金持ちになってからやりたい仕事第一位「喫茶店の店主」


「やあ。……どうしたの?なんかすごい微妙な顔してるけど」


 土曜日の夕刻。

 何気ない感じに僕の部屋を尋ねてきた東雲は、出迎えた僕の顔を見て不思議そうに問うた。

 どうもこうもない。先ほどまで部屋に居座っていた西園寺と北条をやっと追い出したところに東雲がやってきた、というだけのことである。

 しかも日中ではなくこんな時間にやってくるというのは質が悪い。


「質が悪いなんて酷い言い草だね。友達の家を訪ねることがそんなに悪いことかな?」


 僕の言葉に東雲はわざとらしく大袈裟に目を見張るが、休日のこんな時間に部屋に来るなんて宿にする気満々だろうに。どうせこの辺で友達と遊んだ後自宅に帰るのが面倒くさくなったとかそういう理由でここに来たに違いない。


「まさか、そんなつもりはないよ。友達と駅前のカラオケにいたのは事実だけど、ちょっと君に相談したいことができたから顔を出したんだ」


 ……相談?僕に?


「そんな顔しないでよ。別に厄介事を持ち込もうとしてる訳じゃないから」


 既に面倒くさい雰囲気しかしていなくて顔をしかめる僕に、東雲が苦笑する。

 東雲はこんなことをのたまうが、僕が東雲や他の二人と連みはじめてからというもの、相談なんてフレーズで切り出された話はろくでもないことばかりだった。

 大抵は部屋に泊めろという話で、僕が嫌がってもこいつらは問答無用で泊まっていくのである。


「それこそ誤解だよ。私たちだって君が本当に嫌がってるなら遠慮するからね。君だってなんだかんだ言いながら最終的には泊めてくれるじゃない」


 ……否定はできないので東雲の指摘はスルーして他の記憶を思い出すことにする。

 ……泊まる以外だと、北条から金策の相談をされてやばい方向へ墜ちかけるやつを引き止めたり逆に後押ししようとして説教されたり、西園寺からは官能小説のネタ出しの手伝いとかいう逆セクハラをされたり、東雲からだって先日出来心で買ったとかいうクソまずたばこの消化を手伝わされたばかりだ。やっぱり厄介事ばっかりじゃないか。


「あれはまあ、メンソールを試したかっただけなのにお酒が入ってたせいで色々冒険してしまったからで……。今度は間違いないやつを買ってくるよ。それに、今回はそういうのじゃないから」


 次回があるのはいいが、酒が入っていない時に軽いやつを選んでもらいたいものだ。

 一応聞いておいてやろう。


「実はね……」


 東雲が口を開くと同時に、呼び鈴の音が鳴った。口を噤んだ東雲と僕は顔を見合わせる。西園寺と北条は先ほど追い出したばかりだ。何か忘れ物でもしたか、そういう体でもうしばらく居座ろうと狙っているのか。

 ……いや、そもそもふたりなら呼び鈴自体をならさない。(何があるかわからないから呼び鈴は鳴らせと再三伝えているが一向に改善されず、こちらが油断したところを狙っている節さえある)ということは。

 僕が玄関に向かいドアを開けると、予想通りポニーテールな女子高生、七野ちゃんが立っていて、出てきた僕を見てぴょこんと頭を下げた。


「バイトさん、こんばんは!すみません、ちょっと食器用の洗剤を貸していただきたいのですが……」


 洗剤?……ああ、また八重さんの部屋を片付けに来ていたのか。相変わらず妹の世話になりっぱなしな姉だ。それぐらいなら全然かまわないので気にせず持っていくといい。


「ありがとうございます。お姉ちゃんったら、使った食器をシンクに溜め込んでただけじゃなくゴミ山の下にまで置きっぱなしにしちゃってて大変なんです。カビが生えてなさそうなのが救いですね……」


 どういう神経ならそこまで汚したままにできるんだあの人は……。七野ちゃんというできた妹がいなかったら隣の部屋は間違いなくゴミ屋敷まっしぐらだろう。

 八重さんがなんだかんだ七野ちゃんに感謝しているのは知っているが、そう思っているのなら七野ちゃんに迷惑をかけないようにしっかり自活しろと言いたい。

 この前なんて七野ちゃんが掃除している横で配信を始めやがったので、あまりのクズッぷりに切り抜き動画がバズったらしいし。


「あ、誰かと思ったら七野ちゃんだったんだ。こんばんは。都合のいいタイミングで顔を出してくれたね」


 僕たちが会話をしていると、部屋から顔を出した東雲が七野ちゃんを見てにこりと微笑む。


「あ、東雲さん。お疲れ様です!いいタイミングって、何か私にご用ですか?」


「七野ちゃんと、彼にね。お隣の掃除が終わってからでいいから話を聞いて欲しいんだ。なんなら、掃除も手伝うよ」


「いえいえいえ!そんな、姉の不始末でお手を煩わせるわけには!」


 東雲の提案に七野ちゃんは胸の前で大袈裟に手を振って遠慮するが、東雲はその程度で引き下がったりはしなかった。


「まあまあ。相談に乗ってもらうお礼だと思ってさ。高校生をあまり遅くまで拘束する訳にもいかないしね」


「そ、そうですか?……それなら、お願いしますね。」


 それっぽい理由付けを受けて、七野ちゃんは素直に東雲の提案に甘えることにしたようだ。おそらく、七野ちゃんがもっと強く拒否しても東雲は強引に手伝っただろう。善意だからこういうごり押しも許されるが、僕の部屋に泊まろうとする時はもっと遠慮して欲しい。

