サイン
わっか
第1話
黒川のことが好きだと自覚した。
「おはよ」
「お! おは、おはよ」
朝台所で、いきなり背後から声を掛けられて思わず動揺してしまう。
「どうした? 何か挙動不審だけど」
「いや、ちょっと寝ぼけてた」
ふうん? と黒川は少し怪訝そうに俺を見た。
黒川の言うとおり、挙動不審な自覚はある。
自分の気持ちに気づいてから、今までどうやって黒川に接してきたのかわからなくなってしまった。
好きな相手に、どうしていいのかわからずおろおろしているという情けない状況だ。
過去に付き合った恋人相手に、こんな風に動揺した記憶はない。
もっと冷静だったと思う。
自分から好きになってということはなく、相手から告白されて付き合って何となく別れていたという感じ。
今のこの状況が人を好きだという感覚なら、俺は人を好きになったことなんてなかったのかもしれない。
順調に付き合っていたと思っていたのに、相手から別れを言われた理由が今わかった。
俺に気持ちがないことは、相手にも伝わっていたのだろう。
過去の記憶に沈み、思わずため息をついた。
「どうした?」
「俺って結構嫌な奴だったよなって思って」
食パンをかじりながら、黒川が首を傾げる。
「そうか?」
「うん」
「まぁ元気だせよ。ほら珈琲おかわり入れてやる」
「……ありがと」
落ち込んだ素振りを見せると気遣ってくれる。
二人でいるということは、こういうことなんだな。
黒川は、週の半分くらいは泊まっていくようになった。
同居することに前向きな気持ちになっていることは伝わってくる。
完全に同居が始まる前に、俺は黒川に気持ちを伝えなければと考えていた。
告白して、喜ばれると考えるほど脳天気ではない。
嫌悪されるかもしれないし、友達ですらなくなるかも。
最悪の結末ばかり頭に浮かぶ。
それでも伝えておかなければと思う。
このまま伝えずに友達のままでいればいいのかもしれないが、一緒に暮らしていたら気づかれるか、自分で言ってしまうかのどちらかになる気がしていた。
それなら今言ってしまったほうがいい。
まだ、黒川の逃げる場所があるうちに。
「入院? 伯父さんが?」
「そうなの。三日前の夜中に具合悪くなって病院に行ったんだけど、そのまましばらく入院することになったの」
「そんな」
自宅から一駅分離れたくらいの距離に、母の兄の家がある。
父がいなかった俺に、幼い頃から父代わりに色々なことをしてくれた伯父だ。
伯母共々、ずっと俺のことを気にかけてくれる。
二人には子供はいなかったので、俺をまるで自分たちの子供かのように扱ってくれた。
大学の帰りに、時々家に寄ることがある。今日も約束もせずに訪れたのだ。
「電話してくれればすぐに来たのに」
「今は少し体調も落ち着いたから」
伯母はいつも通り、にこにこ笑ってお茶を淹れてくれた。
「三度目だよね。大丈夫なの?」
伯父は去年胃癌が発覚し、今は闘病生活を送っている。
手術のために一度入院し、半年後に再度入院していた。
手術後はきつそうにしていた伯父だったが、最近は少し落ち着いてきたかのような印象だった。
「大丈夫よ」
伯母はそう言って笑うが、大丈夫でなくても笑うのがこの人だ。
大丈夫かと聞かれたら大丈夫だと言うしかないよな。
「何でもするよ。着替え持って行ったりとかするし、俺に言ってよ」
「ありがと。優しいね瞬ちゃんは」
穏やかに笑う伯母の顔を見て、なぜか少し胸が痛んだ。
「何か、変な顔してるな」
「えぇっ」
晩ご飯の後、一緒に片付けをしているとき黒川に言われた。
「変って、どんな? 顔が、じゃなくて表情てこと?」
「そうそう。顔の作りは良いと思う」
「そりゃどうも。というか、どんな顔してた俺」
黒川は、ううんと唸る。
「自分で言っといてなんだけど、わからない」
「おおぃ」
「なんだけど、何か」
黒川がじっと俺を凝視した。思わず少し後ずさる。
少し困ったように黒川の眉が下がる。
「何?」
