俳句って何だろう?
ひとしずくの鯨
第1話
カクヨムさんでコンテストが開かれている。
ただ、私は普段、俳句も短歌も詠まないし、よく知らない。最近まで俳句は短いから季語はいらないんだっけと想っていたくらいだ。
ひぐらし ちまよったか先生のビキニちゃんシリーズを読んで、そうではないんだとはなったのであるが。この作品はファンタジーながら、各話を俳句で締めるという斬新な造りとなっていて、おすすめである。
話を本題に戻すと、知らないので、何だろうという想いはする。特に短い俳句の方は、その想いが強い。
なのでこの疑問に対する回答案を作ってみた。
造園に借景という考え方がある。庭の向こうに山が見えるなら、それに合うような庭を造る。海が見えるなら、それに合わせてという訳である。
つまり、まず造園家は①様々な庭を造れる技術を磨いて置く。②次に、その(立地の)借景と組み合わせて、庭の完成を図るとなる。
俳句も似たようなものではないかと。
芭蕉の俳句を例に説明しよう。まず、かの有名な
『
季語は蛙で春だそうである。冬眠明け限定? ここでは、「古池や」が借景である。
なので、これは次の如くもありえるとなる。
古寺や
宵闇や
霧の阿蘇
この借景のところの句は、その語でイメージが沸くのが良い
(おまけ1)人面魚
(おまけ2)ハエ飛ぶ?
続いて
『
ここでは「夏草や」が借景である。季語は夏草。同様に展開できる訳だが、この借景のところを季語にしなければならない。
逃げ水や
地のセミや
カクヨムコン
もちろん、どちらも下2句は芭蕉さんの作である。なので、自作する場合は、ここの部分をまず自分で考えて、それから借景の句を探すことになる。
ただ、すべての句がこれで説明できる訳ではない。例えば、小林一茶の句がそうである。
『
『亡き母や 海見る度に 見る度に(小林一茶作)』
いずれも、借景はありません。ただ、自らの心情を述べる一茶の句は、現代人には共感しやすいのかなとも想います。でも、探せばあるさ、
『夕月や 流れ残りの きりぎりす(小林一茶作)』
「夕月や」が借景ですね。
最後に正岡子規の
『柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺』
一見すると、「法隆寺」が借景ですが、ただ、文意として「鐘が鳴るなり 法隆寺」は切り離せないので、そうではないですね。これはお笑いの大喜利に近いのかな、という気がします。柿食っても、鐘はなりませんよね。でも、これを結びつけると、なぜか面白い。「えば」としたところが、ミソなのでしょう。
どうです。分からない人が、分からないなりに説いた試案ですので、うっちゃって置くなり、煮るなり、焼くなり、好きにしていただければ、と想います。
俳句って何だろう? ひとしずくの鯨 @hitoshizukunokon
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