 しかし、ゴミ山ができるぐらい部屋の状態がよろしくないというのであれば手伝いは多い方がいいかもしれない。あのクソ姉のために七野ちゃんの時間が浪費されるのも可哀想だ。


「え、バイトさんもですか?いやあ、ありがたくはあるんですが……。その、女性の部屋の掃除となるとちょっと」


 僕の提案に七野ちゃんは難色を示す。

 確かに七野ちゃんの言いたいこともわかるが、あの人をまっとうな女として見ていると思われるのは納得し難い。


「ええ、そこまでですか……?確かに妹の私から見ても女としてどうなんだと思うことが無きにしも非ずなんですが……」


 憤然と反論する僕に困惑しつつもつい肯定してしまう七野ちゃん。

 まあそういうことだから、僕は気にしないしどうせ八重さんも気にしない。せっかく人数をかけて掃除できる機会なのだから、僕たちを有効利用してくれればいいのである。


「ううん……」


 それでも七野ちゃんは少し迷っていたが、八重さんが問題なければという条件で許可が下りた。そして八重さんはそれをあっさり了承した上部屋の片付け配信まで始めやがる始末で、三人がかりでも一時間かかる大仕事をこなすことになったのである。



     *



「アルバイト、ですか?」


 八重さんの部屋から戻ってきて東雲の相談とやらを聞いた七野ちゃんが、目を丸くしながら問い返す。


「それって東雲さんのご親族がやっていらっしゃるとか言うモデルの?わ、私にはできませんよ!皆さんみたいにスタイルが良いわけじゃないですし……」


「そうかな、けっこう需要あると思うよ?……まあ、今回は別口なんだけれどね」


「あ、そうなんですね……。それじゃあどんなバイトを?」


 東雲の言葉に、七野ちゃんはちょっと残念そうな顔をしながら問い返す。やはり女の子的にはモデルという仕事に憧れるものがあるのだろう。あそこの会社でモデルをするのは身の危険があるので止めておいた方がいいとは思うが。


「私の地元の喫茶店なんだけどね。高校時代に友達がそこで働いてた関係でちょくちょくヘルプに入ってたんだ。そこの店長から明日一日入れないかって連絡が入ったんだけど、シフトがふたり分欠けてるらしくて」


 なるほど。東雲に加えて僕と七野ちゃんを一人分で勘定して対応するつもりなのか。

 しかし、喫茶店のバイトなんて急に入って仕事を回せるものなのだろうか。ただ注文を取るだけだって簡単ではないだろうに。


「その辺は大丈夫だよ。メニューは多くないし、味とかを求められる店でもないしね。今は昔と違ってあまり客入りも多くはないみたいだし、だいたいは私と友達で回るからふたりは補助するぐらいで考えてくれればいいよ。もちろんバイト代は出るし、昼夜のまかないも出してくれると思うから」


 確かにそれだけ聞くと都合がいいように思える。特にまかないが二食も出るというのはありがたい。どうせ明日も暇だし、僕としては問題ない。


「私も明日はちょうど部活がお休みなので大丈夫ですよ。体育会系の部活はバイトもし辛いので誘っていただいてありがたいぐらいです!」


 七野ちゃんも目を輝かせながら了承する。ちなみに七野ちゃんは剣道部に入っているらしい。先日部屋で竹刀を見かけた時は不出来な姉をしばくために所持しているんだと思ったのだが、当然そんなことはなかったという話。


「助かるよ。春香と夏希にはちょっと頼みにくかったから」


「……?どうしてですか?」


「いや、絶対駄目って訳じゃないんだけど、ふたりにはちょっと辛いだろうから……。あ、別に仕事が大変ってことじゃないから安心して」


「は、はあ……」


 意味深な東雲の言葉に首を傾げる七野ちゃん。まあ、西園寺は何気にコミュ障というか人見知りなところあるし、北条はバイトクラッシャーなのでその辺に配慮しているのだろう。


「じゃあ、明日はよろしく。そうだね……。八時過ぎぐらいにこの部屋に集合しようか」


「わかりました!よろしくお願いしますね!」


 それでは!と元気よく挨拶して七野ちゃんは部屋を出て行った。もう夕食を取るにもちょっと遅い時間だ。九子ひさこさんが首を長くして待っているに違いない。


「そうだね。やっぱりちょっと申し訳なかったかな」


 まあ、九割方八重さんの部屋の片付けが長引いたせいなので気にすることもあるまい。九子さんに怒られるべきは間違いなく八重さんだ。

 ……ところで。


「ん?」


 お前はいつ帰るの?


「え?」


 え?



       *



 翌日の朝。東雲の地元駅から五分ほど歩いた中心街の外れにそのお店は存在した。

 

「うわあ、お洒落なお店ですね!」


 到着した喫茶店を見て七野ちゃんが歓声を上げる。

 煉瓦造りの外壁には蔦が這っているが、きちんと整えられているように見える。また、正面入り口側の壁面には一面に大窓が設置されていて中が見渡せるようになっていた。

 七野ちゃんはお洒落と表現したが、映えを狙ったような外観というわけでもないので、趣のある、という表現が精々だろう。

 個人経営の喫茶店と聞いていたので、ビルの一階に入居してるこぢんまりとした店をイメージしていたのだけれど、思いの外大きな店構えなことが意外だった。

 扉の上には素っ気ない看板が掲げられていた。描かれた文字は"喫茶Morpho"。モルフォというと確か蝶の一種にそんなのがいたと思ったが、特にそう言った意匠は見当たらない。

