第2話

計画の第一ステップは、実果と別れることだ。


実果とは先に部活を終えたほうが昇降口の前で待つことにしている。部活ごとに終了時刻に対する意識が違うらしく、俺が実果を待たせる機会が圧倒的に多い。けれども、今日は珍しく俺のほうが先に部活が終わって実果を待っていた。俺を発見した実果が友人と別れの挨拶を交わしながらすたすたと寄ってくる。


「お待たせ」


制服のブラウスがテニスバッグに引っ張られている。実果はポニーテールにくくっていた髪からゴムを外し、スカートのポケットに滑り込ませる。


「行こっか」

「うん」


俺は実果と並んで歩き出す。「あのね」と、実果が話し始める。いつも通りの他愛もない会話。けれども、実果と話していると、どんな話題でも楽しかった。同じだけの歳を重ねているはずなのに、実果は感受性豊かで、色んなことに感動したり悩んだりしていることが羨ましかった。漫画や小説を読んで涙を流すなんて俺には想像できなかったけれど、実果から理由を聞くとなんとなく納得できた。友達との距離感なんて気にしたこともなかったけれど、ちょっとした態度や話し方から誰と誰とが上手くいってないと感じたり、「わたしが嫌われているかも」なんて言えることには驚いた。


よく観察していて、よく気を遣っている。俺にもこれくらいの感受性があれば、家でもっと両親と上手く喋れるんじゃないかと思えてしまうのが悔しい。俺では雰囲気を壊さないのが精いっぱいだけれど、実果は両親から笑顔を引き出せるに違いない。


そしてなにより、お互いに黙っているときも安心できることが不思議だった。毎日一緒に帰っていると、話題が尽きてしまうこともある。でも、なにも話さなくたって平気だと思えた。


「橋、渡ろう」


俺は実果にそう提案した。


「えっ」


実果は驚いていた。学校から最寄り駅までは歩いて十分ほど。実果は電車通学で、俺は徒歩だから、一緒に帰るといっても過ごす時間はとても短い。だから、今日は話が尽きないなというときには、川を渡った先にある次の駅まで歩いて、そこで別れていた。たいていは実果が言い出すか、あるいは足が自然にそちらに向かっていたけれど、珍しく俺が提案したから、実果が驚くのも無理はない。


「今日は実果に話したいことがあるんだ」

「うん、わかった」


実果は半分怯えたような表情で、呟くように返事をした。俺はなるべく悟られないように言ったつもりだったけれど、実果には別れ話だと分かってしまったのかもしれない。


最寄り駅手前の交差点を曲がるときに、駅に入っていく女子の一人がこちらを振り返った。俺たちの先を歩いていた、実果の友達だ。彼女が振り返ったことに実果も気づいたようだったけど、実果はただ目を逸らしただけだった。


「話なんだけどさ」


橋を三分の一くらい渡ったところで、俺はそう切り出した。実果と一緒にいる時間の中で、俺は初めて気まずさを感じていた。


「うん」


実果はこちらを見ずにこくりと頷く。


「親父が失業した」


クエスチョンマークを表情に浮かべながら実果は俺を見上げた。


「シツギョウ?」

「そう、クビになった」


実果はこちらを見上げたまま表情を変えない。実果にしては珍しく、他人の不幸に対する労りや、慰めの言葉が出てこない。気遣い屋の実果のことだから、軽い言葉は余計に俺を傷つけると思ったのかもしれない。


「だから、バイト始めることにした」


俺は実果の返事を待たずに話を続けた。いざ実果に別れを切り出す場面になると、胸が締め付けられるように苦しくなった。


「そうなんだ」


実果の表情から緊迫が少しだけ薄れて、いつもの労わるような柔らかさが現れだした。


「バイトって言っても、なんか買いたいものがあるとかじゃなくて、家に金を入れるためだから。ちゃんと週七日働いて、バイトの掛け持ちもするつもり」


あの番組の中の女子高生みたいに、と心の中で付け加える。実果はテニスバッグを手で少し持ち上げて背負いなおす。


「部活はどうするの?」

「辞めるよ。仕方ない」

「もったいないね。頑張ってるのに」

「仕方ないよ」


俺はもう一度そう言った。それは自分を説得するためでもあった。部活を辞めることは本当に悔しい。


「でも、お父さんが仕事見つけたら復帰できるんじゃない?」

「そうかもな。でも、親父がクビになったのはもう三ヶ月前だし、ちゃんと仕事探してるようには見えないし、大学に行く金も貯めなきゃいけないし」


実果はうつむき、地面に視線を落とした。そのまましばらく、俺たちは黙って歩いた。さぁ、別れるって言うんだ、と何度も自分に呼びかける。けれども、なかなか踏ん切りがつかなかった。


「わたし、応援するよ。わたしにできることがあったらなんでも言って」


俺が躊躇っているうちに、実果は顔を上げてそう言った。なんとかなるはずだし、自分にもできることがあるはずだ。実果の瞳にはそう確信しているような輝きがあって、表情にはひかりが灯っていた。実果は顔がすごく可愛いってわけじゃないし、スタイルもそんなに良くないし、仕草や特技が魅力的なわけでもないし、声だって「可愛い」の領域の少し下だとクラスの誰かが評していた。その論評を、俺は聞こえないふりをしていたけれど、でも、悔しくて仕方がなかった。確かに、そいつの彼女は可憐な容姿を持っている。けれども、実果にそういった定規を当てるのは間違っている。俺が実果に与えられるものは少なくて、実果が俺に与えてくれるものは多い。それでも付き合い続けてくれるのが実果だ。でも、何も与えられなくなってしまってはもう終わり。親しき中にもギブアンドテイクあり。それが世の常識というものだ。


「ありがとう。でも、もういいんだ。実果に迷惑をかけるわけにはいかない」


橋を渡りきる寸前だった。交通量は多いけれど、人はほとんど通らない。最後の頑張りを見せている夕陽が実果の横顔を照らしていた。


「実果、いままでありがとう。別れよう。もう実果に会う時間もないし、資格もない」


俺はそう言い切って、速足に前へ進んだ。言ってしまった以上、もう並んで歩くわけにはいかない。


タッタッタッと背中に迫る足音が聞こえて、俺が振り返ると真正面に実果がいた。おいおい、追いかけてくるのかよ。


「返事、保留でいい?」


意味が分からない。


「よくないだろ」

「保留で」


表情からも、声色からも、実果は怒っているみたいだった。実果が怒っているところを、俺は初めて見た。


実果は俺の横をすり抜け、女子とは思えないほどの速足で去っていった。俺はその背中を見送りながら、まぁ、結果オーライだろうと結論をくだす。どちらにしろ、もう実果と会う時間をつくれないのは事実だ。実果が「保留」だと言った意図は分からないけれども、別れる意思をこちらから示したのだから実果も納得するだろう。冷静に考えれば、俺と付き合うメリットが全くなくなってしまっことに実果も気づくはずだ。

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