第44話:有為の雨

「しゃぁきらもなあ」


 蔑む鼻息が、聞き慣れた言葉をより間延びさせる。


「二人してなんしに来たか思やぁ、ワシを嵌めよう言うんか。ご苦労なこっちゃのう」


 人さし指の先だけで頭頂を掻きつつ、やれやれと改めてせせら笑う。


「ワシの嫁さんは人間ができとるけえ、そういう寝言も最後まで聞いてくれる。じゃけえワシも、何がほんまか説明できるんじゃが。そうでなけりゃあ、お前ら揃うて警察に突き出すとこじゃわ」


 最後のひと言ふた言にドスが利く。脅しでないということか、いや夫人に「のうや」と同意を求めた。


「嘘、ですか——?」

「ほうよ。人吉がデータ盗んだいうのはその通りじゃし、浮橋も辞める言うてすぐにバタバタっと。後始末したんが誰か、知りもせんのじゃろうが。勝手ばっかし言うてくれるわ」


 隣り合う一人掛けのソファー。訊ねる妻は、答える夫から遠い位置を変えなかった。


「こんなデタラメぶち上げて、ワシから何を引き出そう思うんか想像もつかんが。あもう見られたもんよ」


 大量の、憮然と吐く息が俺達に向く。見下す目もきつく細まる。


「おい人吉」


 怒りの声で俺の名を。呼ばれる度、身体のあちこちが見えない縄で縛られたように硬まる。

 上下関係はなくなったし、なんだジジイと答えたって俺が悪くなるわけでもないのに。


「ワシがお前に、何したいうて? むしろお前じゃろう、漏れた先が菱立重工とは言うとらんはずよ」

「そ、それはあたしが教えました。データを盗んだ張本人じゃし、課長からも教えてもらいました」


 ウイさんに庇ってもらっても、反論のひと言さえ出てこない。


「んん? じゃけえの浮橋。ワシがお前と懇ろ言いたいなら、なんかそういう証拠でもあるんか」

「——いえ、ないです。連絡はいっつも筆談で、その紙も課長が回収しちゃったし。あたしが妊娠したいうて、勘違いで投げつけられた十万円くらいしか残ってないです」


 メールのやり取りとか、たしかにそういうものがあれば言い逃れできない。そこのところの周到さを、さすがと褒めていいものか。


「勘違い? ああ、相手は知らんが妊娠いう話じゃったの。何にしても、万札に名前を書く奴はらんじゃろ」


 事情を聞いている俺には、勘違いの部分に食いついて見えた。直ちにくっつけられた流暢な言いわけが、不審点を洗い流してしまったが。


「ええ。別に、事実を認めてもらおうと思うて来てませんから。あたし、来年にも生きとるか分かりません。そんなんじゃけえ、ヘ——人吉くんの話に説得力が増せばそれでええんです」

「ハッ。話んならん」


 痰でも吐く勢いで吐き捨てた課長は、かと思うと頭痛を堪えるみたいにかぶりを振る。


「部下でも何でもないなったお前らが、どんだけイチャイチャしても勝手にせえいう奴よ。じゃけどわざわざ見せつけにな、鬱陶しい」


 皮肉げな笑みだけ作って見せ、ガラスの湯呑みを持つ湯摺課長。熱々の茶を飲むような、そっと啜る音をうるさく思う。


「まあそれでも日本語で話すだけ、浮橋のほうが腹ぁ据わっとるの。人吉、お前はなんなら、何しに来たんかはっきりせえや」

「お、俺は」


 そうだウイさんの言うように、言いたいことだけ言えればいい。福岡で了の母親に言ったじゃないか、同じことだ。


「俺も課長に、何かしてもらおうとは思うてないです。一緒にってやりたい相手を見つけて、俺もそいつにホッとさしてもらえる。強いて言うとしたら、じゃけえ何も困っとらんいうだけです」

「はあん?」


 伏せがちな俺の顔を、課長は覗く。目が合うと、俺は忙しくまばたきをした。どうにも苦手意識が治らない。


「男のくせにメソメソしゃあがって。やっと物を言うた思うたら、わけの分からんことを。要するに、ワシをバカにしに来たいうんか?」


 ブツブツ独り言めいて、課長は立ち上がった。その次の瞬間、俺の頭に雨が降った。お茶の香りのする、超局地的な。


「話ぃ済んだんなら、帰れ。二度とワシの前へ現れるなよ」


 空の湯呑みの底が、俺の頭頂を打つ。鈍い音がして、視界が一瞬暗くなった。「あなた!」と、夫人の静止が聞こえた。

 しかしそうするとなお、ガラスの押しつけられる痛みがゴリゴリと繰り返される。


「課長」


 言う通り、俺はたしかにビビりだ。でも、ケンカを売ったり買ったりはできなくても、あなたの思うままにはならない。

 そんなことを言おうとして、ハッと気づく。


「課長、ダメです。俺にそんなことしたら」

「ああ? 何がや、ワシが何した言うんなら」


 ぐっと頭を押さえつけられ、小気味良く首が鳴った。


「いや課ちょ——」


 べキッ。

 部屋のどこかで、硬く分厚い何かが圧し折れた。課長も夫人もウイさんも、もちろん俺も音源を捜して首を巡らす。

 また鳴った。僅かな間を置き、さらにまた。

 段々と合間が短く、完全な連続音に。それがカーテンの向こうと気づいても、開いてみる猶予はなかった。


 崩壊。ただガラスが割れるのでなく、細かく砕け散る音だった。

 カーテンと壁の間から白い結晶が降り積もる。照明を撥ねてキラキラと、かき氷には少し粗い。


「ど、どした?」


 割れた窓ガラスは、俺の対面。揺れるカーテンからすると半間の丈、一間の幅。

 そのカーテンが、外から引き千切られるように外れて落ちた。おかげで窓の外に丸見えの景色は、隣のビルで塞がれていた。いつの間にかのシトシトとした雨に濡れて。

 振り向いた課長は後退る。誰の仕業か犯人を捜す視線を、四方八方させながら。同じ窓へ目を見開いて動かない夫人に、手を差し伸べたりはしない。


「了!」


 ひょいと課長が持ち上がり、湿った呻き声を「ぐえ」と落とす。見えない手で腹の辺りから掬い上げられた風に。

 すうっと、ちょうど窓と同じ高さを滑る。至極近い未来を想像したのだろう、湯摺課長は真っ青で叫ぶ。


「なっ、何やこれ!」

「了、大丈夫じゃけえ! 俺は平気じゃけえ!」


 今度はすぐに聞いてくれるだろうか。やめさせようと俺も叫んだ。

 けれども肝心の了が居ない。部屋のどこへ目を向けても、可愛いおかっぱの男の子が見えない。

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