青春の幕間

河瀬みどり

第一章 富田祐斗

第1話

親父が二度目の失業をしてから三ヶ月が経った。


そろそろ潮時かな、と俺は思っていた。


ネットで調べたところ、アルバイトの自己都合退職でも失業給付は三か月近く貰えるらしいけど、親父がそんな煩雑な申請をまともにやっているとは思えない。三か月前から、親父の収入はそっくりそのまま家計簿から消えているに違いない。


その証拠に、ここ最近の母の様子はますますおかしくなっていた。焦燥と不安が募っている様子が手に取るようにわかる。


祐斗ゆうと、おかわりは?」


俺の茶碗が空くのを待っていたかのようなタイミングで、ダイニングテーブルの斜向かいに座る母がそう言った。俺は笑顔をつくって肯定の返事をする。母が手を伸ばして俺の茶碗をとり、炊飯器から白米をよそう。


親父が失業中なのにご飯のおかわりを要求するのは不謹慎ではないかと、最初の頃は俺も思っていた。でも、実のところそれは違う。そうやって気を遣った態度を見せたときの、気まずくて重い雰囲気に耐えられるような家族じゃないってことを、俺はもう知っている。


母は朝から夜までパートを掛け持ちして働いているけど、その気力の源泉は家族の気まずくない雰囲気にある。一般の家庭であること、普通の家族であることがこの人の自尊心にとって重要なことなのだ。


思えば、昔から飯とか服とかドラマとかの話しかしない人だった。けれども、ワイドショーで取り上げられている話題をそのまま食卓の話題にするような人とは上辺うわべの会話しかできない。俺は大盛りによそわれたご飯を、ここ最近で明らかにグレードダウンしたおかずと一緒にかきこんだ。二杯目の白飯の、単調でしつこい味が口にまとわりつく。たくさん食べる、元気で素直な男子高校生。母の求める上辺のラインをしっかりと守らなければならない。


俺の正面には親父が座っていて、むっつりした表情で飯を食っている。といっても、常に黙っているわけではない。唐突に学校生活のことを聞いてきて、俺が適当なエピソードを選んで話すと、途中で割り込んできてグダグダと偉そうにコメントしたりする。自分が勤めていた職場での経験を喋ったりもする。そこをクビになったんだろ、と思うけれど、俺は神妙な顔で親父の話を聞く。母は親父が話し始めると顔をしかめる。けれども、俺が気のない返事しかしないと慌てて場を取り繕ったりする。


「ごちそうさま」


そう言って、俺は食器を持って台所へ運んだ。母があまりに忙しそうなので、一度、家事の分担をそれとなく提案したけれど、それもやんわりと断られた。家事をこなしているということも、母のアイデンティティの一角を形成しているのである。断るときの、「そんなこと気にしなくていいのよ」と言う母の目の泳ぎ方を、俺はこの先もずっと覚えているだろう。


俺が流し台に食器を置くのと同時に、隣に座っている妹も席を立った。小学六年生の妹も、ずいぶんと空気をコントロールするのが上手くなってきている。不躾なことを言わず、適切な柔らかさを持つ抽象的な言葉運びで家族との会話をこなしているのは立派だ。やっぱり、女子の方が精神面の成長が早いのかもしれない。


自室に戻った俺はスマートフォンを充電器から抜き、ベッドに寝転がった。コンセントとベッドの位置がかみ合っておらず、充電しながら枕元でスマートフォンに触ることができない。寝落ちしてしまうと、充電が少ないまま次の日を過ごさなければならないのが不便だ。


ここ数日、俺がスマートフォンを手にして最初にすることは、メモ帳を開くことだった。そこには二週間ほど前に書いた行動計画が記されていて、目で文字を追うと緊張で手先が震える。胃が急激にしぼんでいくような感覚にとらわれて、食後だと吐き気を催すくらいだった。


