第5話 もっと知りたい

 ヒュウガさんの好きなもの。


 西尾維新。綾辻行人。ダニエル・キイス。

 山よりは海。持ち上げられないくらいの大きな猫(メイクイーン?)。

 歌はいろいろ聴くけどカラオケは嫌い。音痴ってわけじゃない。←嘘じゃない。

 無香料の消臭剤。青色。トルコライス。

 自宅から徒歩二分のパン屋さん。



『レジの女の子がすごくかわいくてね。彼女が入ってる曜日はすごく混雑するんだ』

「そんなに人気があるの?」

『ああ、愛想がよくて、しかも巨乳で、オッサンたちはみんな夢中だよ』

「なるほどねー」


 紗菜は相槌を打ちながら、ペンを走らせた。

 『巨乳』と書き取り、ヨシと頷く。

 おい、とスピーカーから胡乱な声。


『君、俺のこと助平男と誤解したな? 俺はその店オリジナル、餃子チョリソーが目当てで行ってるだけだぞ』

「あらそうなの。ごめんなさい」


 紗菜は素直に謝って、書きたての文字を二本線で消した。

 シャッシャッ、とペン先が紙を引っ掻く音。


『……なあ、前から気になってたんだけど、俺と話し中、何か書いてないか?』

「ないしょ」


 ヒュウガの問いをあしらって、紗菜はクスクス笑う。

 そしてペンの音高く、『ぎょーざチョリソー』と書き込んだ。

 

 彼とこうして、週に一度電話するようになって、もう三か月。


 ページはずいぶん増えた。紗菜との会話で、ヒュウガは聞き手に回ることが多かったが、すこしずつ己自身のことを話してくれた。


 好きな食べ物、本、映画、テレビ番組、タイトルのわからない歌のワンフレーズ。


 ぽつりぽろりと零れた情報は、紗菜のノートにすべて記されている。


 ペンを置いて、紗菜はフウと息をついた。


「それよりなあに、餃子チョリソーって。ヒュウガさん意外と悪食なのね」

『む、なんでゲテモノって決めつけてるんだ。ホント、普通に美味いんだってば』


 すねたようなヒュウガの声音。珍しく子供っぽい言葉遣いに、紗菜は大笑いした。


「うそ、絶対ヘンなやつだ。ヒュウガさんしか買ってないんじゃない」

『そんなことないって、うちの家族はみんな好物だ』

「じゃあ訂正、ヒュウガ家だけね」

『風評被害だ! いやほんと、疑う前に現物食ってみろ、いつ行っても売り場にあるから』

「やっぱり売れ残ってるんじゃないの。ふふ――そうね、試してみたい気はするけど。あたし、パン屋さんがどこにあるのかわからないわ」

『霞本駅の近所だよ、赤い屋根の小さな店』


「――えっ!?」


 思わず、紗菜は大きな声を上げた。ヒュウガは怪訝な声で聞き返し――そして、


『あっ。……』


 と、小さく悲鳴を上げた。


 紗菜は逃がさなかった。前のめりになり、電話越しに追及する。


「霞本駅ですって? 知ってるわ、すぐ隣町だもの。ヒュウガさん、霞本町に住んでたの!?」

『いや……。……たまたま……旅行で』 

「うそ、さっき家の近くって言ったわ。信じられない、子供のころ塾で通ってた。今も毎日通過する駅だわ。どうしてもっと早く言ってくれなかったの!?」


 叫んでから、ふと気づく。


「あれ? あたしも、霞ヶ丘町に住んでるって話したかしら……?」


 ヒュウガは黙り込んでしまった。どうやら隠しておきたいことだったらしい。


 彼はもともと、個人情報に口が堅かった。大学の話も濁すばかりで、学部すらも知らなかった。彼が気軽に話してくれるのは趣味嗜好、ちょっとした生活習慣に留まっている。家族構成もなにも知らない。尋ねてみても教えてくれない。


 紗菜は半ば無意識に、彼を、とても遠いところにいるひとと思い込んでいた。外国のような、あるいは異世界のような、ずっとずっと遠くの人だと思っていた。年齢も環境もかけ離れた、決して交わることのない人だと感じていた――


 だけど――


「ねえ、ヒュウガさん。……会ってみない?」


 紗菜は言った。

 ヒュウガは答えた。


『…………どうして。今まで通り、電話でいいだろう』

「直接会えば、また違う話が出来ると思うの……」

『変わりゃしないよ。それに俺、けっこう忙しいヒトなんだ』

「カノジョがいるの?」


 電話の向こうで、ぶっ、とヒュウガが吹き出す音。


『なんだよ唐突に! いたらソッチと電話してるよ』

「そうなんだ」

 

 ホッ、と胸をなでおろす。同時に幸福感があふれた。恋人同士のようなことを、あたしたちはやっているのだと実感する。


 紗菜はノートをめくり、新しいページに、ペン先をピタリとくっつけた。


「ねえヒュウガさん、どんな女の子がタイプ?」

『……週末だからってこんな時間まで起きてる不良、ではない子』


 言われて時計を見上げると、夜の十時。不良呼ばわりされるほどとは思えない。

 中学生じゃないんだからと言い返すと、ヒュウガは呆れた声を出した。


『そりゃ、これがクラスメイト同士ならいいだろうけどね。顔も知らない男が相手と知れたら、お父さんは泣くんじゃないのか』

「じゃあ顔を見せてよ」

『そういうことじゃない』

「そうだ、写真を送って! 自撮りっていうやつ……あたしやり方わからないけど」

『だめ』

「変なことに使わないわ。あたし信用ない?」


 強い口調で、紗菜は言った。一瞬の間。やがて、ヒュウガが返事をくれる。


『いいや。……でもほんと、ご期待に添えるようなイケメンじゃないんだよ。なんにも楽しいことにならない、紗菜はガッカリするだけだ』

「そんなの別に、期待してないわ」


 と、即答はしたものの、少なからず期待している自覚があった。

 ヒュウガの声は低く、少しかすれていて大人っぽい。優しくて面白くて、きっと友達が多いだろう。モテるだろう。その印象から、無意識に好青年のビジュアルを想像してしまっている。

 一応、そのイメージは打ち消すよう努力してみる。だが上手くいかない。

 当然だ、紗菜はまだ彼のことを、なにも知らない。

 その顔立ちも、体格も、フルネームすらも聞いたことが無い。「ヒュウガさんの好きなもの」メモはずいぶん増えたのに、まだまだ足りない。


 もっと知りたい。

 紗菜は改めて彼を誘った。


「ヒュウガさん、会おう。せっかくすぐ近くに住んでるんだもの。駅で待ち合わせて、オシャベリしながらお茶をして……ううん、顔を見せ合うだけで……それだけでいいから」


『……紗菜』


 ヒュウガは静かに、呟く。 

 それからの沈黙は長かった。言いたいことを言いあぐね、彼は言葉を探していた。

 無言の時間はこれまでにない長さになり、その末、彼は言う。


『……紗菜。お前、女の子なんだぞ』


 これまで聞いたことのない声だった。

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