恋と作家とスイートデビル・前


 長い夏休みが終わって、大学の後期が始まった。

 ……いやもう本当に長かった。高校時代までの一カ月程度の夏休みですら引きこもるぐらいしか予定がなくて持て余していたのにそれがさらに増えたのだから、余暇を楽しんでいるのか暇を持て余しているのかわからないぐらいだった。

 期間もそうだが、大学の講義は前期後期に分かれているものが多く、夏休みだからと課題が出ることもほぼないのでやるべきこともないに等しい。

 基礎ゼミの中には課題が出ているゼミもあるという話も(東雲経由で)聞くが、うちの大林女史がそんな面倒なものを準備しているわけもなく。思い返せば今年の夏休みも引きこもってばかりで──。

 ……いや、そんなことはなかったか。

 夏休みの頭はサークルの合宿の準備があったし、合宿自体で丸三日は潰れている。ちょくちょく卯月社長に呼ばれてバイトにも入っていたし、九子ひさこさんの手伝いで海の家で働いた。

 去年までとは大違いである。

 仮に去年の僕に夏休みの記録を見せても、こじらせ過ぎて妄想を垂れ流しているとしか思われないに違いない。そもそも西園寺達が入り浸っている現状からしてマンガの読み過ぎだと切り捨てられるだろうけれど。

 その西園寺達三人は、才藤さん等文芸サークルの女性陣と遊びに出かけている。才藤さんは元々東雲の友達であったしサークルの夏合宿で西園寺と交友を得たので、東雲の提案で北条のことも紹介しようとなったのである。

 ……本来は夏休みにそれができたはずなのだが、北条がそちらよりも僕とパチンコのイベントに行くことを選んだので実現しなかったのだ。元々こちらが先約ではあったのだが、お陰で夏休みに稼いだバイト代が消し飛んでしまった。

 まあそんなわけで、西園寺は人間関係こじらせているところがあったし北条もパチンコ通いで忙しくしていたしでふたりとも交友関係が狭かったのだが、これで交友の輪が広がることだろう。我が家に入り浸ることも減って万々歳である。

 僕もお出かけに誘われていたのだが、丁重に辞退した。夏合宿中に執筆し、そしてこき下ろされた部誌に載せる小説を完成させる手がかりを探すべく、部室で過去の部誌を引っ張り出して読み込むためである。

 まあ、そちらの理由は一割ぐらいで、女子ばかりのグループに混ざりたくなかったからというのが本音なのだが。

 部会のない放課後で、女性陣が遊びに出ていることもあってか部室には僕しかいなかった。書庫から引っ張り出してきた部誌を広げるにはちょうどいいのでありがたい。

 手始めに発行の新しいものから読み始めているのだが、現役の先輩達が過去に書いてきた作品も拝むことができるのだがこれが中々興味深い。

 一年生の時に書かれたものはライトノベル風なものや恋愛小説等の若者らしい作品が多いのだが、その人の年次が上がるに連れてエログロ描写や重い展開が増えていく。

 何故だろうかと首を捻りつつも何か引っかかるものがあったのだが、はたと思い当たる。こういう作風の小説を僕は以前見たことがあった。サークル顧問の大林女史の小説だ。

 どうやら皆、女史の元で創作に励むうちに彼女に影響されてきているらしい。

 確かに大林女史の作品には人の心になにかしらの爪痕を残すような作品が多い。良い意味ではないところが問題ではあるけれども。

 うちのサークルには佐川君等ラノベ作家を志望する者が一定数存在すると聞くが、サークルで文章力を鍛えられたとしてもこんな作風に寄せてしまったらデビューが難しくなりはしないだろうか。少なくとも、最近の流行からはかけ離れたものになってしまうと思われる。

 僕が佐川君に憐れみを覚えていると、唐突に誰かが部室の扉をがんがんと叩いた。驚きのあまり僕の身体は数センチほど跳ねたと思う。

 僕は声も上げずに音の止んだ扉に視線を向ける。いったい誰だろう。サークル部員であればすぐに入室してくるだろうから部外の人であるのは間違いないと思うが、部室にあまり寄りつかない僕にはどんな人物が部室を訪ねてくるのか検討もつかなかった。


