焦る人々がいる。遠くからは空気が抜けていく破滅的な音がする。気圧が下がる。寸断された高電圧の電線から火花が飛ぶ。俺は高揚感を覚える。これこそが豪雨だ。世界が終わる今、地球に帰ることが絶望的になりながらも、俺は豪雨の中に立っている。脱出ポッドへと誘導する声がする。

 俺は生き返った。俺は予期せずにずぶ濡れになった。嘘だとわかっていても、これこそが恵みの雨だと哄笑する。俺は生きていると生々しく感じる。俺はなんとしてでも生き延びる。そしてこのふざけた事態をもたらしたテロリストを何が何でも尋問してやる。死のうとしても死なせてやるつもりなどない。無理やりにでも脱出ポッドに引きずり込んで、いつか連中の本拠地に乗り込んでやる。金星に雨を降らせようとしたことを後悔させてやる。

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