【web版】依存したがる彼女は僕の部屋に入り浸る(旧依存症な彼女たち)
萬屋久兵衛
アル中女と交友断絶男
所属する文芸サークルの新垣先輩に誘われて、飲み会に飛び入り参加した。
共に田舎から上京してきた幼なじみの恋人を、イケメン早慶ボーイに寝取られた佐川君を慰める会、という趣旨である。
……僕や佐川君が大学に入って二ヶ月も経っていないはずなのだが、恐ろしい早さだ。
「けど、仕方ないじゃん!彼女のとなりで土下座までされたらごねられないじゃん!」
そう嘆きながらグラスの中の酒を浴びるように飲む佐川君。そんな彼に集まった面々が慰めの言葉をかけ、彼の隣に座った女の子が空いたグラスにすぐさま酒を注ぎ入れる。
僕は彼らの言葉に同調するように適当にうなずきつつ、隅っこのほうでちびちびとグラスに入ったビールに口をつけていた。
ビールが苦手なお子ちゃま舌なので、こっそりコーラで割ってディーゼルにして飲んでいるのだが、ビールの苦みを完全には打ち消してくれないのでなかなか中身が片付かない。
大学に入ってからというもの、お酒を口にする機会は何度かあった。基本的に好きとも嫌いとも思わないが、ビールの味だけはだめだ。苦みが口に残るのも不快であるし、のどごしを楽しめと言われても、さっぱり理解できない。
次からはビールは絶対に飲まないと心に誓いつつ、そんな心情を表に出さないようにしながら周囲にだる絡みし始めた佐川君を眺めていると、新垣先輩がやってきて僕のとなりに座った。
「よう、やってるか?」
ええまあ、ぼちぼち。
「そうかそうか。今日はありがとうな、急な話なのに来てもらって」
それに関しては問題ない。どうせ家に帰って図書館で借りた本を読むぐらいの、予定ともいえないような予定しかなかったのだ。
むしろ、サークルに入ったくせに部員との交流もほとんどしていない半幽霊部員の僕にわざわざ声をかけてもらって申し訳ない。というよりも、会の趣旨を考えると佐川君とたいして仲が良いわけではない僕がこの場にいても役には立たないんじゃないだろうか。
「ああ、そういうのは気にしないでいいさ。お前に来てもらったのは佐川のためじゃなくて俺がお前と飲んでみたかっただけだから」
そう言ってにやりと笑う新垣先輩が差し出したグラスに、僕は自分のグラスを打ち付けた。乾杯とは杯を乾かす、という。ある意味ちょうどいいきっかけだ。僕は覚悟を決めて残りのディーゼルを飲みきった。
「おいおい、無理して飲むなよ。先輩に強要されてアルコール中毒なんて不祥事起こしたくないぞ俺は」
心配ご無用だ。ビールの味が好かないだけでお酒に弱いわけではないのだ、僕は。しかし、新垣先輩に心配をかけるわけにはいかないので、先輩が差し出してきた水はありがたく頂戴することにする。
新垣先輩はサークル内でも人格者で名が通っているお人である。実際僕のような日陰者にも声をかけて、あまつさえ交流を持とうとしてくれるのだから名ばかりではないのだろう。
しかも実家が開業医だとかで、今日の会場にもなっている先輩の住むマンションの一室は、一人暮らしには大袈裟すぎるほどの広さだし、本日の酒やつまみもすべて先輩のポケットマネーから出ているらしい。そういうことができるめぐまれた地位を鼻にかけることもなく、またおおらかな人柄と見た目の恰幅の良さからサークル内外で大御所と呼ばれ慕われている。
本日の突発的な飲み会に十数人もの人を集められたのも、新垣先輩の人徳のなせる技だろう。
「どうだ?大学には慣れたか?」