「あっれ~。留守なんかな。電気はついてるように見えるんやけど」


 僕が沈黙を貫いていると、扉の向こうから独り言が聞こえてくる。声からして女性らしいが、名乗りもしないので相手がどこの誰なのかはやはりわからない。

 困ったな。一年生の僕では部外の人の応対なんてできない。しかし、居留守を使って後で面倒を被ったりしたらそれはそれで困る。

 僕は数瞬迷った後、返事をして扉の方に向かう。

 恐る恐る扉を開けると、廊下には誰もいなかった。

 一瞬幽霊的な何かの可能性が頭をよぎった。が、視界の端に揺れる何かを確認して視線を下に向ける。

 そこにいたのは、ちんまい女性だった。女の子、と形容しなかったのは、彼女がパンツスーツを身に纏っていたからである。ぱっと見少年と見紛うごとき体型なのだが、うっすらと膨らんだ胸部と長い髪をバレッタでまとめているのが確認できたので勘違いせずにすんだ。

 

「あ、やっぱりいたわ。見ない顔やけど君、新入生?」


 ええ、まあと、戸惑いながら頷くと、女性はにんまりと笑みを浮かべる。


「そうかそうか。いやあ、今年もちゃんと新入生の勧誘がんばったんやなあ、感心感心。んで、樹林とかおる?」


 そう言ってドアを開けた態勢のままな僕の脇下を潜り込むようにしてに部室の中を覗く謎の女性。僕は小動物がじゃれついてきているみたいな気分になった。


「あれ、誰もおらんなあ。部会って今日じゃなかったっけ?」


 中に誰もいないことを確認して女性は首を傾げる。確か、今年から定例部会の日程を変更したと聞いたことがあった。そのことを女性に説明すると、彼女は納得したように頷く。


「ああ~、なるほど。そういやそんな話を樹林から聞いたような聞かなかったような……。しまったなあ、今日ならみんなに会えると思ってたんやけど」


 最後は残念そうにつぶやく謎の女性。まあ、ここまでくれば彼女が何者であるかはおおよその見当がつく。

 僕がOGの方ですか?と聞くと、予想通り彼女は肯定した。


「そうそう、去年卒業した山河です。後輩君、よろしくな~」


 山河?どこかで聞いたような……?

 首を傾げつつも僕が名乗り返して頭を下げると、何が嬉しいのか、満面の笑みを浮かべてばしばしとお尻の辺りを叩いてくる山河先輩。叩かれている部位的にお叱りを受けている気分になる。おそらく本当は背中を叩きたいのだろうが、身長差がありすぎるせいでお尻になったのだろう。

 しかし、大学を卒業しているという話と、スーツを着ていることを勘案すると社会人で間違いないのだと思うが、本当に小さい人だ。ぱっと見身長は百四十センチも無いのではなかろうか。僕が百七十を越えるぐらいなので、山河先輩の頭に三十センチの物差しを置いて隣に立ったら検証できるかも知れない。失礼すぎるのでやらないけれど。


「お、なんか散らばってると思ったら部誌やん。懐いわあ」


 山河先輩は僕がテーブルの上に広げていた部誌を見つけると、歓声を上げながら部屋に入り込み、部誌を読み始める。どうやら仕方ないから帰ります、とは言ってくれないらしい。


「ほら、君もこれ見てたんやろ?せっかくだから一緒に見ようや」

 

 愛想笑いをうかべつつも内心でため息を吐いている僕に、椅子に座った山河先輩がばしばしと自分の隣を叩いている。ここに座れということらしい。OGとはいえ先輩の命令には逆らえず、おとなしく隣に座った僕の方に彼女はずずいと詰めてくる。

 なんだなんだと思っていると、彼女はふたりに見えるように部誌を開いてみせた。山河先輩の一緒に見よう、は同じ部誌を一緒に見るということだったらしい。やりづらいことこの上ない。


「ああ、これやこれ。うちが卒業前の臥竜祭で出した作品!最初に合宿で作品出した時は出来が悪すぎて響子ちゃんにめっちゃ絞られたんよなあ」


 絞られたなんて言う割にはどこか嬉しそうに語る山河先輩。響子ちゃん、というのはおそらく大林女史のことだろう。

 それを聞いて僕は驚いた。山河先輩の作品は、昨年発行の部誌の中では出来のいい方だと思っていたのだ。それが、初稿提出である合宿の時点とはいえ出来が悪いと言われるようなことになるとは思えなかった。