「いや、どこまで踏み込んでいいのかな、と思って」
「え」
「一緒にいる時間が長くなると、微妙な変化にも気づくようになると思うんだけど」
「あぁ、そうかな」
確かにそういうものかもしれない。黒川の性格が少しずつわかってきて、何を考えているのかわかるときがある。
「何もかもわかるわけじゃないけど、特に悲しい気持ちのときは伝わる」
黒川は困った顔のままだった。
「そういうとき、どうしてほしいのかと思って。触れない方が良いのか、話をしたいのか」
「えっと俺は……」
自分の頬に触れる。
「俺ってわかりやすい?」
「いや、特別そうだとは思わないけど。普通なんじゃないか」
悲しい気持ちは伝わる、か。
「ちょっと親しい親戚が入院してさ。心配だったから顔に出たかな」
「そっか」
隣に立っている黒川が、ぽんぽんと軽く俺の肩を叩く。
それ以上何かを言うでもなく、ただそれだけの動作。
それで十分だった。
「黒川の場合はどうなの? 悲しいときとか、そっとしておいてほしいタイプ?」
「俺は」
黒川が首を傾げる。
「わかんないなぁ」
「今までそういうときない?」
「あった気がする。そういうときは、家族はそっとしておいてくれたかな」
「そうか」
だったら俺もそうするべきだろうか。
「でも白井が話を聞きたいと思ったなら、そうしていいよ。嫌だと思ったらそう言うよ」
「いいの? 多分、俺は聞くかも」
「いいよ」
黒川が微笑む。何だか心を許してくれている気がして嬉しくなった。
「俺も同じでいいよ。聞きたいと思ったら、聞いてくれていい」
「そう?」
「うん」
「じゃ、それで決まりな」
お互い頷きあった。ふと黒川が何かを思いついた顔をする。
「ルールとか決めた方がいいかもな」
「ルール?」
「同居で揉めないように。これはされたら嫌だ、とか家事の分担とか、わかってる方がいいかなと思って」
「あの、黒川」
「ん?」
「あの」
言うなら今だ。
「あの、俺さ」
意を決して黒川の顔を見る。俺の様子が少しおかしいことに気づいたのか、黒川もまっすぐに俺を見返してくれた。
「俺、いやその……。明日の朝は、ご飯炊かない?」
黒川がずっこける仕草をする。
「何かもっと真剣な話されるのかと思ったわ。ご飯でいいよ」
黒川が笑う。
俺は自分で思っていたよりも、意気地がないみたいだ。
「手術?」
「そう。まだ日にちは決まってないけど、することになったの」
電話口の向こうで、いつも通りの伯母の朗らかな声がする。
「それって」
大丈夫なの? と言いかけてぐっと我慢した。
「伯父さんの顔、見に行ってもいいかな」
まだ病院には行っていない。伯父と最後に会ったのは二ヶ月ほど前だ。
伯母は少し黙ってから、じゃあ明日一緒に行こうかと言ってくれた。
「よう。わざわざ悪いな」
俺の顔を見ると、伯父は笑って片手を上げた。
少し顔がやつれているように見える。
「元気か?」
「それ、俺の台詞だから」
伯父は、ははっと笑って俺の頭を軽く叩く。
元々伯父は少しふっくらとした体型だったが、一年の間にすっかり痩せてしまった。
一番印象が変わったのが顔で、元の大きさから比べると半分に減ってしまったという印象だ。
人間というのは、こんな短期間に変わってしまうものなのかと驚いた。まるで別人になってしまったかのように。
伯父が急に俺にデコピンをした。
「いった!」
不意打ちで食らったのでめちゃくちゃ痛い。
「何すんだよ」
「しけた面してるからだよ。お前、見た目は派手なのに中身は地味だよな」
「いいだろ別に」
「せっかく大学生なんだから、今のうちにいっぱい遊んどけよ」
「はいはい。俺のことはもういいから」
「お前勉強やバイトで忙しいんだろ。自分のことを一番に考えな」
そう言って笑う伯父を見て、一瞬言葉が詰まる。
「伯父さんこそ、俺のことはいいから自分のこと考えてよ」
「考えてるよ。でもまぁ、来てくれてありがとな」
「伯父さん、また来ていい?」
伯父は、笑って頷いた。
「俺、あんまり来ないほうがいいのかな?」