どうだろうか。会話のとっかかりのような、ありきたりな問いにしばし黙考する。愛知の片田舎から一人首都圏に出てきて、ようやく一人暮らしに慣れてきたというところだ。学業については、講義はまじめに出席しているが、興味深く面白い講義もあれば、教授の言葉が眠りを誘い受けているだけで苦行となるような講義もある。課題が多い講義もあるがそれも無難にこなしていると言っていいだろう。
ようするに、普通ということだ。
「ははは、普通か。講義は真面目に出ているようで感心感心」
僕の言葉を聞いて先輩は愉快そうに笑う。
「けど、大学生活ってのは学業だけじゃないだろ?四年しかないモラトリアムだからな。先輩としては後輩に楽しく過ごしてもらいたいのよ。だからこうして酒の席に誘ったわけ。飲みニケーションなんて時代じゃないとか言われそうだけど、酒を飲む飲まないは自由だしその場にいてこうやって話をするのが大切だと俺は思うね。ま、飲めた方が馴染みやすいのは確かだけどな。そういう意味じゃ、お前がいける口でよかったよ」
先輩の言葉に、僕は自分が誘われた理由に今更ながら気がついた。
どうやら僕の交友関係が希薄なことを新垣先輩は気にかけてくれているらしい。
ともすれば余計なお節介ともとれる先輩の好意だが、僕自身にそんな反発心はなく、わざわざ僕の事まで気をつかってもらって申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
昔からそうなのだが、僕は友達を作るのが大の苦手で、無二の友と呼べる相手はひとりもいない。ぼっちになるほど孤立していた訳ではないが、誰にとっても友人の中のひとりといった程度で、学校やクラスが分かれてしまえばそれで縁の切れてしまうような、そんな関係しか築くことができなかった。
結果、クラスという集合単位のない大学に入ってしまえば大多数の一にもなれなかった。
これではいけないとこの文芸サークルに入部してはみたものの、特に話ができる相手ができるでもなく現在に至るのである。
言わば、現状は自業自得でしかない。
「しっかし、今日はみんなペース早いな。やっぱり綺麗どころがいるからかね」
曖昧に笑ってごまかす僕の様子を見て、さっと話題を切り替える新垣先輩。こういうところは僕にはとても真似できないなと思いつつをテーブルの方を見ると、空いた缶や酒瓶の数が先ほどまでよりも明らかに増えている。
こういった飲み会はサークルの新歓以来だったが、そのときと比べてもいささか以上に酒量が多い気がする。
先輩の言う綺麗どころとは、佐川君の隣でお酌をしている彼女のことだろう。
腰のあたりまで伸びた艶やかな黒髪に、垂れ目で柔和な可愛らしい顔立ち。フリル付きのフレアスカートが良く似合う。清楚ながらノースリーブのシャツから除く白く細い腕がまぶしい、感性に乏しい僕でも美人だと思う女性だった。
これで眼鏡でもかけていれば、どこに出しても文句なしの文学美少女だっただろう。
名前は……。ええと、西行寺さんだったか。
「西園寺が来てくれて助かったよ。荒れるのが目に見えてるだけに他の女子には頼み辛いからな」
おしい。口に出す前に答えを聞けてよかった。
しかし、他の女子はダメで西園寺さんだけ良いというのはどういうことだろう。
「西園寺は新歓で、アタックした男どもをまとめて酔い潰したほどの酒豪だからな。今日みたいな飲み会にはうってつけだ」
なるほど。サークルの女性陣にも西園寺さん自身にも聞かせられないが、ぶっちゃけ見目の良さだけで選ばれたのだと思っていた。
一見、箸より重いものは持ち上げられません、と言い出してもおかしくなさそうに見えるおしとやかな雰囲気で微笑んでいる彼女だが、確かに他人の空いたグラスには容赦なく酒を注ぎ、返杯を涼しい顔で消化している。
人は見た目ではないんだなと感心しながら、その辺においてあった酒瓶の中身を新垣先輩と分け合い、無双する彼女を肴に乾杯する。
