第3話 ずいぶんとおせっかい


紗菜サナおはよ! ねえどうして昨日は電話くれなかったの? わたし待ってたのに」


 そう言ってきたのは彼女の方だった。


 早朝の下駄箱である。

 紗菜は思わずうつむいた。顔を上げられなかった。視界いっぱいに、少女の靴。

 精一杯の普通の声――小さな声で、紗菜は答えた。


「何度か、かけたんだけど。他の人につながって……」

「えーっじゃあわたし、登録間違えたのね! ごめーん紗菜、怖ぁい声で怒られちゃったりした?」


 紗菜は首を振った。男は優しかった。だがそれは結果論だ。あの低い声を聞いた瞬間、全身が凍ったのを思い出す。紗菜は震えた。


「突然、大人と話すのって怖いよね」


 口にしたとたん、ボロリと涙がこぼれ出た。ぎょっとしてのけぞる穂波――乱暴に拭い、紗菜は駆けだした。

 自宅へ逃げ帰るのではない。教室に向かって、ひとり堂々と進んでいった。



 夕食をとり、学習をして、入浴する。

 湯気の立つ髪に寝間着姿で、紗菜は携帯電話を握っていた。


 なんとなく、電話帳の項を開いてみる。父と母と、それから『穂波』。しかし決して彼女にはつながらない。冷たい機械を、紗菜は眺めつづけていた。


「……なんていってたっけ。珍しい苗字……なんかすごくカッコいい、ちょっと怖そうなの。……ヒュー、ガ……?」


 呟いた瞬間、手の中で、携帯電話が高らかに鳴った。『穂波』の名前が画面に浮かんでいる。紗菜はすぐ、通話ボタンを押した。


「もしもし。峰岸紗菜でございます」


『……ヒュウガだけど。そんな馬鹿丁寧にフルネーム名乗らなくても大丈夫だ。いろいろ危ないからやめておけ』


 よくわからない注意をされた。

 しかしきっとなにか大事な意味があるのだろう。

 紗菜は素直に礼を言った。


「親切にありがとう。これからはそうするわ」

『けっこう、元気な声だな』


 彼は言った。


『友達と仲直りは出来たのか?』


 どうやらそれを気にして、かけて来てくれたらしい。紗菜は胸を張った。


「ううん、喧嘩してきちゃった」

『……そうか』

「でもあたし負けなかったよ」


 言った途端、なぜか急におかしくなった。クックッという紗菜の笑い声に、つられて向こうでも吹き出す。


『なんだ、けっこう強いんだな。心配する必要なかったか』


 ホッと、気の抜けた声。どうやら本当に心配してくれていたようだ。

 紗菜はなんだか申し訳なくなった。


「あの――ホント、大丈夫なの。きっともともと、友達ってわけじゃなかったから」

『……そうかい? でも――」

「穂波ちゃんは、幼馴染でね。小学生のとき塾が一緒だったの。あの子のおうちがすぐ近くで」

『……うん?』

「塾のあと、お母さんが迎えにくるまでおうちに入れてもらってた。校区は違ったし、他の日に待ち合わせて遊ぶことはなかったけど……週に二度、家族も一緒にゲームしたりして、だから」


(だから、友達だと誤解してしまっただけ――)


 と、いう言葉は口にできなかった。浮かびかけた涙をグッとこらえ、紗菜は努めて、明るい声を出した。


「ありがとうヒュウガさん。あなたが今日、電話してくれなかったら、あたしきっと一人で泣いてた」


 ヒュウガは鼻で笑った。


『そんな、大げさな』

「本当よ。買ってくれたお父さんに八つ当たりしたかも」

『……じゃあ俺はあんたら親子の恩人だな。どうしても金一封贈りたいというなら、受け取ってやらんこともないぞ』

「そうね。あたしのお小遣いで足りるなら。ヒュウガさんお酒は好き? お父さんがいつも飲んでるやつを贈ろうか?」


 紗菜の言葉に、男はウッと呻いた。頭痛でも抑えるような低い声で、


『調子狂うな。ボケとツッコミが成り立たない。君はちょっとばかり素直すぎるよ』

「……あたし、話しにくい?」


 いいや、と彼は即答した。


『気が抜けて笑っちまう。俺、学校じゃクールで怖いヒトなんて言われてるんだぜ』


 どこがクールかと紗菜は呆れた。紗菜が素直すぎるというなら、このヒュウガはずいぶんと親切すぎる男である。間違い電話をかけた相手に、その後を心配しかけなおしてくるやつがどこにいるのだ。

 

 ヒュウガへの感謝は、お世辞でも誇張でもなかった。昨日つながったのが彼でなければ、今日は彼の電話がなければ、紗菜はこんなに明るい声を出せなかった。


 そう話すと、穏やかに笑われる。


『お役に立ててなにより。できれば、友達と仲直りした方がいいと思うけどな。学校生活って、やっぱり友達の存在がなにより大きいし』

「ヒュウガさんは大学生よね」


 唐突に、紗菜は尋ねた。ンッ? と素っ頓狂な声のしばしあと、呻くような声が聞こえてきた。


『なんだよ藪から棒に。……俺、そんなこと言った?』

「言ったわ、学校じゃクールだとかなんとか」

『教師とか用務員のオッサンという選択肢もある』

「うそよ、話し方が若いわ」

『中学生って可能性は』

「あたしより年下が、そんなに低い声のわけないじゃない」

『……君、男の声なんて父親以外聞いたことあるのかよ。さて、いい加減電話を切るよ。オコサマはもう寝る時間』

「まだ九時だわ」


 笑いながら、紗菜は頷いた。

 こんな所作は、相手には全く見えていないことを思い出す。それでも改めて、居住まいを正した。ベッドの上に正座して、頭を深く下げる。


「本当にありがとうございました。……あの……お世話になりついでに、お願いがあるんだけど……」

『なんだ?』

「あたし、友達を失くしてしまって……この番号を、登録してもいい?」


 電話の向こうで、ヒュウガが苦笑する気配がした。わずかに口角を持ち上げた、機嫌のいい声で。


『いいよ。落ち込むようなことがあったらいつでも電話しておいで』

「……ありがとう! おやすみなさいっ」


 元気よく挨拶し、笑いながら、紗菜は通信終了のボタンを押した。

 

 さほど長電話でもなかったのに、電話機はすっかり熱を持っている。

 仰向けに寝転がり、顔面の上で携帯電話を操作する。五分ほどの挌闘の末、電話帳の名前変更に成功した。フウと大きく息を吐き、胸の上に手を落とした。


 ヒュウガ……紗菜の周りにはいない苗字だ。彼が住む、はるか遠くの地域にはよくあるものだろうか。

 ヒュウガ、ヒュウガと口にしてみる。


「……ヒュウガさん。どんな字を書くんだろう」

 

 ぼんやり天井を眺める。


 そしていつしか眠りについた。

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