帰り際、病院の入り口まで見送ってくれた伯母に聞いてみた。
「何か、迷惑なのかなって」
伯父が直接そういうことを言った訳ではないが、そういった感情が顔に出ている気がした。
「瞬ちゃんと会うのは嬉しいと思ってるはずよ。でも、少し戸惑ってるのかもね」
「何に?」
「自分の変化に、じゃないかしら。あの人今まで健康だけが取り柄みたいに思っている所があって、病院にも滅多に行かなかったのよ。それが大病しちゃって、自分でもまだ受け止めきれてないっていうか。だから瞬ちゃんの前でどういう態度をとればいいのか迷っているように見えるわ」
何と言っていいのかわからず、うつむいた俺の頭を伯母の手が軽く撫でる。
「瞬ちゃんがそんな顔することないんだよ。ほら、元気だして」
「それは俺が言う台詞だろ」
伯母が、あははと明るく笑う。二人はよく似た夫婦だと思う。
いつでも相手の気持ちを一番に考える。
俺はいつも余裕がなくて、自分のことばっかり考えてしまう。
本当は伯父が俺に来てほしくないと思ったんじゃなくて、俺が来たくないと思ってしまったのかもしれない。
伯父が弱っているところを見るのが嫌だった。
病院から出てしばらく歩いてから、見舞いの品を渡すのを忘れていたことに気づいた。
気晴らしになればと思って選んだ一冊の本。鞄の中に入れたままだ。
引き返して、病室の前でそっと中を覗いた。
四人部屋の窓際のベッドに、伯父は入り口に背を向けて寝ていた。
その背中を、まるで慰めるかのように伯母が優しくさすっている。
二人とも入り口に背を向けていて俺には気づかない。
一瞬迷ったが、俺は声をかけずに来た道を戻った。
病院の中は混雑していて、こんなにも病気の人がいるんだな、と間抜けなことを考えた。
伯父のように深刻な病の人たちもたくさんいて、そう思うとなんだか。
胸の奥から込み上げてくるものがあって、俺は急いで病院を出た。
「白井君。飲み過ぎじゃないの。今日黒川君はバイト入ってないんだから、送ってもらえないよ。もうその辺にしといたら」
病院を出てから、俺は黒川のバイト先の居酒屋で一人で飲み始めた。
店に通ううちに顔見知りになった店員の佐原が、心配して声をかけてくれる。
「大丈夫。歩いて一人で帰れるから。ビールおかわり」
「も~。知らないからね」
そろそろ飲むのをやめなければと思うが、中々グラスを持つ手を離せない。
俺はやけ酒をするタイプだったのか、と自分でも呆れる。
伯父の姿を見て、普段は考えない死について考えてしまった。
母のように突然いなくなることもあれば、伯父のようにじわじわと意識する場合がある。
漠然とした不安が形をとって、どんどん迫ってくるような感覚。
逃げ出したかった。
「白井。帰るぞ」
「えっ?」
身体を揺さぶられて、はっと目が覚めた。いつの間にかテーブルに突っ伏していたようだ。
黒川に間近から顔を覗かれていた。
「うわ! 黒川? なんで」
「佐原さんが連絡くれた」
黒川が顔を向けた方を見ると、佐原が手を振っていた。
「マジか。ごめん」
「いいって。行こ」
黒川に支えられながら店を出た。
「歩いて帰れる?」
「うん。大丈夫」
足下はふらつくが、倒れるほどではなさそうだ。
「わざわざごめん。こんなに酔う前に帰ろうと思ったんだけど」
「いいって。俺、今日はそのまま泊まるから」
肩を組んで歩く。伝わってくる黒川の体温にほっとした。
「はぁ~」
いつもより遅い足取りでなんとか家に着き、黒川に支えられて部屋のベッドの上に転がった。
頭がくらくらする。
「水持ってくる」
もはや黒川には頭が上がらない。
「何やってんだ俺」
天井の蛍光灯が眩しくて、両手をクロスして目を覆った。
普段考えないようにしていたことを、突然突きつけられたような気がしていた。
誰だっていつかは死んでしまう。わかっているのに。
それが自分や親しい人にと考えるだけで、どうしようもなく動揺してしまう。
みんな、どうやって乗り越えていくのだろうか。