テーブルを囲む男性陣はもう佐川君をなぐさめるようなそぶりも見せず、積極的に西園寺さんに話しかけつつ杯を乾かしている。というか、佐川君もその中に混じって熱心に彼女に話しかけていた。
……まあ、彼が失恋を乗り越えて次の恋を見つけたのなら本日の席は成功しているということだろう。
高みの見物を決め込んでいる僕と新垣先輩に他数名が見守る中、彼らは奮闘していたが、ひとり、またひとりと沈んでいき、もしくは先を争うようにトイレに駆け込んでいく。
明らかに無理をしようとしている人は新垣先輩がめざとく見つけてストップをかけた。
西園寺さんがこの屍の山の頂点に立つ姿を拝みたくはあったが、途中、主賓の佐川君がテーブルに突っ伏していびきを掻き始めたのを見て、僕は新垣先輩に暇を告げた。
「お、もう帰るのか?まあ、佐川も潰れちまったしお開きみたいなもんか。今日は来てくれてありがとな。片付け?いいよ気にすんな。どうせこの後も生き残ったやつで飲み直すから」
引き止めの言葉もなく、ひらひらと手を振る新垣先輩に心から礼を言って席を立つ。大して飲んでいるわけではないのでふらつくこともなく部屋を出ることができた。
時刻は深夜というにはまだ早い時間帯。日中は半袖でも過ごせるぐらいの陽気であったのに、この時間になるとマンションの廊下に吹き込む風はまだまだ冷たかった。しかし、酒精でほてった身体にはそれが心地よい。
エレベーターを待ちながら(エレベーターがあるというだけでこのマンションの家賃は推して知るべしである)考えてしまうのは、先ほどまでいた飲み会のことだ。
楽しかったな、とか、誘ってくれてうれしかったな、とか、そういったことを考えているのではない。
頭をよぎるのは、何かへまをしなかったかとか、周囲を不快にさせる言動をしなかったかとか、そういう心配事ばかりだ。色々と気にし過ぎだとは思う。
しかし、これは昔からの性分だ。今さらどうしようもない。
だが、それだけの理由で飲み会を辞したわけではない。
結局のところ、これ以上遅くまで居残って新垣先輩やサークルの人と飲んで語らうことがめんどくさくなったのだ。
愛想笑いを浮かべながら、ありきたりな話題で相手のことを探って、共通点を見い出し仲を深める。そんな作業に時間を使うことの苦痛に耐えられなくて、佐川君が潰れたのを言い訳にして逃げてきたのである。
ああ、今僕は、過去の自分と同じ道を辿っている。
大学生活も、今までと同じく寂しく過ごすことになりそうだと内心自嘲しつつ、エレベーターに乗り込む。
──と、そこで。
一階のボタンを押して、扉が閉まる直前。
ぱたぱたと小走りで廊下をかける音を聞いて、僕は咄嗟にボタンを押してエレベーターの扉を開いてから、顔をしかめた。このタイミングならマンションの住人ではなく、飲み会の参加者である可能性が高いだろう。
足音はひとつ。つまり、足音の人物が飲み会参加者だった場合、一対一でその人とエレベーターを降りて、場合によっては一緒に帰らなければならないのだ。
少人数で話すことも拒否して逃げてきた僕には苦行すぎる展開である。
気がつかなかったフリをしてエレベーターを閉めてしまえばよかったとか、どうやって帰りの道中をやり過ごそうかとか考えているうちに、その人物がエレベーターに飛び込んできた。
「ありがとう。良いタイミングだよ」
そう言って、西園寺さんはにこりと笑った。
予想外の人物に僕は一瞬言葉を失った。いやまあ、彼女がそのまま泊まり込むとは思わなかったけれど、今この時、毒にも薬にもならなそうな男ひとりと同じタイミングで出てくるとは予想しなかった。
しかし、良いタイミングとは?
