第43話:弾劾

「罪?」


 問い返したのは夫人。訝しむのを通り過ぎ、怪しむ目つきで。


「ウイさ——浮橋さんが会社を辞めて。たくさんの仕事の中から、サーバー室の管理者を引き継ぎました。でも俺、パソコンなんか全然分からんのです」


 夫人とも課長とも、目を合わせなかった。合わせたらきっと、わけの分からないことを言いそうで。

 両者の間を見ていてさえ、喉の奥が沸騰しかけているのだ。


「正直、最初は楽でええわと思いました。俺でも分かるような、簡単な書類仕事しかなかったんで。バチが当たったんですかね。俺は突然、犯罪者になっとりました。会社のデータをよそへ売ったいうて」

「湯摺計器の?」


 もちろんと頷くのに、夫人と向き合ってしまった。怒気を孕んだ厳しい視線に変わりないが、先を早く話せと急かされる気がした。


「実際にデータを抜いたのは浮橋さんだそうです。湯摺課長に頼まれて」


 ちらり。夫人の目が、端にウイさんを映す。彼女は姿勢を整え直し、深く頭を下げた。


「その時の俺は知りませんでした。俺がやったんだから責任を取れと、覚えがなくてもそれが会社の為って。丸々二日、湯摺課長に詰め寄られて、受け入れました。個人的に五十万円やる言われて、目が眩んだんもあります」


 五十万円。夫人が小さく復唱し、俺も首肯する。この人が話している限り、邪魔はないらしい。


「聞きかじりですけど。そのデータを手土産に、菱立重工へ身売りしたそうですね。俺は人柱だそうで、西日本鉄鋼にバレた時の」


 気に入らない空気を醸しながら、課長は腕組みで目を瞑ったまま。

 夫人は俺を見ているようで、見ていない気がした。証拠に俺がお茶を飲んだ後になって、「ああ……」と察した様子で声を漏らす。


「離職票に社内機密の漏洩なんて書かれて、雇うてくれるとこはないですよね。課長はハローワークって行ったことありますか。あの人らね、『こんなことしとったらねえ』って笑うんですよ」


 わざわざ手空きの人を呼んで、「こういう場合、どうしたらええんですかね」なんてクスクスと。

 言い方は良くなかったが、本当にどうにかしてあげようと考えてくれたのかもしれない。でもあの時の、ここにっちゃいけんらしいという気持ち。

 悲しいとか心細いとか、出来合いのひと言やふた言では表せない。見渡す限り地平線しかないどこかへ置き去りにされた心地が、今も隣にある。


 ——急に、夫人は大きなため息を吐いた。それからなぜか脇のローボードへ手を伸ばし、木箱へ入ったティッシュをこちらへ持ってくる。

 無言で薦められて、鼻水でも出ていたかと思う。自分の顔に触れてみると、どこもかしこもぐしょぐしょに濡れていた。


「す、すみません。俺」


 顰めた顔を左右に振り、夫人は小さなゴミ箱も俺の足元へ置いてくれる。


「同期の奴から電話させたんも、課長の人選ですよね。狙い通り、俺は逃げましたよ。何億の賠償とか言われたら、こわぁて堪らんかった」


 あちこち拭いて鼻をかんでも、梅雨空みたいに涙が零れ続けた。話そうとすると喉が震え、しゃくり上げてしまう。

 残したお茶を飲み干し、無理にでも声を出す。すると夫人が、それにウイさんが、まだ手をつけていないお茶を俺の前に置いてくれた。


「公園とか、そう簡単に野宿できんのですよ。すぐ誰かに追い出される。仕方ないけえ山ぁ入って、草ん中で寝て。人が、人じゃのうても、なんかの気配がしたら飛び起きて。まだ捕まらんのかってホッとしたみたいな、しんどいような」


 その感覚も、まだまだ残っている。こうして話していても、外から聞こえるちょっと大きなエンジン音に注意を向けずにいられない。


「終いに、自分が起きとるんか寝とるんかも分からんようになる。地の果てで目ぇ覚めて、夢じゃったんかって安心したら、やっぱり逃げにゃいけんことに気づいて。どんな笑い話ですか」


 笑うほかない。へっ、へっ、と軋む声にしかならずとも。


「そういうつもりじゃったんでしょ? 俺みたいなバカは、追い詰めたらどうしょうもない。勝手に死ぬわ思うたんでしょ?」


 当てつけでしかない、こんな話をするつもりはなかった。言っても信用されないだろうが、本当に。

 もうどこから転んだかも分からないけれど、問うたからには聞きたい。分かりきった答えを、課長の口から。


「知らんがな」


 予想よりも簡潔ではあった。でも。うん、まあこんなものだろう。

 課長は眠たげに眼をこすり、「のう人吉」と声を低くする。

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