「ああ、それには理由があってなあ……」


 僕が思ったことを伝えると、山河先輩は経緯を丁寧に教えてくれる。初稿時点でどういった内容を提出したのか、どんなことを指摘されたのか、指摘された内容に対してどのように改稿を行い脱稿させたのか。

 山河先輩の説明は要点が整理されていて、非常に分かりやすかった。

 僕の中で山河先輩のイメージが、なんかぐいぐい来る子犬みたいな先輩から、できる先輩に格上げされた瞬間である。

 僕は山河先輩に、他の年の部誌に載った作品のことや他の部員が書いた作品についても聞いてみた。山河先輩の解説を聞くことで、自作改善の糸口になると考えたのである。

 山河先輩は僕の思惑通り、自分が覚えている限りで作品の内容や改善した部分について教えてくれる。

 山河先輩が在籍していた四年間の部誌を題材にあらかたの教授を受け終え顔を上げた時、窓の外は日が落ちて夜になっていた。


「ありゃ、大分話し込んでしまったなあ。悪いなあ、先輩のおしゃべりに付き合ってもろうて」


 申し訳なさそうな山河先輩に、僕は首を振る。いろいろと教えていただいたのは僕の方なのだ。感謝することはあれど悪く思うことはない。

 僕が頭を下げると、手をひらひらと振る山河先輩。


「ええてええて。それより、この後暇やったらご飯いかへん?お姉さんが奢っちゃるから」


 このちんまい人にお姉さん、なんて言われると失礼ながら視覚的な違和感がある気もするし、人となりを知るとしっくり来るような気もする。

 しかし、ご飯か。

 僕はちょっと考えてから、山河先輩の言葉に首肯した。


「おけおけ、そいじゃ行こか」


 広げていた部誌を書庫に戻して施錠してから部室を出る。山を降りて駅に向かうまでの間、山河先輩との会話が途切れることはない。先輩がしきりに話を振ってきて話題を尽きさせることがないからだ。

 山河先輩の会話術に密かに感心しつつ、内心で軽率に食事に誘われた己について自己分析する。

 いつもの僕であれば、初対面の人とサシで食事なんて必要が無ければ死んでもいかないだろう。それでも山河先輩との食事に同意したのは、この人の人懐っこさというか親しみやすさというか、防御力の低さというか。そういった魅力によるところが大きい。

 身近にいるコミュ力の高いやつだと、東雲よりも北条に近い感じだ。つまり恐らくだが、山河先輩も男子を勘違いさせる系の能力者に違いない。いろんな意味で耐性が付いている僕でなければコロリといっているところだ。文芸サークルにこういうコミュ強の陽キャみたいな人がいたことにも驚きである。


「さあて後輩君、何が食べたい?」


 駅前の繁華街に到着すると、山河先輩は僕に問うた。支払いをしていただく都合上好き勝手言うのは憚られたので、先輩のおすすめのお店ということでお願いする。


「そんな遠慮せんでもいいのに。そやなあ、そしたらあそこに行くか」


 こちらの胸中を見抜かれつつも、山河先輩はすぐさま店を決めたらしく再び歩き始める。向かった先にあるのは、どうやら博多料理のお店らしい。線路沿いの路地にあるそのお店の存在を僕ははじめて知った。


「ここはうまいもん色々あるけど、豚骨ラーメンが一番人気なんよな。ニンニク入れ放題やし替え玉も安いから、がっつり食べたい時に通ってたわ」


 あまりにも男らしい選択理由である。こちらに配慮して間違いがなさそうな店を選んでくれたのか、完全に自分の好みで選んだのかは分からないが、個人的にはお洒落なお店に連れて行かれるよりも余程印象が良い。