俺は母の死を受け入れられたと思っていた。でも、本当にそうなのか自信がなくなってきた。
「白井? 寝たのか?」
頭の近くから、黒川の声がする。
顔から手をどけると、心配そうに覗き込む黒川の顔が間近にあった。
「水飲めよ」
俺の身体を起こそうと腕を引っ張った黒川を、反対に強い力で引っ張る。
「うわっ。ちょっと」
バランスを崩して黒川が俺の上に倒れてくる。
そのままぎゅっと抱きしめた。
「白井?」
戸惑った黒川の声がした。
離さなければ、と離したくないという気持ちが交差する。
酒の影響か、ブレーキがまったく効いていない。
どんどん駄目だ、という声が遠ざかっていく。
ただ、この温もりを離したくない。
すべて、いつか消えてしまうものだ。
「もったいないよな」
「えっ?」
「蓄えた知識も、磨いてきた人間性も」
黒川と体勢を入れ替えて、その顔を上からじっと見つめる。
「すべてこの世から消え去るんだ」
俺はそっと黒川にキスした。
唇を離して黒川を見ると、びっくりした顔をして固まっている。
もう一度キスをする。それから、何度も何度も。
「し、白井」
キスの合間に黒川の小さな声がする。
シャツの裾から手を入れ、肌に直に触れる。黒川の身体がびくっと跳ねた。
鼓動を感じる。今、生きていることが特別なことに感じた。
温かく、触るのをやめられない。
黒川の真っ白な肌が赤く染まっていくのを、目を逸らさずに見ていた。
「んっ?」
急に覚醒しはっと身を起こすと、ずきっと頭が痛む。
「痛……あれ?」
周りを見渡すと自分の部屋だ。
昨日俺は酒を飲み過ぎて。それから。それから?
さあっと血の気が一気に引いた。
「黒川!」
二階にある自分の部屋を飛び出して、黒川が使っている一階の部屋に行く。
その部屋も、他の場所も探したが姿が見えない。
最終的に玄関で靴がないことを確認して、その場に座り込んだ。
昨日の記憶が所々浮かんでくる。
全部覚えているわけではないが、自分が何をしたのかはわかっている。
「最低すぎる」
酔っていたなんて言い訳にもならない。
これからどんな顔して黒川に会えばいいのだろう。
玄関で蹲り、頭を床につけた。
しばらくの間そうしていると、玄関のドアが開く音と、黒川のうわっという声が聞こえた。
「びっくりしたぁ。何してんの白井」
「黒川」
まさか戻ってくるとは思わなかったから、呆然と黒川を見た。
「何で」
戻ってきたの、という問いは言葉にならなかった。
黒川は肩をすくめて、持っている袋を持ち上げて見せた。
「焼きたてのパン買ってきた。食べようぜ」
黒川が珈琲を入れてくれている間、俺はうろうろとテーブルの前を歩き回った。
「白井。座れよ」
「はい」
俺はおとなしく言うとおり座った。暑くもないのに汗が出てくる。
黒川は珈琲を二人分テーブルに置くと、俺を見てため息をついた。
「食べるどころじゃないみたいだな。先に話をするか?」
「うん。あの、黒川。昨日は俺、めちゃくちゃ酔ってて。いや、そんなの言い訳にならないけどでも俺は」
「はいストップ」
黒川は俺の話を片手を上げて中断させる。
「白井はどこまで覚えてる?」
「えっ、えっと、正直言うと記憶は途切れ途切れで。でも、何をしたかはわかってる」
黒川はそうだよな、という表情で頷いた。
「俺は全部覚えてる。素面だし。元々酒飲めないし」
「そ、そうだよな。本当にごめん。俺は」
「俺、実は小さい頃から空手習ってて」
「えっ」
「今は道場に通っているわけではないけど、正直白井相手なら楽勝で再起不能に出来る」
「えぇ……と。それ、は」
すごいね、と言うべきか? と間抜けなことを考えた。
「お前のやったことは、酔いに任せて人を襲うっていう最低なことだとは思うけど」
「本当に、その通りで」
「それを置いといて俺の話をすると、抵抗はすることは出来た」
「えっ」
「けどそれをしなかったのは、お前が泣いていたからだと思う」
「……俺が?」
泣いていた?