親父が失業したと母親から聞かされたときには、まぁ、なんとかするのだろうと思っていた。でも、新しい職を得るというのはなかなか難しいことらしい。それどころか、親父からはまともに求職活動をしている様子さえ感じられない。いつも家にいて、やたら長々と新聞を読んだり、だらだらとテレビを見たり、ちびちびと煙草を吸ったりしている。たまに「散歩に行く」と言って家を出るけれども、ラフな服装から想像するに、本当に散歩に行っている可能性が高い。


もしかしたら、なんとかならないのかもしれない。ようやくそう思い始めて、いろいろ調べ始めたのがだいたい一ヶ月前。母親のパート代を計算しても、俺たちの糊口をまともに凌げる額じゃなかったし、こっそり預金通帳を見てみても、元々なかったような貯金は底をついていた。中学校の社会科で「失業保険」という単語が出ていたのを思い出してネットで検索し、目についた他の記事もついでに読んでいくと、貧しい家庭についていろんなことが書いてある。そのときやっと、自分と同じか、もっと酷い境遇の家庭はたくさんあるんだなと気づいたし、何やら偉い人たちもいろいろ考えているらしいと知った。


行動計画を書くきっかけには、そうやって色んなサイトを巡っていた時に出会った。


いまから二週間前、それはいかにも真面目そうなNHKの番組がそのままアップロードされていたもので、貧しい家庭を取材した映像を流して、どこかの大学のオバサンが国の対策がなってないと神妙な顔でコメントする形式。その中で、ある女の子がバイトを掛け持ちしながら高校に通っているという場面を見て、俺は閃いた。


なるほど、俺もそうするべきなのだろう。親父が働かず、母の働きでは足りず、妹は年齢的に働けないのであれば、俺が働くというのは妥当な選択だ。もちろん、母の性格を考えれば、高校生の息子が働きながら家計を支えているなどこのうえない恥だろう。「なんにも手伝いなんかしなくて」なんて満更でもない顔をしながら喋ることが母の生きがいなのだ。でも、バイトを掛け持ちしている女子高生は言っていた。「こんだけ働いても、大学に行くためのお金がぜんぜん貯まんない」。大学。そう、大学だ。母の性格からすれば、息子が貧しさのために大学を諦めるなどあってはならないこと。世間体が崩れ落ちていく音に母は耐えられないだろう。


動画を見ところ、出演している家庭はどこも我々富田とみた家よりさらに貧乏なように思える。俺がいまからバイトを始めれば、なんとか大学くらい行けるんじゃないだろうか。奨学金との合わせ技で進学した大学生の話も出ていたし、頑張れば無理じゃないだろう。


ただ、バイトを始めるにあたって懸念点が一つあった。


「バイトばっかりしてるから、友達ともあんまり話合わないし、無理矢理合わせてるって感じです。授業でも結構寝ちゃうこととかあるし、宿題やる時間もないし、疲れてたらたまに学校休んだりもするし」


出演していた女子高生の、いかにも「※音声を変えています」な感じの、でも、真剣な声。夕方に働く一個目のバイト先から、夜に働く二個目のバイト先まで走る彼女の後姿を見ながら、俺は腕を組んで唸らざるを得なかった。


バイトを掛け持ちするような生活を始めれば、これまで通りの学校生活は成り立たない。


じゃあ、どうするのか。答えは簡単だ。迫りくる変化に対応するべく、下準備を行うしかない。俺はつらつらと行動計画を練っていった。明日から、その計画を実行に移す。


俺はベッドに胡坐をかき、自分の部屋を眺めてみた。お金がなくて困っているのに、自分の部屋も、ベッドもあるのは妙な気分だ。でも、ローンで買ったという家は売るに売れないだろうし、十年近く使っているベッドなんて二束三文にしかならないだろう。もしかしたら、引き取り料金がかかるんじゃないか。


俺はスマートフォンを握りしめ、もう一度実行計画を読みこんだ。嫌な計画だけど、そろそろ潮時なのだ。

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