 東雲を先頭にしてclosedの看板がかかった扉を潜ると、カウンターの最奥で男がこちらに背を向けて作業をしていた。


「やあ、会長。久しぶり」


「……ああ、来たか。お前の大学合格祝い以来だな。というか、会長はよせ」


 東雲の言葉に振り返った男は、わずかに顔をしかめて言い返した。東雲の言う友人とは、彼のことであるらしい。


「今日はすまないな、東雲。そちらのお二人が?」


「そう。今日のピンチヒッターだよ。こっちが牛嶋七野ちゃん。彼が──」


「そうか」


 東雲の紹介を受けカウンターから出てきた男は、僕と七野ちゃんの前に立つと丁寧に頭を下げる。


「俺は冷泉、この喫茶店のアルバイトだ。本日は急な依頼に応えていただき感謝する」


「会長──もとい冷泉君とは生徒会で一緒だったんだ。彼が会長、私が副会長でね」


 なるほど、冷泉……年上だろうし先輩でいいか。冷泉先輩はかしこまった物言いといい、黒縁の眼鏡といい、いかにも堅物といった風体なので、生徒会長という役職にも納得だ。むしろ東雲が生徒会役員、それも副会長ということの方が僕には意外である。普段ごろ寝しながらたばこを吹かしている姿からは想像できない。


「そりゃあたばこを吸い始めたのは高校卒業後だからね。こう見えてもまともに学生やってたし、真面目に仕事してたんだよ」


 どうだかなあ、と東雲の言葉に疑問を覚える僕を余所に、七野ちゃんは目を輝かせている。


「東雲さん、副会長だったんですね!すごいなあ。お二人が並んでいたら絵になったでしょうねえ」


 確かに、東雲は言うまでもないし、冷泉先輩の顔立ちもよく見てみれば整っている。生徒会の実績なんぞ生徒にはたいして見られないし、評価されることはそうないだろうがビジュアル面での評判は上々だったのではないだろうか。

 しかし、冷泉先輩は七野ちゃんの言葉に誇るでも謙遜するでもなく、苦々しい表情を浮かべる。


「確かに評判は悪くなかったと自負しているが、東雲が隣にいると不愉快な思いをすることが多かったよ」


「冷泉君より私の身長の方が高いものだから、周囲からは散々からかわれていてね。顔も童顔だし」


 くすりと微笑む東雲を冷泉先輩はじろりと睨むが、確かに威圧感というものは感じられない。確かに二人が並ぶと東雲のが頭半分ぐらい背が高いようだが、東雲の身長が女性としては高身長なので気にすることもないと思う。僕が東雲よりわずかに背が高いからこんなこと言えるだけなのかもしれないけれど。

 しかし、なるほど。二人の様子を見ると、もしかすると冷泉先輩の堅い雰囲気は、容姿で舐められないようにするための苦肉の策ということなのかもしれない。


「……ごほん。開店時間までの間にできるだけのことはしておかねばならない。すぐに準備を始めよう」


「は、はい!頑張ります!」


 冷泉先輩の言葉に七野ちゃんは気合い入った声音で応じる。東雲は手伝い程度とか言っていたが、ある程度しっかりとしないと迷惑をかけるだけになってしまうので、適当にはできまい。

 まあ、流石にすべてを完璧にこなせなんてことは言われないだろう。迷惑をかけないようできる努力はするとしよう。



      *



「どうかな?きついところはない?」


「はい!大丈夫です!バイトさん、どうですか?」


 レースをあしらった白エプロンに黒のロングワンピースのクラシカルメイド風な制服を身に纏った七野ちゃんは、その場でくるりと回ってみせると僕に感想を求めてきた。どうやらこの喫茶店の店主はいい趣味をお持ちであるらしい。

 なお、僕は白のシャツを貸与されただけなので、それだけ着替えてズボンは私服のままだ。

 他人の外見を褒められるような語彙を持たない僕は思った通りに、似合ってるよ、と一言だけ答えたが、七野ちゃんにはそれで十分だったようで、彼女は照れたようにはにかんだ。

 

「良かった。問題ないとは思ってたけど、ここで働くにはこの制服が着れないと話にならないからね」


 安心したように頷いている東雲も七野ちゃんと同じ制服を身につけているが、なんというか窮屈そうにしている。

 この制服は胸の下辺りでラインをきゅっと絞っているのだが、そのせいで胸が強調される形になっている。七野ちゃんは影響がなさそうだが、東雲は胸の部分がきつきつになっていた。

 東雲でこれなら西園寺や北条は……と、考えたところで、この人選の理由に思い当たった。

 言わぬが花だと黙っていたのだが、どうやら七野ちゃんも東雲の様子を見て悲しいまでの事実に気がついてしまったらしい。


「……もしかして、西園寺さんや北条さんじゃなくて私が選ばれたのって、胸のサイズが小さいからってことですか……?」


「……さあ、まずはオーダーの取り方から教えるよ。伝票に手書きしないといけないんだけど──」


 問いかけられた東雲は答えることなく穏やかな表情で指導を始める。

 直接でなくとも雄弁に解答を提示された七野ちゃんは、昏く淀んだ目をしながら東雲の言葉を聞いている。僕はかける言葉も見つからないので、七野ちゃんが開店までに元の元気な姿に戻ることを願うばかりだ。