「涙が出ていたとか、そういうことじゃなくて、ただ、そう思ったんだよ。白井が泣いているって」
俺はぽかんとした。
「つまり、俺が泣いていたのに同情して、その、黒川は抵抗出来ずに?」
黒川は目を瞑り少し唸った。
「それなんだけど、嫌じゃなかったんだよな。白井に触られるの」
黒川が少し気まずそうな顔をする。
「正直、気持ち良かった」
俺は何と言っていいのかわからず黙った。汗がまた噴き出してくる。
しばらく黙って俺を見つめた黒川はため息をついた。
「ああいう行動を起こす前にさ、ちゃんと俺に言うことあるんじゃないの?」
「え? えっと」
黒川はそれ以上何も言わない。願望のせいで頭が錯覚を起こしているのでなければ、微笑んでいるように見える。
俺はごくっと唾を飲み込んだ。
言ってもいいのか?
「黒川のことが、好きだ」
黒川は、ふはっと吹き出した。
「知ってるよ」
一段落ついたと考えたのか、黒川はおいしそうにパンを食べ始めた。
俺は喉を通りそうにないので、珈琲をひたすら飲む。
「黒川、さっき知ってるって言ってたけどいつから? 俺ってわかりやすかった?」
気になって聞くと黒川はきょとんとした顔になった。
「昨日知った。ああ、覚えてないんだな。お前ずっと俺のことを好きだって言いながら」
「うわあぁ」
聞いていられなくて机に突っ伏する。
黒川の笑う声がする。
「でも一応、素面の時にも言っておいてもらおうと思ってさ」
俺はがばっと身を起こした。
「あ、あの。それってつまり」
とりあえず告白は、嫌がられなかったということなんだろうか。
黒川はうん、と頷いた。
「同居じゃなくて、同棲ってことになっちまうなぁ」
それは、つまり。受け入れてもらえたっていうことなのだろうか。
ぼうっとした頭で、落ち着かせるために珈琲を飲む。
「白井、素面のときにまたやろうな」
「ぶっほぉ」
俺は盛大に珈琲をぶちまけた。
伯父がいる病室に入ると、カーテンが引かれていた。
そっと中を覗くと、伯父が寝ていた。
伯母の姿はない。今日は何も言わずに来たので、いないことにほっとする。
伯父の顔を無性に見たくなったのだ。
ベッドの横の椅子に座り、伯父の顔を眺めた。
手術の日程が決まったと、この間伯母から電話があった。
それで少しでも回復できればいいと思うのだが、もしそうでなかったら。
これ以上悪くなってしまったら。
俺は寝ている伯父の手元で、頭をシーツにもたせかけた。
「すげぇ怖い」
頭をそっと撫でられる感触がして、身を起こすと伯父が俺を見ていた。
「あっ起こしてごめん!」
「何が怖いんだ?」
「えっ、いや、今のは別に」
誤魔化そうとしてみたが真剣な伯父の表情から、見逃してはもらえないと悟った。
「俺は」
「うん」
「伯父さんが死んでしまうのが怖い」
言葉にして出すと、声が震えてしまっていた。
「縁起でもないこと言ってごめん。というかこんなこと伯父さんに言うなんてどうかしてるよな」
とんでもない甘えだ。今一番怖いのは伯父の方だと思うから。
伯父はゆっくり上半身を起こすと、両手を上げて伸びをした。
「そうだなぁ。正直俺も、自分が死んでしまうことは怖いとは思うけど。瞬は何が怖い?」
「何って」
「俺が死んで、それの何が怖いんだ?」
何が? 俺は一体何を恐れているのか。
「もう、会えないから。だから怖いのかな。困ったことがあっても相談できる人がいなくなること」