「ああ、新垣先輩から頼まれた
いやぁ、助かったとにこにこしている西園寺さん。
僕は先ほどの飲み会ではもっと丁寧な言葉遣いをしていた気がするけど、その時とは違う砕けた言葉遣いをする西園寺さんのイメージと実像の差に戸惑った。
その容姿から箱入りの大和撫子みたいな性格を想像していたのだが、しゃべり口調はハキハキとしていてお淑やかさは微塵も見当たらない。
あれだけの酒を飲んでいたのにふらつくことなく平然としているのもある意味恐ろしい。
というかボク、という一人称を使う同年代の女子を初めて見た。まあ対人関係の、特に女性との関係が希薄な僕の知る中だけのことなので、実際にはそれなりにいるのかもしれないけれど。
「ま、そういう訳だから駅まで送ってくれたまえよ。新垣先輩に聞いたけど、君の家は駅の向こうなんだろ?帰宅ついでということでよろしく」
新垣先輩め、余計なことを。これで家が別方向だからという言い訳ができなくなった。
まあ仕方ない。あまり変な言い訳をして、こいつボクといたくないんだなと思われるのも困る。好きの反対は無関心で、嫌いは相手に関心があることだと言うが、僕はどちらかと言えば人に無関心でいられたいのだ。
それが一番疲れずにすむ。
そう言うわけで西園寺さんと二人、並んで歩き始めたのだが、いかんせん話題がない。
他人といる時に沈黙が続くのは精神的に辛いので、当たり障りのない話題を振ることにする。さしあたっては、彼女のカバンからはみ出る縦長の箱とか。
「ああ、これかい?これは今日のバイト代さ。季節限定の日本酒で、けっこうレアなんだぜ。定価で諭吉先生が一人消えていくやつだ」
なんと。
新垣先輩、人ひとり呼ぶためだけにわざわざそんなものまで用意するとは。先輩の人徳のなせる技というか、後輩思いが強すぎるというか。
「いいや、あの人の場合は今日の彼……えっと、まあ主賓のためだけじゃないと思うよ。彼を喜ばすためということもあるだろうけど、同時にボクの関心を得るためでもあるだろうね」
ふうん。そうすると、新垣先輩も西園寺さんにお熱だってことか。今日の先輩を見ているとそんな雰囲気はなさそうだったが、日陰者には難しい機微である。
「そういうのとも違うね、あれは。先輩は女としてのボクには興味なさそうだ。ただ文字通りの意味で仲良くしたいだけだと思うよ。ボクに対しても君に対しても、本当のところそれだけが理由なんじゃないかと思うね」
なにやらもってまわった、意味深な口ぶりをする西園寺さん。新垣先輩の純粋な好意が、なにか裏がありそうな感じに思えてきたじゃないか。
しかしそうすると、西園寺さんはともかくわざわざ僕と仲良くする理由はなんだろうか。自慢じゃないが毒にも薬にもなれないぼっちな僕である。親しくして得るものは特にない。それでも手を差し伸べてくれるのは、サークルの先輩としての義務感か、もしくは憐れみか。
「そこまでいくとさすがにうがち過ぎだよ。まあまあ、理由なんてどうでもいいじゃないか。先輩には先輩の考えがあるんだろうよ。ボクにとってはありがたいお誘いだったし、君も迷惑とは思わなかっただろう?」
その通りではある。好意を持って誘ってくれた事に間違いはないだろうし、そもそも他人の事なぞてんでわからない僕が詮索なんてしてもしょうがない。
しかし、西園寺さんも酒につられて飲み会に参加するとはよほど酒好きなんだな。今日もたくさん飲んでいたみたいだし。若者でお酒が飲めない飲まないな人が増えているというけど、このまま行けば西園寺さんは将来有望な酒飲みになるだろう。なにしろ僕らはまだみせ――。
「おっとそれ以上はいけない。この物語に登場する大学生は皆成人しているからお酒もたばこもエッチなシーンも問題なしだ。いいね?」
あ、はい。
お約束口上と素早く差し出された手によって台詞を遮られた僕はがくがくと首を振ることで了承の意を示す。
