それだけ★

「今日もお父さん帰ってこないんだって」

 絨毯を撫でると色が変わる。ベージュから茶色に。茶色からベージュに。部屋はどんどん暗くなってゆくけれど、まだその二色は見分けられる。

「今日もお父さん帰ってこないんだって」

 絨毯を撫でると色が変わる。絵心がない人間にも描ける模様を試してみる。丸、三角、星型、ハート形。歪な仕上がり。歪な仕上がりだなって思うだけ。

「今日もお父さん帰ってこないんだって」

「そうなんだ」

 返事をすると、母はガチャンと受話器を下ろす。ガチャンと下ろしたなって思うだけ。

「暗くない?」

「暗いね」

「なんで電気点けないの」

「……さあ」

「点けなさい」

 立ち上がり、薄闇を掻き混ぜるように手を動かして紐を掴む。そのまま引いたら怒られることはわかっているけど、ためらう理由がない。光に目を細めながら母のほうを見やると、やっぱり眉を吊り上げている。

「なんで先にカーテンを閉めないの」

 予想的中。それだけ。

 母は一向に夕飯の支度をしない。息子が夫に電話を掛けるまでお預けらしい。僕は絨毯の濃淡をいじる作業に戻り、とりあえず空腹を無視する。いつまでも、きれいなハートを描きたいとは思わない。


 

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