この世界で自分の味方が一人いなくなってしまう。そんな途方に暮れる気持ちがある。
「ふむ」
「それに自分が死ぬときのことも考えちゃってさ。死んだらどうなるのかって。わからないのが怖いっていうか」
「そうだよなぁ」
「最近俺、死後の世界がもしかしたらあるのかもって思い始めて」
幽霊の存在と、死後の世界が存在するというのがイコールなのかはわからないが、存在する可能性もあるわけで。
「あるって思うなら、普通は怖くなくなるんじゃないのか?」
「そういうもんかな? でもそこが良い所かはわかんないでしょ」
「地獄みたいな所かもって?」
「そうそう」
「とんでもなく後ろ向きなやつだなぁ」
「性格なんで」
ふふっと伯父が笑う。
「でもわかるな。どんな場所かわからないから、不安というか」
「そう言ってても伯父さんは、怖いとか不安だとか全然思ってないように見えるよ。いつも飄々としてて」
「それはなぁ、瞬の前だからかっこつけてんだよ」
伯父は照れたように顔を撫でる。
「お前は俺の子供みたいなもんだから、かっこよく思われたいんだよ。本当は全然かっこよくないんだけどな」
「そんなこと、ないよ」
子供のときから、何度も何度も伯父に助けられてきた。
「いつもかっこいいよ」
俺の言葉に一瞬目を見開いた後、伯父はにっこりと笑った。
「瞬、もし俺が死んで、死後の世界なんかがあったとして」
「うん」
「そこが良い場所だったら、お前にサインを送るよ」
「サイン? どんな?」
伯父は人が悪そうな顔でにやっとした。
「お前なら、きっとわかるよ」
そう言って、ぽんと軽く俺の頭に手をやった。
「だからもう、怖がらなくていい」
深夜、急に目が覚めた。部屋の中はまだ真っ暗だ。
急激にクリアになった頭を振って時計を見ると、深夜一時を少し過ぎた頃だった。
寝直そうとも思ったが、なぜか目が冴えてしまっている。気分転換に外の空気でも吸おうかと考えた。
自宅には屋根がなく、屋上がある。そこで普段洗濯物を干したりしているのだが、時々景色を見るために上がったりしていた。
寝付けない夜も、たまに屋上へ行ったりしている。
寒くなってからは、あまりそういうことはしないのだが、今日は屋上に行きたくなった。
「さむっ」
今日は曇ってて、星は見えない。
はぁ、と深いため息をついた。
しばらくぼうっと景色を見ていたら、急に空気が変わったような気がした。
違和感を不思議に思い、辺りを見回す。
突然強い風が吹き、厚い雲がさあっと散っていった。
「えっ? うわ」
雲が散って現れたのは、満天の星だった。
都会では見ることができないぐらいの大量の星。
こんな空を見たのは、小学生のとき以来だ。
伯父が連れて行ってくれたキャンプ場で、初めて満天の星を見た。
自分がまるで宇宙に行ったかのような感覚。
大学で、ワンゲル部に入ったのも、山で星が見たかったからだった。
「伯父さん」
突然理解し、涙が溢れた。
夜空に大量の流星群が流れている。
今まで見たことのない景色だった。
こんな景色は、もう二度と見られることはないだろう。
「なんだか、あっという間だったわねぇ」
伯母が仏壇の前で、ぽつりと言った。
あの流星群を見た日の早朝、伯母から伯父が亡くなったのだと連絡があった。
それからしばらくは葬式などでばたばたしていて、今やっとゆっくり家でお茶を飲む時間ができたところだ。
伯父は手術をしてから、退院することなくそのまま亡くなってしまった。