 テーブル席に座ると、山河先輩おすすめのラーメンをふたりで注文する。待っている間も雑談は弾み、会話の中ではいろいろな情報を仕入れることができた。

 山河先輩は現在小さな出版社で雑誌記者をやっていて、旅行誌の記事を書くために全国を飛び回っていること。口調やイントネーションがなんちゃって関西弁みたいなのは、生まれが関西圏で母親が関西人だが、父が関東人で仕事の都合で小学生の時にこっちに引っ越して来たためごっちゃになってしまっているからということ。

 本日は、地方取材が一段落して時間に余裕があったので、近くで用事を済ませたついでに寄ってみたということ。

 こういう自らのプロフィールを嫌み無く相手に話せるのはある意味才能だと思う。

 そうこうしているうちに、店員さんがテーブルにラーメンを持ってくる。


「お、きたきた!いやあ、これ食べるのも学生の時以来やなあ。このラーメンにニンニクを阿呆みたいにかけてな……」


 満面の笑みを浮かべながら、テーブルに据えられた壺からニンニクの欠片を取り出し、器具を使ってラーメンにニンニクをこれでもかと絞る山河先輩。翌日の口臭のことなど一顧だにしない男らしいトッピングである。


「ほら、君もニンニク嫌いじゃなかったらためしてみ?」


 ニンニクを三欠片も絞ってから、山河先輩がニンニク絞り器を渡してくれる。僕は真っ当に一欠片だけニンニクを絞って入れた。


「さあて、それじゃあ……。と、その前に」


 対面に座った山河先輩は席を立つと、僕の隣の席にわざわざ移動する。何だろうと不思議に思いつつ見ていると、山河先輩はスマホを取り出しながら僕に身体を預けるように身体を寄せてくる。


「ちょっと行儀悪いけど、せっかくやから記念にな~。……こんなもんか、はいチーズ!」


 スマホからぱしゃりとシャッターを切る音がすると同時に、山河先輩は体勢を立て直して画像を確認する。


「うんうん、良い感じやな!君にも送ったげるよ。ライン教えて」


 元の席に戻った山河先輩の勢いに押されるようにラインを交換すると、すぐに画像が送られてくる。

 画像には僕と、僕の太ももに手を置いてバランスを取りつつ身体を寄せている山河先輩、そして画像の端の方に申し訳程度にラーメンが写っていた。

 なんていうかこう、カップルが撮るような画像になってしまっている。テーブル席で隣りに座っているためにけっこう無理な体勢と画角になっているが、山河先輩が元の席でテーブルの方を向いて自撮りすれば無理なく僕とラーメンを画像に収められたのではないだろうか。


「それじゃあわたしと君の仲の良さがちゃんと表現できんやん」


 表現する必要はあるのだろうか?

 思わず突っ込みが口をついて出そうになるが、言ったところで何も変わらなさそうなので僕は賢明にも言葉に出さなかった。


「さあて、それじゃ食べようか。いただきます~」


 嬉しそうに箸を割り、盛ったニンニクを麺に豪快に絡めて啜る山河先輩。僕も先輩に追随して麺を啜る。

 ……うん、確かに美味しい。極細の麺が白濁としたコクのあるスープに良い感じに絡んでいる。それでいて後味あっさりで食べやすいラーメンだった。


「……うん、うん。やっぱり美味いなあ。おっちゃん!替え玉ひとつ!」


 僕が味わいながらちゅるちゅると麺を啜っている間に、山河先輩はもう替え玉を頼んでいる。


「君も食べられたら替え玉頼んでいいからな。遠慮せずどんどん食べえよ」


 山河先輩はそう言ってくれるが、そんなに胃が大きくない僕は一回替え玉するのが精一杯だった。僕がおかわりを平らげている間に、山河先輩は追加で二回替え玉を頼んでいた。身体は小さいのによく食べる先輩である。


「いやあ、食べた食べた。久しぶりだから調子に乗ってしまったなあ」


 椅子に背を預けてお腹を撫でながら、満足そうな表情を浮かべる山河先輩。見ているこちらが気持ちよくなるぐらいの食べっぷりだった。


「そうそう、ちょっと聞きたかったんやけど、今サークルはどんな感じ?樹林は上手くやってる?」


 水を飲んでひと息ついていた僕に、山河先輩が思い出したように話しかけてくる。

 ふむ。

 僕はもう一度水を口に含んで考える。正直、部会の時以外はあまりサークルに寄りつかないので、僕の意見を参考にしてもらって良いのかどうか……。

 まあ、いいか。僕の目から見ても特に問題があるようには見えないし、皆で楽しく和気藹々とやっていると思う。小説の批評に関しては、一年生相手でも容赦ないところがあるけれども。