 僕は僕で別に色々覚えなければならないし。


「さて、君にはカウンターに立ってもらう。調理や皿洗いが主だな。と言っても、軽食は事前に作ったり下ごしらえしたものを出すだけだし、この時期の飲み物は基本冷たいものしか出ないから作り置きを注いでもらうだけで事足りる。手間がかかるものはこちらで用意するから、できることだけやってくれればいい」


 なけなしの気合いを準備したというのに、なんだか至れり尽くせりでこちらの方が申し訳なくなるような待遇である。隙を見てフロアのフォローに回った方がいいだろうか。


「いや、ここの店はあの制服が売りなんだ。フロアに男の出る幕はない。こっちもピークはそれなりに忙しくなるし、気にせず集中してくれ」


 なるほど。

 やってることがほとんどメイド喫茶じゃなかろうかと思ったが、胸の内に仕舞っておくことにする。

 しかし、仕事に慣れた冷泉先輩がいるなら僕の存在は逆に邪魔にならないだろうか。素人が余計なことをする方が手間がかかりそうなものだが。

 僕の疑問に、冷泉先輩が気まずそうな顔をする。


「……今日は俺も臨時でな。昼前には帰らねばならんのだ。交代でひとり入るがそいつは女だし、フロアを厚くしたいから君がカウンターにいてくれるだけでもありがたいのだよ」


 そういうことなら気兼ねする必要はなさそうである。というか冷泉先輩も臨時となると今日のシフトは大崩壊だったということになる。東雲が僕たちを引っ張ってこなかったら臨時休業もあり得たのではなかろうか。


「実際その通りだ。本来は店長ともうひとりバイトがシフトに入っていたのだが、店長がそのバイトを引き連れて出歯亀ってくるとか言い始めてな……。シフトは東雲に投げたと言うが、やつとて時々手伝いで入っていたぐらいなものだから店を任せるわけにはいかん」


 それで冷泉先輩も日雇いの僕たちを指導するためにわざわざシフト入りしたということか。出歯亀というのはよくわからないが、ここの店長は無茶苦茶な人であるようだ。


「そうなのだ!そもそもあの人には一国一城の主たる責任感がない!ただでさえ適当なのに最近は執筆がどうとか言って店にいてもろくに仕事しないし……」


 店長に対して相当な不満が溜まっていたのか、冷泉先輩が愚痴を吐き出し始める。結局開店までの間はほとんど愚痴を聞いていたようなものだったが、客入りが少なかったのでなんとかなった。



       *



「……そろそろだな。それじゃあ申し訳ないが、俺はここで失礼させてもらう。すぐに交代の者が来るから以降はそいつの指示に従ってくれ」


 十一時を過ぎた頃、冷泉先輩はそう言って店のスタッフルームへ消えていった。せめて次の人に引き継ぎをして帰ってくれるとありがたかったなと思うが、まあその辺は東雲が上手いことなんとかするだろう。

 七野ちゃんは喫茶店特有な客の回転率の悪さと東雲の指導により一応の対応が取れているようであるし。

 問題があるとすれば僕の方だろう。

 接客は言葉遣いがしっかりしていれば多少の誤魔化しは効くだろうが、調理場はそうにもいかない。いかに下準備がされていて、難しい調理を求められるメニューがないとしても素人一人でどうにかなるとは思えなかった。


「ここはお昼から夕方ぐらいまでがピークになるから、この後からちょっと忙しくなるよ。交代の人が慣れてるからフロアもカウンターも見てくれるだろうけど、頑張ってね」


「わかりました!」


 カウンターに寄ってきた東雲の言葉に、七野ちゃんが元気よく答える。今はこうして手が空くぐらいには落ち着いた客入りであるが、休日のピークタイムなら忙しくなるだろう。

 東雲の言によれば優秀な人が入ってくれそうなので、その人に縋るしかないなと後ろ向きに思考を巡らせていると、スタッフルームの扉が開いた。

 うっすらとした柑橘系の匂いが鼻腔をくすぐる。どうやら交代人員が出勤してきたらしい。

 しばらくは三人で店を回さなければならないかとも思っていたのでありがたい。


「久しぶりだね、瑞希ちゃん」


 制服を着込んだその人──瑞希さんは東雲に声をかけられるとたおやかに微笑んだ。三つ編みにされた黒髪や凜としたたたずまいから大和撫子然とした印象を受ける。洋風メイドっぽい制服よりも、和風な服装の方が似合いそうな人だった。


「ええ、本当に。冬実さんがもっとお店を手伝ってくれればお会いする機会も増えるでしょうに」


 瑞希さんの言葉に東雲は笑って肩をすくめる。


「申し訳ないけど、従姉妹のスタジオを優先しなきゃいけないし、大学も色々と忙しいからね。こうやって急場のヘルプに入るぐらいがせいぜいだよ」


「そうですか。残念です」


 瑞希さんはある程度答えを予測していたようで、あっさりと引き下がる。

 しかし、色々と忙しいとか語っている割には、我が家でごろごろしていることが多いと思うのだが。東雲を追求したい欲求にかられるが、バイト先でもめるわけにもいかないので静観することにする。


「……お二人のことは先ほど冷泉さんからお伺いしました。本日はよろしくお願いしますね」


「あ……。よ、よろしくお願いします!」


 丁寧に頭を下げる瑞希さんに慌てて頭を下げる七野ちゃん。僕はそれに追随しながら、瑞希さんが仕事のできる人だと勝手に決めつけてひとり安心していた。

 実際、瑞希さんの働きは八面六臂と言っても遜色はないほどだった。

 お昼前ぐらいには客入りが増え始めて席がほぼすべて埋まるような状態だったが、瑞希さんはテキパキと注文を取り、手間のかかる調理をさっさと片付け、会計までこなしている。