訂正しよう。これだけ飲める学生がいるなら酒造業界も明るい。
僕の言葉に満足した様子で西園寺さんは手を引いた。
「よろしい。……まあ、人より酒量が多いのは間違いないし、お酒が好きなことも否定はしないさ。むしろはっきりと愛していると言えるね。ビールが喉を通るときの爽快感とか、日本酒を口に含んだときに広がる旨味だとか、ウィスキーの薫るような味わいだとか。そういったものを楽しんだ後にやってくる酩酊感だとか。こんなお酒がうまいとは思いもしなかったよ」
今では毎日晩酌の日々さ、と笑う彼女はとても楽しそうで、本当の本当にかけねなく、酒をこよなく愛しているのだろうと感じた。
……これは有望どころではなく、彼女が死ぬときは間違いなく酒が原因だろう。もはや酒豪どころか酒クズの域かもしれない。
ふむ、しかし。彼女がそれほどまで語る酒とはそんなに旨いものなのだろうか。僕とて先ほどまで同じ飲み会で酒を飲んでいたし、過去に何度も飲酒は経験している。だが、旨いと思って飲んだことは一度もなかった。
これまでの実績から、自分が決して酒に弱いわけではないことは確認している。だがそれだけだ。旨いと思って飲んだこともないし、楽しんで飲んだこともない。ビールはそもそも味が苦手だし、一番おいしいと思ったコーラサワーはアルコールを入れない方が好きだと思っている。
だから周囲の人たちも我慢しながら飲んでいるんだろうなと思っていたのだが、西園寺さんの様子をみるにそれだけではないらしい。
やはり、量を飲むか、質のいいものを飲むでもしないと酒の味わいというものはわからないのだろうか。
そうしてなんとなしに西園寺さんのバッグからはみ出る箱を眺めていたのだが、彼女はそれを見て何か勘違いしたらしく、僕から箱をかばうようにバッグを遠ざける。
「お、君もこれが欲しいのかい?申し訳ないけど、あげるわけにはいかないな。これを手に入れるためにわざわざ接待まがいの飲み会に参加したんだから」
接待とはひどい話である。実際そう言っても過言ではなかったかもしれないけれど。
別に人の酒を奪うなんてことするつもりはない。高い酒ならば味もいいのかと考えていただけだ。
「ふうん。つまり、旨い酒に興味があるということだね。うんうん、大変結構なことだ」
何やら仲間を見つけたような目でこちらを見てくる西園寺さん。ちょっと興味を示したぐらいで肩を組んでこないで欲しい。
まあ、確かに。良い酒を旨いと僕が思えるのなら、無味乾燥な人生もちょっとは彩りがでるのではと思わなくもないけれど。
「よし、わかった。そこまで言うなら特別に君にもこの酒を分けてあげようじゃないか。駅前のスーパーでつまみを買って、君の家で二次会と洒落込もう」
いやいやいや、ちょっと待って欲しい。
旨い酒が飲んでみたいとは言ったが、そこまでしろとは言っていない。
「まあまあ、せっかくの機会なんだから何事も挑戦してみないと。それに、かわいい女の子とサシ飲みできる機会なんて滅多にないぜ?」
難色を示す僕のことなど意に介さず、酒を飲む機会を得て軽やかに歩みを進める西園寺さん。慌てておいかけた僕の翻意を促す言葉はすべて聞き流された。
結局、買い込んだつまみを処理しないわけにはいかず、渋々彼女を我が家へ案内した。
*
「へえ、いいところに住んでるじゃないか。角部屋なのも素晴らしいね。それによく片付いてる」
明かりのついた部屋をぐるりと見回し、西園寺さんは感嘆の声を上げた。
部屋が片付いていて助かった。誰かを招く予定は一ミリもなかったのだが、なにせ暇な時間が多いので家事の時間にはことかかない。
自慢するには悲しい事実なので、西園寺さんには言わないけれど。
「さて、早速始めようじゃないか。いやあ、実は家だと家族の目があるからおおっぴらに飲めなくてね。最初のうちは父も娘と一緒に飲めて嬉しそうにしていたのに、まったく。自分達が酒の味を教えたくせに、最近は飲み始めたら止めようとするんだからひどい話さ」