 部長の樹林先輩も、見た目にそぐわぬ気配り上手でよく部員達を気にかけてちゃんと部長をやってくれている。

 そんなことを山河先輩に伝えると、先輩はうんうんと頷きながら我がことのように嬉しそうな笑みを浮かべる。


「そうかそうか。そう思ってくれるなら先達としても嬉しいなあ。樹林もちゃんとやれてるなら安心やな。あいつ、時々えらい不器用というか、ポンコツになる時があるからなあ」


 ほほう。樹林先輩のそういう所を見たことがなかったのでなんだか新鮮なご意見である。まあ、僕があまり樹林先輩と絡みがないせいで知らないだけかもだけれども。


「……さて、それじゃそろそろ出よか。皆に会えなかったのは残念やけど、かわいい一年生には会えたし、サークルの様子も聞けたからこれでよしとしようかな」


 そう言って伝票を手に取り席を立つ山河先輩。僕も後に続き、会計を済ませて店を出てから駅前まで同道する。僕は改札の前で、先輩に今日のお礼を伝える。


「いいよいいよ。今日は先輩のおしゃべりに付き合ってもろうたし、サークルの様子も聞けたし。それじゃ、また時間できたら顔出すから、そん時はまたお姉さんに付き合ってな~」


 ひらひらと手を振りながら改札の向こうへ消えて行く山河先輩。

 しかし、色々と濃ゆい人だったが、今までにないぐらいいい人であった。いや、新垣先輩とか樹林先輩とかもいい人ではあったのだけれど、女性に関してはうちのクズ共も含めて碌でもない人物が多かったから何かどんでん返しがあるんじゃないかと密かに心配していたのである。人を疑ってばかりじゃいけないなと反省するばかりだ。

 今日は原稿改訂に向けて参考になるアドバイスも聞けたし、夕ご飯も奢ってもらえたし、総じていい一日だったと言っていいだろう。

 僕は小さな満足感と共に帰路についたのだった。



      *



「さて、それじゃ今日は合宿でしっかり原稿を上げられなかったやつの作品を批評する。皆、ちゃんと読んできたな?」


 長机に座った樹林先輩が見回すと、誰からも異論は出なかった。


「それじゃあまず佐川の作品から……」


「部長、大林先生が来てないですけどいいんですかね?」


 二年の御上先輩が挙手をして確認すると、樹林先輩はああ、と頷いた。


「なんでも今日は知人と用事があるとかで欠席だ。まあ、今日作品を読まれるやつからすると僥倖かもしれんな」


 はっはっは、と朗らかに笑う樹林先輩。

 マッチ棒みたいにひょろひょろと長い体躯に、伸ばし放題にされ乱雑に跳ねたくせっ毛、昔のアニメかなにかでガリ勉キャラがかけていたような丸眼鏡が特徴的すぎるお人だが、何気に気さくな人だったりする。


「ああ、そういえばナツ──友人が今日は大林先生とノリ打ちするとか言ってましたよ」


 西園寺が容赦無く大林女史を売ると、場の雰囲気は微妙なものになった。ちなみにノリ打ちとは、複数人でパチンコを打って収支を均等にすることを言う。イベント日でもない平日にこれを実行しても負け額が均等になるぐらいの効果しかない気がするが、どうして今日やろうと思ったのだろうか……。


「あの人は……。まあ、あの人の適当さは今に始まったことじゃないからな。日々執筆に明け暮れる作家にも時には息抜きが必要ということだろう」


 大袈裟なリアクションで頭を抱えていた樹林先輩であったが、すぐに気を取り直して話を再会する。わざわざ大林女史を持ち上げてフォローを入れているが、あの人合宿にも遅刻してきていたし樹林先輩はもうちょっと怒ってもいいと思う。