 多少慣れているらしい東雲はともかく、僕や七野ちゃんに簡単な作業だけやらせて面倒を自分で抱えているようなものだ。

 圧倒的実務比率の格差に申し訳なさを覚えたが、「できることを確実にこなしていただくだけで十分助かってますよ」というありがたいお言葉を頂戴し、安心して単純労働に勤しむことができた。

 昼を過ぎても席はほぼ満席を維持していたが、長居する客が多数を占めていたため店の混雑に比べて交代で休憩を取る余裕があったのは助かった。

 休憩中に瑞希先輩お手製のまかないサンドイッチをありがたく頂戴してから店に戻り、代わりに東雲が休憩に入る。

 店内は客の入れ替わりが終わったタイミングらしく落ち着いた様子だ。カウンターの中で皿洗いをしていた瑞希先輩にまかないの礼を述べる。


「いいんですよ。急な話にも関わらず助けて頂いたのに、あの程度のものしか出せなくて申し訳ないぐらいです」


 瑞希先輩はそう言うが、あれだけ仕事をしている先輩にまかないまで用意してもらったこちらの方が申し訳ない。


わたくしのことはお気になさらず。こういった対応には慣れておりますので」


 ふむ。どうやらこの喫茶店の店長はちゃらんぽらんな人であるようだし、苦労しているのかもしれない。先輩も学生アルバイトだろうに、よくこの愛想を尽かさずに仕事を続けられるものだ。

 僕の素直な感想に、瑞希先輩は苦笑する。


「確かに店長は、その……、尊敬に値するとは言えないお人ですが、このお店には思い入れがありますので」


 そう語る瑞稀先輩の表情は、何かを懐かしむようにも、寂しがるようにも見えた。

 どうやら僕が及びもつかない程にこの店を大切に思っているという事だけは、僕にも理解できた。


「……ところで、大学での冬実さんはいかがですか?」


 瑞稀先輩は話を切り替えるように、ふわっとした質問を投げかけてきた。どう、というと、東雲の生活態度とかそういう話だろうか。

 うちの部屋に入り浸って半裸でチェーンスモークしてますなんてとても伝えられないので、友達と飲んで騒いで楽しくやってます、と当たり障りない回答をする。

 事細かに突っ込まれたらそこまで親しくないことにして逃げようと思っていたが、瑞稀先輩はそれで納得してくれたのか、どこかホッとした表情を見せる。


「それなら、良かったです。むつみ君が亡くなって、ずっと塞ぎ込んでいましたから。冬実さんはあまり内面を見せるタイプじゃないですし」


 睦……?ああ、もしかして東雲の弟のことだろうか。それなら心配ないだろう。

 なにせ、度々自分から弟の話を持ち出して、北条や西園寺のリアクションを楽しんでるぐらいだ。

 内心までは僕もそこまで親しくないのでわからないが、自分でネタにするぐらいなのだから、ある程度は吹っ切れているだろう。たぶん。

 僕の適当な説明に、瑞稀先輩は微笑む。


「そうですか。……貴方みたいな方が側にいてくれるなら、大丈夫そうですね。安心しました」


 瑞希先輩の物言いに、厄介なものを押しつけられたような感覚を覚えて僕は顔をしかめた。先輩が不思議そうな顔をしたので東雲の赤裸々な大学生活を開帳しようかと思ったが、同時に我が家の恥部を晒し上げることにもなってしまうので止めておくことにする。



      *



 最後の客が退店し店の片付けを終えると、瑞希先輩が夕食を振る舞ってくれた。出されたぱっと見お洒落なトマトベースのパスタ(名前は聞いたが覚えられなかった)は非常に美味で、これだけでもバイトに入った甲斐があると思えるほどだ。


「冬実さんもお二方も、本日は本当にありがとうございました」


「いえいえ!お給料だけじゃなくてこんな美味しい食事までご馳走していただいて、何だか大したこともしてないのに申し訳ないぐらいです……」


 カウンター席の右隣で、出されたパスタの見栄えに興奮してスマホで撮影したり、味にグルメマンガ顔負けの大袈裟なリアクションをしたりで盛り上がっていた七野ちゃんがわたわたと手を振る。


「いいんですよ。お二人ともいてくれて本当に助かりましたから。牛嶋さんは接客も丁寧でしたし、動きもしっかりしていました」


「えへへ……。うちの部は礼儀にうるさいですから。それに後は、姉の世話をしているお陰ですかね」


「お姉さんの……?」


 ああ……。

 普段からだらしない姉の部屋を片付けたり上げ膳下げ膳までこなしている七野ちゃんだ。その時と似たような気持ちで仕事をしていたのかもしれない。

 それに、七野ちゃんが申し訳なく思う必要はない。飲み物をグラスに注いだり皿洗いしているだけで満額の給料とまかないを頂いている僕よりは店に貢献しているのだから。

 どれぐらい何もしていないかと言うと、途中で手が空き過ぎて食器棚の整理とかしていたぐらい何もしていなかった。


「いえ、それはそれで中々手がついていなかったので助かりましたから……」


 瑞希先輩が僕のフォローをしようとするのを遮るように東雲が七野ちゃんに話しかける。


「そうそう。彼に比べたら七野ちゃんは大活躍だよ。だから気にしないで遠慮なくデザートを強請っていいんだ」


「ええ!?そ、そんなに食べたら体重が……!」


 貢献度合いで換算し始めると僕がこのパスタ一人前食べるのもどうかと思えるな。七野ちゃん、一口どうだろう。

 僕はフォークに巻き付けたパスタを七野ちゃんの方に持っていく。私を太らせる気ですか!?とか、同じパスタもらっても嬉しくないです!みたいなリアクションを期待していたが、僕の予想を覆して七野ちゃんは食いついた。