「最初の手術のときにね、余命宣告はされていたの。だからお互い覚悟はしていたんだけどね」
「そんな風には全然見えなかった」
「そりゃ瞬ちゃんの前では暗い顔見せないようにしてたもん」
「しても良かったのに」
「あの人が、そうしようって。かっこつけたがりだからね」
伯母があはは、と笑う。
「瞬ちゃんには感謝してる。瞬ちゃんの前ではしっかりしていたいっていう気持ちが、あの人を奮い立たせていたように思う」
胸がつまった。そうであったら良いと思う。俺の存在が少しでも役に立っていれば。
「伯母さん。あのさ、亡くなる前に伯父さんが」
俺は伯母に、伯父がしてくれたサインの話と、あの夜に見た流星群のことを話した。
伯母は黙って俺の話に耳を傾けると、何かを思いついたような顔をした。
「瞬ちゃん、散歩に行こう。ついでに買い物もしたいし」
「今から? 雨降ってるよ」
「小雨だし。ねっ? 行こう」
「いいけど」
なぜ急に? と思ったが伯母に付き合うことにした。
出るときには小雨だったが、しばらく歩いていると雨は上がった。
公園にある花壇の近くを、ぷらぷら歩く。
「サインの話はね、私にもしたことあるよ」
「本当?」
「うん。瞬ちゃんにした話とはちょっと違うけど」
「どんな話?」
「私たちって、二人とも両親が割と早めに亡くなっていてね。それで、両親が健在な人たちは羨ましいねって私が言ったことがあって。そうしたらあの人、別にいなくても悲しむ必要はないって言うのね」
伯母はそのときのことを思い出しているかのように、優しく微笑む。
「現実に存在しているのか、そうでないかの違いだって」
「どういう意味?」
「肉親に限らず、自分にとって大事な人はいつも自分のことを励ましてくれる存在でしょ? たとえ亡くなって会えなくなったとしても、自分を励ます存在であることには変わりはない」
「うん。そうだね」
「だからね、その人がこの世界からいなくなったとしても、きっとどこかで自分を励ましているんだって言ってて。例えばほら」
伯母が公園の花壇を指さす。
「見かけた花がとてもきれいだった、とか。かわいい小鳥を見かけたとか、空がめちゃくちゃ晴れてて気持ちいいとか、そういうこと全部、大事な人からの自分に向けてのエールなんだって思えばいいって」
「エール?」
「頑張って生きていけっていうメッセージ。亡くなってしまったあとも、そうやってきっと自分を応援しているから。だから頑張れっていうサイン。そう思って周りを見れば色んなサインが転がっているぞって」
「めちゃくちゃ前向きだね」
「だよね。あのときこんなことを言ったのは私を励ますためだったからなのかもしれないけど、そう思えるようになったら気持ちが楽になったよ」
お前にサインを送るよ。
あのときの伯父の言葉を思い出す。
「私には不思議なことは見えないけど、あの人からのサインはいつだって周りに溢れているって思ってる」
「そうだね。俺も」
伯父はいつだって俺のことを気にかけてくれていた。
いつもいろんな言葉で俺を助けてくれた。
この不安な世界で、生きていくために。
死んでしまってからも、きっとあの人は。
「あ、ほら瞬ちゃん」
伯母が嬉しそうに空を見上げる。
「きれいな虹が見えたよ!」
サイン わっか @maruimono
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