第92話 『 幻想と現実 』

 俺は今日、疎遠になっていた幼馴染と水族館にデートをしに来ている。

 いや、デートというには少々名ばかりが過ぎるか。男女二人で行くからデートの定義に当てはまるといえば当てはまる気もしなくもないが、実際の俺たちは恋人でもなければ仲良し幼馴染という訳でもない。

 ならば、今日のこれはただのお出掛け。あるいは親睦会と呼ぶのが妥当ではないだろうか。

 そんなことを真顔で考え込みながらふと横を見れば、魚が漂う水槽を幼馴染は一枚の絵画でも見るかのような眼で見つめていた。

 その表情には儚さと美しさが混在していて、一瞥するつもりが思わず凝視してしまった。


「……どうかした?」


 俺の視線に気づいた幼馴染――琉莉が怪訝に眉をしかめながら振り向く。

 俺はハッと我に返り、


「いや、なんでもない。ちょっと見惚れてただけ」

「そう。海斗も好きなんだ。魚」

「……あぁ」


 魚じゃなくてお前に見惚れてたんだよ、とは口が裂けても言えず、俺はぎこちなく頷く。

 やはり、琉莉は可愛い。加えて美人だ。間近で見て、改めて俺の幼馴染は浮世離れした人物なんだと理解させられる。

 長いまつげにつんと立った鼻梁。淡い桜色の小さな唇。凛とした顔立ちにはまだ幼さが残っていながらも、儚げな表情が絶妙なバランスで彼女の美貌を際立たせている。

 特に目を惹かれるのがこの水族館の青よりも深く、そして美しい紺碧の瞳だった。いつも退屈そうに世界を眺める紺碧の瞳は、今日はいつもよりだが少しだけ楽しんでいるように見えた。


