懐中時計、一つ
* * *
「咲く時は、一緒に咲こうね」
砂糖菓子でできているかのような声だった。甘く、コーヒーに入れてしまえば儚く溶けて消えてしまう。天使の囁きにも思える声だった。
「花畑でも一緒だからね」
だからあたしはそう返す。この儚くも優しい声に、誰が逆らえるというのだろうか。
ミオの手を取る。そうしなければ彼女はいまにも消えてしまいそうなほど、儚かった。彼女はどこか透明で、頭にある青い蕾も、夢の中で見る色のよう。
「約束だからね、ミオ」
「約束だよ、フルス」
深夜だった。寮で生活するミオは、風のように部屋から抜け出してきていた。対してあたしは、自宅から泥棒のようにこっそり抜け出して、夜の『花墓所庭園』のベンチに来た。
深夜でも『花墓所庭園』が賑やかだったのを憶えている。実際に騒がしいわけではなかった。しんと静まり返って、しかし風が吹けば、咲いてしまった少女達の花が囁きあい、おしゃべりするのだ。そしてあたし達を見守る。
あたしとミオは、互いの額をくっつけて目を瞑っていた。ミオの吐息を感じる。繋いだ手からは、ミオの脈を感じる。
互いの蕾が、触れあっていた。ミオの青い蕾。あたしの青い蕾。同じ形、同じ色。
だからこそ、学院で出会ったあたし達は、同じ終わりを持つ者として、惹かれあった。
死ぬことは怖くなかった。ただ一緒に咲くことができる、そのことばかりがひどく幸福に思えた。
きっと一人じゃないから。きっと同じ未来を持つ人がいるから。
それに、あたし達の行く末である『花墓所庭園』は美しくて――海を思い出させてくれたから。
その広大さ。その賑やかさ。
深夜である今。月の光に照らされる花畑は、より海を思わせた。風が吹けば、波打つ、きらめく。潮騒にも似た音が心に響く。
「ミオはさ、海って見たことある?」
並んでベンチに座って、しばらく花畑を眺めていた。手は指を絡ませるように繋いだままだった。ほどきたくなかった。
「ううん、見たことない。街から離れたこともないから……フルスは見たことあるの?」
「あるよ。ここに来る前まで住んでた街は、港町だったから」
「……海が恋しいの?」
急に私がそんな話題を出したからだろう。ミオの幼さを残した顔に、影が落ちる。
あたしは頭を横に振った。
「この花畑、海に似てるなって思って……」
大きな波一つない、ひどく穏やかな海だった。
「……海ってね、たくさんの生き物がいるし、いろんな生き物が生まれて還っていくから『命の海』なんて言われたりもするんだ……それもあって、似てるなって」
「このお花畑には、沢山のお花があるもんね。沢山の『花憑き』がいるもんね……それじゃあここは『命の花畑』だね」
そう、沢山の命が、ここにある。
『花憑き』の花は、少女が死んだ証ではない。少女が花になった証だ。
海と違って、ここから何かが生まれることはないかもしれない。けれどもここは命に満ちた場所で、賑やかな場所で、あたし達『花憑き』が向かうべき場所だった。
海の話をしたのは、それだけじゃない。
「海って、あたし達の蕾と同じ色だよ」
あたしがそういえば、海を見たことないと言ったミオはふんわりと笑った。
「それじゃあ、私、海を見たって、言えるかな?」
「言えるよ、きっと」
「……でも無理があるかなぁ?」
「海が見えたって思えば、それは海だよ、あと嘘吐いても、だーれもわかんないし」
「……ふふふ、嘘はよくないよ」
あの日々。あたし達は、今と「その時」しか考えられなかった。
それだけが、あたし達にあったものだから。
ところが、不意に雷鳴が響いて天を割るように、道が開かれた。
――『花憑き』の治療法が見つかり、確立したのだ。
最初こそ誰も信じられなかった技術。けれどもたちまち浸透していき『花憑き』の蕾の切除が始まった。
蕾狩り。
誰がそう言い始めたのか。その言葉が含む空気は「害虫駆除」と似たようなもの。当たり前だ、少女の頭に生える蕾は、人類の敵だった。
蕾狩りはスムーズに行われていった。ノーヴェの『花憑き』は皆『機械仕掛けの竜』に登録されている。街では蕾を持つ少女の姿が減り、代わりに術後を示す包帯を巻いた少女の姿が増える。やがて彼女達の包帯が外れると、そこにいるのはもう、短命を約束された少女ではなく、未来ある乙女だった。
切除は誰も断らなかった。ある日、この日に手術をしますと手紙が来る。その手紙は未来へのチケット。指定された日に『花憑き』は手術を受けにいく。手術が終われば、運命から解放された娘を、両親あるいは知り合いが泣きながら抱きしめる……。
そんな変わりゆく街、世界の中。
夜中だったという。
ミオが川に飛び込んだ。
彼女の机の上には、二つに破かれた、手術案内の手紙があったという。手術の予定日は、翌日だった。
どうしてそうなってしまったのか、ミオの自殺を聞いて、あたしはすぐに理由に気付く。
『咲く時は、一緒に咲こうね』
きっと、花を奪われたくなかったのだ。蕾の切除を拒否したのだ。
彼女は咲きたがっていた。蕾を切除されることは、彼女にとって、理想の未来を奪われることだった。
だからその前に。蕾があるうちに。
あたしは、どうしたらいいのかわからなくなっていた。思い返せば、ミオが死んだことにより心神喪失の状態だったのかもしれない。
そうしている間に、私の青い蕾は切除された。
両親はひどく喜んだ。元々、あたしの両親はとある港町で『花憑き』を研究していて、あたしが『花憑き』になったことによって『花憑き』研究の最先端をゆくこの街に引っ越してきた。だから長年の戦いの終わりに泣いて喜んで、未来を取り戻した娘を抱きしめた。
――でもミオは亡くしたあたしは、一人で生き続けることになった。
花を咲かせることもなく。大人になって。
こち、こち、こち。
独り立ちの際、お祝いに貰った懐中時計の針の音を、憶えている。
こち、こち、こち。
あたしの時間だけが、止まることなく、進んでいく。
ミオの時間は動かない。完成もされなかった。
――開花前に『花憑き』が死んだのなら、その『花憑き』の花は醜くしおれ、枯れてしまう。
文字盤の上を回る針。その向こうに、醜くしおれた青い蕾の幻を見た。
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