「とにかく佐川の作品からだ。流石にちゃんと完成させてきたようだな」


「合宿でめっちゃ絞られましたからね。今回は死ぬ気で書き上げてきましたよ!」


 佐川君は合宿中、執筆の合間に開かれた有志による飲み会に参加して夜中まで飲んでしまったために最終日の発表会でちゃんとした作品を出せなかったのだ。

 新入生ということで多少はお目こぼしされて叱られることはなかったが、その場で締め切りを守ることの重要さというものをこんこんと説かれ、結局精神的にぼろぼろにされたのである。今回はその時の教訓からしっかりと作品をあげてきたようだ。

 しかし、自信満々といった様子で答えた佐川君に樹林先輩はにやりと笑みを浮かべる。


「それなら質の方も期待できそうだな」


「え”っ」


 樹林先輩の言葉を受けて佐川君の表情にひびが入る。佐川君は合宿時点で作品が未完成だったため作品自体の批評を受けていないが、以前部会に出したライトノベルや他の部員の作品がどのような批評を受けていたか思い出したようである。

 佐川君と同じような境遇の一部人物たちの顔を引きつらせつつも、各員から批評の声が上がり始める。


「作品は所謂ラブコメものね。クラスメイトであるということ以外接点のなかった主人公とヒロインが会話するようになって親しくなっていく過程が一通り書けてたんじゃないかしら」


「ラストの主人公とヒロインのやり取りを、ふたりがくっつく所まで書かずに告白を匂わせるところで終わらせたのは英断だろうな。これ以上書くと字数制限に引っかかるだろうし」


「ヒロインのために主人公が啖呵を切る場面は主人公の熱が伝わってきて良かったぞ」


「たぶん自分の母校を参考にしてるんだと思うけど、登校風景とか教室の描写がしっかりしてると思いました」


 部員から好意的な反応が返ってきて得意満面といった様子の佐川君。リアクションがあからさまだが、必死に書き上げた小説が評価されれば嬉しいのは当たり前だろう。

 しかし。


「……さて、とりあえず良かった点は以上だな?それじゃあ、これからは悪かった点、改善するべき点を挙げてやってくれ」


 樹林先輩の言葉に、批評の雰囲気ががらりと変わる。


「ラブコメものはヒロインの魅力をいかに表現するかが肝になるけど、いささか描写が安っぽいなあ」


「美人だとか性格が良いとか書いてあるけど、具体的にどういうタイプの美人なのか書かれてないし、性格が良いと言うならそれらしいエピソードでも入れないと薄っぺらくなるだけだぞ」


「ヒロインが主人公を意識するきっかけもなんというかこう、もうちょっと説得力のある理由にならない?女の子が意味も無くフツメンの男を好きになるとかないから」


「まあ、ラブコメにそこまでリアルさを求めるのもどうかと思うが……。それでももうちょっと読者を納得させるだけの理由が欲しいな」


「ストーリーが平坦すぎるのも問題よねえ。ヒロインが重病で余命半年になるとか、ヒロインが実は猟奇殺人者とかそういう展開はないの?」


「病気設定はいささか古典的すぎるな。しかし普通のヒロインとただくっつきましただけじゃつまらないのはその通り。展開にもうひと転がし欲しいところだな」


「印刷までの締め切りを考慮するとあと一ヶ月程度というのが厳しいな。足りない部分が多すぎる」


 それは批評というより、総攻撃といった様相であった。先ほどまで笑みを浮かべていたはずの佐川君は批評という名の鞭を受けて言葉も無く机に突っ伏している。合宿での批評よりも更に容赦が無い。これが締め切り直前の部会であるらしい。

 ……今後自分の番が回ってきた時に僕の心は耐えられるだろうか。

 ドン引きする一年生達を他所に、皆の批評を聞いていた樹林先輩が撃沈した佐川君に対して優しげな声音で話しかける。


「後半の意見は厳しかったと思うが、皆からの意見を取り纏めれば自分の小説に足りないものが分かるだろう。まだ時間はあるのだ。今から頑張って皆に更に評価される小説に仕上げればいいのだよ」