「え!……い、いただきます!」


 興奮で顔を赤らめながら待ちの姿勢を取る七野ちゃん。僕は体育会系はなんだかんだ食い意地張ってるなと失礼な感想を思い浮かべつつフォークを口元に運ぶ。

 僕は人より食が細く、食べるのも遅いので皿の上のものが消えるのは大歓迎だ。

 七野ちゃんは差し出されたフォークに一瞬のためらいをみせたが、意を決したように口を開けてフォークを口に含む。七野ちゃんがちゅるんとパスタを吸うのに合わせてフォークを引くと、ソースまで綺麗に持っていっていた。

 味わうように口を動かしている七野ちゃんを見ていると、何だかペットに餌を与えているような気分になる。

 どうだ?もう一口いくか?と言わんばかりにもう一度パスタを絡めたフォークを差し出すと、七野ちゃんは一瞬目を輝かせる。が、東雲と瑞希先輩が暖かい目で見ていることに気がつくと、赤らんだ顔色をさらに濃くして遠慮されてしまった。


「ふふっ、仲がよろしいんですね」


「い、いえそのっ、これはですね……」


 七野ちゃんは瑞希先輩にからかわれ、言い訳を探しているのを眺めながらフォークに残ったパスタの処遇を考える。

 自分で食べてもいいのだが、瑞希先輩の好意で僕のパスタは大盛りに盛られている。ノーと言えない日本人な僕は先輩の好意を無碍にしないためにもこのパスタを完食したいが、お腹も膨れてきているのでこのフォーク分ぐらいは七野ちゃんに消化してもらいたかった。

 仕方ない、東雲に押しつけよう。

 左隣の東雲に向かって無言でパスタを差し出すと、それに気がついた東雲は苦笑しながらもそのパスタを口に含んだ。


「あああああ!?」


 突然の叫びに振り返ると、七野ちゃんが驚愕の目でこちらを見ながら戦慄いている。


「え、ちょ、あれ?そんな軽々しく……?」


「……驚きました。冬美さんが男手を連れてくるというから余程親しい方なのだろうとは思っていましたが」


 言葉が上手くまとまらない様子の七野ちゃんをよそに、目を見開いていた瑞稀先輩がしみじみと感想を述べている。

 一瞬何の話かと首を傾げたが、七野ちゃんの指がフォークを指していることに気がついてようやく言いたいことを理解する。どうやら東雲の口にフォークを突っ込んだのが問題らしいのだが、七野ちゃんにだって同じことをしたのに何故今だけそんなに騒がれるのか。


「だ、だって!今の自然な動作、すごい慣れてましたよね!?たぶん、普段からやってるやつですよね!?」


 普段から、というと四六時中こんなことをしているみたいなニュアンスになってしまうので訂正したいところだ。

 そもそも、机に置いておいた飲みかけペットボトルが本人の許可なく回し飲みされたり、外食していておかずの強制交換が発生したりする環境において、この程度で躊躇しては生きていけないのである。


「……んぐ。お酒を飲んでる時はだいたいこんな感じなんだから普段からでいいんじゃないかと思うよ」


「飲んでる時……。西園寺さんがいる時点でほとんど毎日じゃないですか!」


 騒ぎの中、僕の押しつけたパスタを消化した東雲の意見に七野ちゃんが反応する。ううん、そう言われるとそうと言えなくもないか……?


「そうですよ!そんなの、その……。ず、ずるいです!私にももっと食べさせてください!」


 ええ……。まあ、別にいいけど……。あまり僕の皿から食べられると僕の取り分がなあ。


「そ、それなら代わりに私の分を食べていいですから!」


 それなら別にいいか。……いいか?

 巡り巡って不要なトレードになっている気がしなくもないが、七野ちゃんはご満悦な様子なのでまあよしとしよう。七野ちゃんが思いのほか不器用で、僕に差し出されたフォークが小刻みに震えていて刺さるんじゃないかとヒヤヒヤしたことだけは付記しておく。

 結局もたもたとそんなやり取りをしていたこともあり、僕が一番食べるのが遅くなってしまった。七野ちゃんだって僕の皿から大量のパスタを持っていったはずなのに不思議なものである。

 二人は既に食事を終えて着替えに向かったので、僕だけが居残りである。昼休みに教室でひとり寂しく給食をつつく小学生の気分だ。


「それにしても、冬実さんとは本当に親しくされているんですね。高校時代の冬実さんは誰にもなびかなくて敷居の高い女扱いだったのですが。いったいどういう手管を使ったんです?」


 お腹いっぱいになってきて食べるペースが落ち、もそもそとパスタをすする僕に瑞希先輩が話しかけてくる。

 残念ながら東雲と連み始めたのはここ一、二ヶ月のことだし、僕から進んで近づいた訳でもない。強いて言うなら環境と巡り合わせということだろう。東雲と出会った時も偶然西園寺と北条が近くにいたからこそ生まれた縁と言っていい。


「そうでしょうか?牛嶋さんもあれだけ懐いていらっしゃるのですし、偶然ということはないかと。その西園寺さんと北条さんも女性の方なのでしょう?それだけの女性と親密になるからにはそういった要素が貴方にあるのだと思いますが」