 でも、それもきっと俺の憶測でしかないんだろうな。


 紺碧の瞳はいつだって、その瞳の奥に隠した真意を教えてはくれない。

 俺には、一ミリだって見せてはくれない。


「あ、下見てよ海斗。ヒラメが砂に隠れてる」

「どれどれ。あ、ホントだ。よく見つけられたな」

「ふふん。私のこの鋭い目からは何人たりとも逃れられないのさ」

「中二病みたいなこと言うな」

「サメのエサにするよ」

「怖いこと言うなよ。……目がマジだ⁉」


 ぷくぅ、と頬を膨らませて抗議するのは可愛いけど、目に殺意が灯っていたので血の気の方が引いた。

 それから琉莉は呆れた風に嘆息したあと、再び視線を水槽へ移した。

 そんな琉莉に、俺も水槽を眺めながら訊ねる。


「……今日、楽しいか?」

「そうだね。存外、悪くはないかな。日差しの下に引っ張り出されるのは今日限りで御免だけど、この一回は思い出に相応しいものだよ」


 琉莉は水槽に注いでいた視線を俺に向けながらそう言ってくれた。

 たぶん、「ありがとう」と言ってるんだと思う。相変わらず、琉莉の言葉遣いは複雑で、バカな俺には分かりづらい。

 それでも、琉莉がそう思ってくれているだけで俺は満足だった。


「そっか。琉莉が満足してくれてんなら、俺も外に引っ張りだした甲斐があるってもんだわ」

「何様のつもりさ。念の為忠告しておくけど、海斗と出かけるのは本当に今日限りだからね。後は家で優雅に読書に耽りたい」

「本当に高校生かよ」

「これでも十五歳だよ。海斗と同い年。でも海斗より大人だ」

「うっせ。そんなこと言ってるうちはまだ子どもだっつーの」


 べー、と舌を出せば、琉莉は「子どもじゃなくてガキだね」と盛大に呆れた。


「……ふはっ」

「ふふっ」


 それからお互い、この会話の馬鹿さ加減に堪え切れずに拭いてしまった。

 きっと、琉莉とこうして夏休みにどこか出かけられるのは、本当に言葉通り今日限りなんだろう。

 それでも、今日確かに、心の距離は少しだけ縮まった気が――


「――うわっ」

「おっと」


 お互いに笑い合っていると、突然琉莉が通りかかった他のお客さんとぶつかった。

 足がよろけて倒れ込む琉莉を、俺は咄嗟に抱きしめる。


「……あっぶねー。大丈夫か、琉莉?」

「うん」

「あのカップルどもめ。ぶつかっておいて謝罪もなしかよ」


 文句言ってやろうかと思ったが、琉莉に「止めて」と服を引っ張られる。


「想定外のハプニングにちょっと驚いただけで、怪我してないから大丈夫だよ」

「でも心に傷は負ったかもしれないでしょうが」

「その過保護っぷりは帆織くんだけじゃなく私にまで反映されてるんだ。本当に大丈夫だから」


 そう言って、琉莉は俺から離れていく。俺はまだ不服ではあるが、琉莉がこう言う以上その感情は飲み込むしかない。


「(……というか俺、冷静になって思い出してみれば、今、琉莉のこと抱きしめなかったか⁉)」


 頭に上った血が徐々に下がり始めていくと、先程の一瞬を鮮明に思い出していく。

 華奢な体と女性特有の柔らかな感触。不意に鼻孔に届いたシャンプーの甘い香りが、今更になって冷めた頭を再び熱くさせた。


「あー、その悪い。急に抱きしめて。嫌だったよな」


 付き合ってもないのに抱きしめるとか普通にキモイ。

 罵倒覚悟で謝罪した俺――琉莉を抱きしめたことに狼狽する俺に、しかし抱きしめられた本人は、先ほどの出来事がまるで何事もなかったように平然とした顔をしていて。

 そして、小首を傾げながら俺に言った。


「は? べつに海斗に抱きしめられようが何も感じないけど」

「――――」 


 その言葉が、俺の身体の熱を一気に冷ましていった。全身の血の気が引いて、怖気すら覚えるほどに。体が雷にでも打たれたような衝撃に震えた。

 一人、思わぬハプニングに勝手に浮かれていた俺に、琉莉の言葉が重く、重く突き刺さる。


「それよりもありがとね。倒れた時に支えてくれて。助かったよ」

「――――」

「……海斗? 大丈夫?」

「……あ、あぁ。悪い。ちょっとぼーっとしてたわ。大丈夫。何もない。平気平気」

「そう。ならいいけど」


 怪訝に俺の顔を覗き込んでくる琉莉に、俺はハッと我に返ると必死にぎこちない笑みを浮かべた。

 琉莉は一瞬だけ俺の様子に眉をしかめるも、しかしすぐに態勢を元に戻して次の場所に向かって歩き始めた。


「さ、次の所に行こうか。私ペンギンが見たいな」

「……あぁ。琉莉の行きたいとこなら、どこだってついてくよ」

「ふふ。なら今日はとことん付き合ってもらおうか。荷物持ちもよろしくね」


 歩く琉莉の背を追って、俺は足を動かす。その一歩一歩が、まるで鉛でもついたかのように重くて、呼吸をすることも苦しかった。


 ――『べつに海斗に抱きしめられようが何も感じないけど』


 あの一言が、俺の頭からずっと離れない。

 あの一言が、俺と琉莉の関係を自覚させてくる。

 俺を、夢から現実へと引き摺り戻す。


「(俺は、琉莉にとっては、本当にただの幼馴染でしかないのか)」


 あの時、抱きしめた時に何一つ表情が変わらなかった幼馴染の顔が、脳裏にこびりついて離れることはなくて。

 少しだけ縮まっていたと思っていた心の距離。けれど、それは全て俺の勘違いで、本当は何一つ、一歩たりとも進んではいなかったのだと、俺は皮肉にも二人きりの時間の中で理解させられたのだった――。



【あとがき】

2件のレビューを頂きました。

感謝するぜ、レビュー、そして応援コメントしてくれた読者様♡(ネ◯ロ会長より)

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