おそらく家でも浴びるように酒を飲んでいるのだろう。そりゃあ大事な娘が大酒飲みになったらそうなる。やっぱり酒クズで間違いあるまい。
というか、本当にまた飲み始めるつもりだろうか、彼女は。
「なにを今更。もう準備万端で後は飲み始めるだけなんだから、満足するまで帰る気はないよ、ボクは」
せっせとテーブルの上に酒とつまみを並べ始めている西園寺さんを見つつ、僕はため息をついた。
こちとらこう見えても男の子で、ここは僕の家だ。酔った西園寺さんをどうこうするとは思わないのだろうか。ここまで無防備でいられると僕としても思うところがある。
脅すように僕は西園寺さんに問うた。これで彼女が我に返るなり、僕に失望するなりして帰ってくれたら万々歳であったのだが――。
「別にかまわないよ。襲えるなら襲ってくればいい。さすがに男子相手に抵抗しても逃げられないだろうし、なんなら今すぐ押し倒されてもヤられる自信があるね」
西園寺さんは、平然とそんなことを言った。
あんまりな言葉に二の句が継げない僕を見て、彼女は僕の顔をのぞき込むようにしながら不敵に笑う。
「といっても君、ボクをどうこうするつもりはないだろ?新垣先輩は女としてのボクに興味はなかったけど、君はボク自身にかけらも興味がない。自慢じゃないけどボクはこういう見た目だからね。人の視線には人一倍敏感なんだ。君の視線は、邪な気持ちどころかボクを人と見てるかも怪しいね」
……そんなこと、わからないじゃないか。西園寺さんから僕がどう見えているかは知らないけれど、年頃の男の性欲をなめちゃいけない。西園寺さんに気がつかれないようにねっとり視姦してるむっつりかもしれないだろう。
「や、そんな自分を貶めてムキになってまで否定することはないと思うけど……。けっこう自信あるんだけどね。なんなら、処女を賭けてもいいよ。……いつか言ってみたい台詞だったけどこんなにぴったりな状況で言えるとは思わなかったな」
……この女、まともじゃない。朗らかに語る西園寺を僕は薄ら寒いものを見るように見つめた。なにがどう見えているのか知らないが、今日初めて会話した男の見立てに貞操をかける馬鹿がどこにいるのか。実はただの阿婆擦れかもしれないが、それでもやばいやつには違いない。
いっそ確かめるために押し倒してやろうか。西園寺の容姿は文句なしであるし、身体の方も大変女性らしいシルエットをしている。
――だが、止めた。一時の感情に流されて過ちを犯すのは馬鹿だ。
暗い先行きしか見えない選択肢を採るほど頭の出来はよろしくない僕は、諦めてキッチンからグラスをふたつ取ってくるとテーブルに置いた。西園寺はそれを見て満足そうに、そして嫌らしく笑う。
「やっぱりボクの見立て通りみたいだね。さあ、そんな渋い顔をしてないで君も座って、乾杯しようじゃないか。せっかくの良い酒なんだ、辛気くさい雰囲気じゃ飲みたくない」
こうなっては仕方がない。この女の口車に乗って旨い酒というものを堪能するとしよう。
「では、そうだな……。新たな飲兵衛の門出を祝して」
飲兵衛にはならない。……酒クズ女の前途を祈願して。
乾杯。
*
……うぐぅ。
僕は窓から差し込む日差しのまぶしさに目を覚ました。
まだ開けきれないまぶたの隙間から見えるのは最近ようやく慣れてきた、我がアパートの天井だ。
何故かいつベッドに入ったか思い出せないし、これも何故だか頭痛がして思考がうまくまとまらない。そして何故だか少し息苦しさを感じる。なんていうかこう、外側から喉もとを圧迫されているような感じ。
取り急ぎ息苦しさを解消するために喉もとを探ると、細長い何かが頸部を横断するように伸びている。
未だ思考が定まらないままに、邪魔な物をどけようとそれを掴んで持ち上げた。
それは、白く細い人の腕だった。