 そんな要素があったら僕の中高時代はもっと充実したものになっていただろう。クラスにもろくに馴染めなかったやつがそんな手管を持っているわけがないのである。


「私の近くにもそういう方がいらっしゃいますよ?さして目立つタイプの方ではありませんでしたが、あることがきっかけで身近に女性が集まるようになりました」


 瑞希先輩の口ぶりから、札束風呂に入って女を左右に侍らせているパチモン開運グッズの広告味を感じたが、流石にそんなことではなかろうと想像を打ち消して先を促す。


「それは、このお店にひとりの女の子がやってきたことです。その女の子は、明るく、奔放で、のことを困らせるのが大好きな、誰にでも愛される女の子でした」


 瑞希先輩の表情は先ほどと同じ表情をしている。ありし日々を省みるような,額縁の中に飾られた、もう戻ることのない過去を眺めているような。

 うらやましい限りである。僕には振り返って見るほどの過去青春というものがないのだから。

 だから、そんな瑞稀先輩への妬ましさから意地の悪い問いかけが口をついて出る。

 瑞稀先輩は侍る方と侍らせる方、いったいどちらだったのかと。

 僕の問いに瑞稀先輩は目を瞬かせる。


「どちら……、とは?」


 それはもちろん、瑞稀先輩として名も知らぬに侍っていたのか、それとも冷泉先輩として女の子を侍らせていたのかである。


「……え?」


 僕の言葉に先輩はしばし呆然とした後、ようやく小さな声で反応した。

 それなりに突飛なことを言ったつもりだったが、こんな反応が返ってくるなら概ね正解と見て間違い無いだろう。

 身勝手な意趣返しが成功した満足感と、他人の腹を余計に探ってしまった罪悪感を誤魔化すようにパスタをちびちびと腹に収めていく。


「その、どうして……?」


 先輩は、自分の反応で誤魔化しようがないと思ったのか、それとも言うほどバレたくない話題でもなかったのか、僕に理由を問うてくる。

 まあ、どうしてかと言われると確証を得られていたわけではない。先輩の女装は堂に入っていて違和感がまったくないように見える。

 ただ、仮にも飲食店で香水付けてるのは違和感あるなとか、休憩時に裏口が見当たらないスタッフルームを見て、二人の先輩はどこから出入りしたのかと疑問を感じたりとか、そういうところからなんとなく推察しただけなのだ。


「どう考えてもそれが原因ですね……。香水は、時々体臭で違和感を感じる方がいらっしゃってつけているんですが、スタッフルームに関しては迂闊でした……。普段は身内しか入らないものですから」


 僕の言葉に先輩はがっくりと肩を落とす。


「今まで知人友人にはほとんどバレたことがなかったので、単発で一緒に働くぐらいなら問題ないと思っていたのですが……」


 いやあ、それはどうだろうか。人の顔を覚えることすら難儀するような僕の観察眼で違和感を感じるぐらいなのだから、見る人が見ればわかりそうな気がするのだが。東雲なんかはすぐに気がつきそうだし。


「確かに冬実さんにはすぐにバレましたね。けれど、逆に申し上げると彼女ぐらいにしかバレたことはなかったんですよ。バレそうになることはあっても、店の皆でフォローし合ったりして」


 確かに先輩の容姿はぱっと見女性のそれであるが、そこまでバレないとなると周囲の人々の察しの悪さはギャグマンガの登場人物クラスではなかろうか。

 ……と、そこで僕は先輩の発言の中で重大な事項があることに気がついた。

 ──皆でフォロー

 僕の反復により、失言に気がついた先輩はカウンターに肘をついて頭を抱えてしまう。

 ついうっかり漏れ出てしまったのだろうが、気がついてしまった申し訳なさとか気まずさに僕は見ていることしかできない。


「……ええ。このお店の店員は、彼と店長を除いたら皆私と同じですから」


 半ば自棄になったように説明してくれる先輩。同じ、というのは皆女装しているということで合っていると思うが、とんでもない喫茶店である。店の売りにしているわけでも無いようだが、いったいどんな巡り合わせがあればそんなことになるのか……。


「それは、すべての力です」


 彼女というと、先ほど先輩がお話ししていた?


「ええ。彼女がこの店にやってくるまで、ここは半ば道楽で店をやっていた店長と、バイトであるしかいない、ひなびた喫茶店に過ぎなかったそうです。私は彼女に誘われてこのお店で働き始めたので、聞きかじりでしかありませんが」


 なるほど。つまり、女装趣味の冷泉先輩やその他の店員をその彼女が集めたということか。女性向けなはずの制服胸周りに余裕が無い理由も本物の女性がいなかったからだろう。そんなに同好の士がこの近辺に集っていたというのは、世界は広いのか狭いのか……。


「いえ、そうではないのです」


 うなずく僕に、先輩は苦笑しながらかぶり振る。


「私も他の皆も、元はこんな趣味していませんでした。なんというか、皆、彼女に目覚めさせられたのですよ」


 ええ……。そんな無茶苦茶な……。


「まあ、元々私たちに素養があったことは否定できません。誰もが彼女の誘惑に抗うことができず、もう一人の自分にのめり込んでいったのですから」


 やけに実感のこもった先輩の言葉に戦慄を覚える。狙った獲物は全員女装墜ちとか恐すぎだ。

 ……というか、なんかどこかでそんな話を聞いた気がことがある気がするのだが。


「……とにかくそういうわけなのですが、この恰好で働いていることは店長や周囲の同意を得てやっていることですので。ですから、その。あまりこのことは公には……」


 どこだったかなと記憶を辿る前に、恐る恐るといった様子で話しかけてくる先輩に意識を引き戻される。

 はずみで秘密をほじくるような形になってしまったが、このことを知っている東雲が何もしていないのなら誰かに実害があることではないだろうし、別に僕自身も先輩がどんな趣味を持とうが別に困らないのでわざわざ吹聴することもしない。