「樹林先輩……」


 先輩からかけられた温かみのある言葉に、机に額をくっつけていた佐川君が顔を上げる。

縋るような彼の視線に樹林先輩は微笑んだ。


「だから、締め切りまでのおよそ一ヶ月、死んだつもりで頑張ろうな。なあに心配するな。俺を含め、先輩達がお前を殺してでもいい小説を書かせてみせる」


「樹林先輩……」


 佐川君の顔は絶望に染まった。死んだつもりでとか殺してでもとか、殺伐とした表現から今後一ヶ月の間に待っている地獄が垣間見えるようだった。

 脅しだとしてもえげつない追い込み方だが、先輩達が誰も異論を挟まないのが恐ろしい。一部、佐川君の同類な先輩達の表情が青を通り越して白くなっているように見えるのは気のせいじゃあるまい。


「落としてから上げるんじゃなくて、上げてから落とすのがまたえげつないな……」


 僕の右隣に座っていた西園寺が珍しく引きつった表情を浮かべて呟く。西園寺の言葉にそのまた隣にいた才藤さんが困惑した様子で頷く。


「おかしいな……。私、文芸サークルってもっと緩くて和気藹々としたものだと思っていたのだけれど」


 少なくとも、これまでの半年間で見てきた文芸サークルはそんな感じだったと思う。部員が書いてきた小説に対する批評ももっと柔らかかった。今の文芸サークルは何というか、小説を磨き上げることへの狂気を感じる。


「そりゃあお前、部誌の発行はうちが行う活動の集大成だぞ。他のことを緩くやったとしても、これだけは全力じゃ無いと嘘だろ。それに入部届出した時に説明されてただろ?うちは小説執筆についてだけはマジだって」


 僕の左隣に座っていた新垣先輩がしたり顔で説明してくれる。

 いやまあ、確かにそんなことを言われた覚えはあるけれども……。まさか、こんなに追い込むレベルでマジだとは思いもしなかった。


「なんともまあ……。精神的に打たれ弱い人はこれをやられたら辞めてしまうのでは?」


 西園寺の指摘に新垣先輩は大真面目に頷く。


「否定はできねえな。実際、去年もふたりほど辞めてる。申し訳ないとは思うが、そいつらはうちのサークルの水が合わなかったってことだ。まあ結局、不真面目なサークルだろうが真面目なサークルだろうが、環境に不満を持って辞めるやつは出てくるもんだからな。こればっかりは仕方が無いのさ」


「全員が納得して活動するのって、難しいんですね……」


 新垣先輩の話を聞いて才藤さんが呟く。ぼっちを拗らせていた西園寺に手を差し伸べるぐらいには面倒見が良い才藤さんとしては、受け入れがたい話ではあるのだろう。

 しかし、人が三人集まればふたつの派閥ができる、なんてことを言った政治家がいたように、すべての人を公平に分け隔て無く受け入れるグループというものは存在しないのだ。無理に在籍し続けることで自分をすり減らしていたら意味が無い。それならば素直にグループを離れた方が賢明というものだ。

 そんなこと、才藤さんには語らないけれども。


「確かにうちは緩く小説を語りたいとか、ちょっと興味で書いてみたいなんてやつには向いてないサークルだよ。けどな、うちの顧問はプロの小説作家なんだぜ?そんな人に自分の小説を見せてアドバイスしてもらえるような環境そうそうないだろ。せっかくそんな機会があるんだったら、本気でやりたいじゃねえか」


 わずかに熱を感じる新垣先輩の言葉を聞いて、才藤さんはしばし沈黙した後、噛みしめるように頷いた。


「……そうですよね。そんな人に顧問をしてもらってて遊びでやろうなんて、失礼ですもんね」


「そういうこった。だから、うちは誰でも入れるようなサークルじゃなくてもいいんだよ。うちが合う合わないは本人次第だし、わざわざうちじゃなくてもその気があるなら自分に合うサークルを自分で立ち上げてもいいんだからな」


「それは敷居が高すぎますよ」


 おどけたように語る新垣先輩に、才藤さんは笑みを浮かべている。

 灰のように真っ白になっている佐川君を他所に、僕の周囲は良い感じに場がまとまっていた。

 ……件のせっかくいるプロ作家の顧問が遊びに出かけて部会に不在なことはこの際無視することにする。

 無粋な指摘をする必要はないだろう。うん。

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