……はて。
僕の腕はふたつ。左手はこの腕を掴んで持ち上げている。
では右腕かと感覚で所在を確かめるが、ちゃんと布団の中に収まっていた。というか、これが僕の腕だったら自分の腕で首を圧迫して、それを反対の手でどかしていることになりあまりにも間抜けすぎる。
しかし、そうするとこれはだれの腕だろう。
僕は視線で掴んだ腕の根元の方に辿っていく。腕の先にあるのは白いノースリーブのシャツ。少々はだけた布団から見える胸元はボタンが外れていてその隙間からは肌色の膨らみが覗いていて、浅く上下していた。最後にこの人物の顔を見ると、西園寺だった。西園寺はこんな状況あずかり知らぬとばかりにすやすやと気持ちよさそうな寝息を立てている。
……、……、……。
僕はつかんでいた腕をゆっくり脇にどかすと、寝転がった姿勢のまま目線を天井に向けた。 それらの動作は、隣人を刺激せぬよう細心の注意をもって行われたが、寝起きで緩慢だった脳内は急速に活動を開始し、全力で昨夜の記憶を掘り起こしていた。
昨日、西園寺と部屋でサシ飲みをしたのは覚えている。本日の報酬である日本酒を味わいながらとりとめない話をしていたのだが、このお酒がまあ美味で、二人でするすると空けてしまったのだ。
気がついたときにはもう西園寺の終電はなくなっており、どうせならこのまま飲み明かすと西園寺がだだをこね始めたので、仕方なく近くのコンビニで酒を買い足して再度飲み始めた。
僕も西園寺も追加の缶チューハイを数本空けたあたりですでに正体がなくなってきており、会話の内容もなんというか、思い出すのもはばかられるような品のないものに移り変わっていった気がする。
意識が飛ぶ前にかろうじてベッドに入り込んだのだろうが、なぜ西園寺がベッドに侵入してきたのかは分からない。
お互い衣服は身につけているようなので一線を越えるような事態にはならなかっただろう。たぶん、おそらく……。
とにかく今は同衾してしまっているこの状況から逃れることだ。僕は重い身体をなんとか起こすと、西園寺が目を覚さぬよう慎重に掛け布団から身体を抜きとる。
さてここからが問題だ。僕は壁側で寝ていたので、ベッドから出るには西園寺を跨いでいかなければならない。
うっかり西園寺に触れたり起こしたりすることがなきよう細心の注意をもって行動を開始する。
右手右足を西園寺の向こう側へ。身体を持ち上げ西園寺の上へ。西園寺を組み敷いているように見えなくもない構図だ。
そこで西園寺と目が合った。
……、……、……おはよう。
「ああ……。おはよう……。今襲われると、君が出すもの出す前に、ボクの口から出ちゃいけないものが飛び出すかもしれないから勘弁してくれないか……?」
……襲うつもりも出すつもりも一切ない。
西園寺の言葉をしっかりと否定して、彼女の上から速やかに退きベッドを脱出する。
西園寺はのろのろと上体を起こすと頭を抱えてうめいた。
「すまない、水をもらえるだろうか……」
僕は空き缶やつまみの空袋が散乱した居間を横断し、西園寺の分と自分の分、ふたつの新しいグラスにミネラルウォーターを注いで片方を自分で飲みつつ、もう片方を西園寺に渡した。
西園寺はそれを受け取ると、ぐいっと一息に飲み干す。
「……ふう。ありがとう。流石に昨日は飲みすぎたね……。酒の酔いを翌日に持ち越すなんて初めてだ」
そりゃああれだけ飲んで平気な顔をされたらたまらない。僕だって付き合わされたせいで体調はぼろぼろなのだ。
ていうか、あんなペースで酒を飲むくせに今までは二日酔いにもなったことなかったのか。
「こうみえて節度をわきまえられるんだよ、ボクは。まあ、最後の方はちょっと記憶が怪しいけど……。右乳首と左乳首どちらの感度がいいのか論を交わしたところまでは記憶があるんだが。……ところで」
やめろ、しょうもないところを覚えているんじゃあない。ところでなんだ。