「そうですか……。ありがとうございます」


 お店に非常に思い入れが深いようであるし、趣味の場が無くなることも恐れていたのだろう。僕から言質を取ったことで、先輩はあからさまにほっとした様子を見せる。

 しかし、そんな何人もハマり込むほど女装という沼は深いものなのだろうか。今朝も東雲と比べられて渋い顔をしていたというのに。


「確かに男として容姿に思うところはありますし、女装をさせられていた当初は羞恥を覚えましたが、慣れてくると楽しいですよ。普段の自分から解放される感覚は得難いものがありますし、かわいいを追求するのも楽しいものです。なんなら、貴方も試してみますか?細身だから体格も誤魔化しやすいですし、肌つやがいいから化粧がよく乗りそうです。それに、営業スマイルは得意でいらっしゃるようですから」


 やりません。

 もう開き直ったのか、カウンターから身を乗り出してにこやかにそんなことをのたまう先輩に対し、僕は一も二も無くお断りする。

 自分が女装する姿なんて恐ろしくて想像もできない。ひと目に触れると考えるだけでも恐ろしいのに、西園寺達に知られたらどんないじられ方をするかわかったもんじゃない。


「皆始めはそう言うんですよ。私もそうでしたし。一回試すだけならいいじゃないですか。目覚めてくれればバイトの補充もできますから万々歳です」


 それはただバイトを増やしたいだけじゃねえか。

 僕と先輩が押し問答をしていると、スタッフルームから出てきた七野ちゃんが何故か慌てたようにこちらに寄ってきた。


「ちょ、ちょっとバイトさん!なんか私たちが着替えている間に瑞希さんとすごい仲良くなってませんか!?」


「ええ、そうなんです。彼に興味が湧きまして。今、ちょうどお店の店員として勧誘していたところなんですよ」


「ええっ!?」


「瑞希ちゃんがあんなにフランクに話してるってことは、色々察した感じかな?」


 先輩と七野ちゃんのやり取りを尻目に、七野ちゃんの後をついてきた東雲が話かけてくる。

 まあ、東雲の言うとおりで間違いない。しかし、着替えるだけでやけに時間がかかったじゃないか。お陰で沼に引きずり込まれるところだった。


「まあ、女同士で色々話すことがあってね。引きずり込まれてもいいじゃない。きっと似合うと思うな。三代さんも君を女装させてコスプレ撮影したいって言ってたし、趣味とお金を両方手に入れるチャンスだよ」


 おいおいおいおいおい。あの人、そんな恐ろしい計画を練ってたのかよ。そんな話を聞いてはなおさらうなずくわけにはいかないので、さっさと退散することにしよう。

 皿に残った冷めたパスタを急いで腹に収めて席を立つ。締め作業と戸締まりは先輩がやってくれるそうなので、後は帰るだけだ。


「改めて、本日は本当にありがとうございました。時々、手伝いに来ていただけるとありがたいです」


 僕の様子に気がついた先輩は、そう言って頭を下げてくる。

 時間さえ合えばヘルプに入るのはやぶさかではない。おいしいまかないも出てくることだし。

 女装させられるのは勘弁であるが。


「ふふっ。その時は、是非お願いします。腕によりをかけて美味しいまかないをご用意しますから」


 先輩に会釈をして三人で店を出ると、七野ちゃんがなにやら主張し始める。


「バイトさんバイトさん!私も料理は得意なんですよ!和食とかいけます!煮物とか作りに行きましょうか!?」


 八重さんを養っている七野ちゃんが料理上手なのは知っているが、何故に今それを?しかしまあ、煮物とかいいな。自分じゃそこまで手の込んだものを作らないので最近はご無沙汰だ。


「それに、酒のつまみになりそうだよね。七野ちゃんの手作りなら春香は大喜びで平らげると思うよ」


 たしかに。


「東雲さん!?」


 話が違うとかどうとか騒ぎ始める七野ちゃんとそれをからかう東雲を余所に、僕は振り返って喫茶店を見る。

 遠目であるが、ブラインドの隙間から漏れる明かりが見えるので、まだ先輩は作業をしているのだろう。

 バイトの身でありながらご苦労なことであるが、本人は楽しんでやっているようであったし苦にもしていないか。

 まったくうらやましい話だ。あの喫茶店でどんなハチャメチャがあったか僕には知るよしも無いが、先輩の様子を見るに面白おかしい日々を送っていたのだろう。灰色の青春を送ってきた僕とは大違いだ。



「バイトさん!肉じゃがとかいかがですか!?味はおばあちゃんのお墨付きですよ!」


「うんうん。日本酒とよく合いそうだね」


「もおおおお!」


 声を受けて前を向くと、いつの間にか二人と距離が離れていたらしい。

 しかし、肉じゃがもいいな。食材を提供してお願いしたら自慢の料理を振る舞ってくれるだろうか。

 その時は、どうせ呼ばなくても三人ばかり参加者が増えるだろうから、八重さんや九子さんにも声をかけてぱあっとやるのもいいかもしれない。

 その案がとても良いものに思えた僕は、七野ちゃんにお願いすべく立ち止まって騒いでいる二人の元に歩み寄った。

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