「今気がついたんだが、酔って色々脱ぎ散らかしたみたいだ。その辺にブラとスカートが落ちてないかな」
………………。
捜索の結果、それらは何故かテーブルの下で丁寧に畳んで置かれていたのである。
「いやあ、シャワーだけじゃなく朝食までいただいて悪いね。お礼と言ってはなんだけど、ボクが履いてたパンツは洗う前に使ってくれていいから」
使うってなんだ使うって。
インスタント味噌汁を啜って、多少持ち直しつつもいまだ気だるげな西園寺から放たれた言葉に、僕は顔をしかめた。
講義には多少の余裕があったのでゆっくりと酔い覚ましの時間を取ることができるのがありがたい。今日が二限からでよかった。自分の選択で生活スタイルを決められるのが大学生の特権である。
西園寺も今日は二限かららしく、一緒に出ればいいと我が物顔でうちに居座っている。西園寺は脱ぎ捨てていたスカートやブラはそのまま身につけたが、Tシャツや下着パンツは勝手に洗濯機に放り込んで代わりに僕のものを使っている。昨日話すようになったばかりの相手にここまで提供させるとは厚顔無恥なやつだ。
シャツはともかく、パンツを貸すことには難色を示したのだが、
「ブラはともかく、パンツを変えないのは嫌だ。いいじゃないか貸してくれたって。別に君は大して困らないだろう?それにボクにノーパンで大学に行けって言うのかい?」
と、謎の論理を展開してきた。
勝手に行けや、と切って捨てる言葉が口をついて出そうになったが、ただでさえ二日酔いで体調が悪いのに余計な押し問答で体力を消耗したくなかったので、渋々貸してやったのである。
まったく、ひどい目にあったものだ。今日の講義に出るのが億劫でしょうがない。
「そうはいうが、これは酒を楽しむための致し方ない犠牲ってやつだよ。それに、君だってなんだかんだ楽しんでいたじゃないか」
そりゃあ、まったくもってつまらなかったかと言えば嘘になる。あまり口が達者とは言えない僕の口が面白いように滑らかになり、まったく喋ったことのない女と、一晩馬鹿話を繰り広げたのだから。
そう考えると、お酒というものはまあ悪いものでもないだろう。
……まあ、これも酒の魔力と言っておこう。
「そうだろうそうだろう。酒を飲むのは時間の無駄、酒を飲まないのは人生の無駄だって言うだろう?」
聞いたことない。誰が言ったんだよそんなこと。
「さあ?」
西園寺は、肩をすくめてから時計を見た。
「さて、今に限っては面倒だが仕方がない。そろそろ出ないと二限の講義に間に合わないな。日本文学研究の講義は出席が厳しいんだ」
……ん?それは僕も取っている講義だ。
出席数の多い講義だから同じ講義に出ていることに気がつかなかった。文芸サークルなんて入るぐらいだから学部は同じだろうとは思っていたのだけれど。
何気なくこぼれた僕の言葉を聞いて、西園寺は嫌らしい笑みを浮かべた。
「君もか。……つまり、来週も前日の夜からここに泊まり込めば深酒しても寝坊しないですむってわけだ。それは素晴らしいな。来週も気兼ねなく飲めるってもんだよ」
おい。
この女、またこんなことをやらかすつもりらしい。しかも当然のように他人様の家で!
「まあ、まあ。その辺の話はまたにしようじゃないか。ほら、そろそろ出ないと講義に遅れてしまうよ。食器ぐらいはボクが洗おう」
西園寺は僕の抗議を適当に流すと、空いた食器を片付け始める。この件ははっきりとさせておきたいところだが、時間がないのも事実だ。僕は歯がみしつつも家を出る準備を始める。 こんな乱痴気騒ぎ、一ヶ月に一度、いや、二週間に一度で十分だ。
なんだかんだと押しかけてきて、僕の生活をおびやかしそうな女を止める手立てを考えるため、僕は未だ酔いが苛む頭痛をおして頭を働かせ始めた。
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