一人、夜の街をステージにして


 * * *



「そういえば最近、ヴァネッサさんはどうしてますか?」


 今日の注射と記録を終えて、不意に研究員のお姉さんが尋ねてくる。

 あの日、床に投げ捨てられた花はいまも花瓶にあって、長いこと木の枝のように枯れてそこにある。

 対してあたしの頭の蕾は、あの日からまた少し、大きくなっている気がした。


「いいのよあいつなんて」


 二週間が経っていた。三週間経っても、一ヶ月経っても、もしかすると、ヴァネッサはもう来ないかもしれなかった。


 それでもあたしは、もうそれでいいと、思っていた。

 ヴァネッサとあたしは、違う。


 確かにあの時、あたしはとんでもないことをしたかもしれない。

 けれどもヴァネッサだって。


「もうじき『機会仕掛けの竜』の一次試験の時期なんですけど、うまくいくといいですね」

「……そーですね」

「でもヴァネッサさん、すごく勉強のできる子ですし、考え方もとてもよかったので、簡単に通過できると思いますよ」


 にこにこと話す研究員をよそに、あたしは適当に流しつつ、手鏡で自分の蕾を眺めていた。真っ白な蕾。触ると少し温かい。根本にこそ、触れると自分の身体の一部を触っている感覚があるものの、蕾自体にはそういった感覚はない。


 この蕾は何なのだろう。改めて考える。

 自分から生えた、何か。

 ――自分の内側から突出した、何か。

 病だとか、呪いだとか言われているらしいが、一部では進化とも言われているらしい。


 ――暇つぶしに読んだ本の中で、この蕾は「体外へ突出した魂の一部なのではないか」なんて書かれていたのを思い出す。

 そう考えると、あたしの魂というものは、真っ白なのだろうか。性格はよくないと言われるけれども。


 真っ白で、はっきりしていて、何色にも染まらない。

 でも花というのは色とりどりだ、色のない真っ白な花は、孤独なのかもしれない。

 ……そんな夢想をしていると。


「あの子、本当は今すぐにでも研究員になって、あなたを助ける方法を見つけたいんですって」


 不意に研究員が言い出す。そういえば、似たようなことを彼女自身が言っていたっけ。

 ところが。


「自分と違ってはっきりものを言って、自分に自信があるあなたが、とても素敵だって、言ってましたよ」

「……」


 それは初めて聞いた。ヴァネッサは一度もそんなことを言わなかった。

 そもそも、はっきりものを言うのは彼女も同じであるし、自分に自信がありそうなのも、彼女も同じだった。


 ――もしかすると。

 ――もしかすると、本当は違ったのだろうか。


「だから、もっと話したいから、長生きしてもらわないと困るんだって」


 ヴァネッサは、あたしのことを知らなかった。

 だからこそ、あたしは彼女が遠くにいるのだと感じた。

 けれども本当は、あたしが彼女から遠い場所にいたのではないだろうか。

 ヴァネッサのことを、そんなに、知らなかった。

 それでも、でも、だ。


「……ヴァネッサがいますぐ研究員になったところで、蕾がすぐどうにかなるわけでもないし」


 あたしがそう口にすれば、研究員はぎょっとしたような顔をしていた。

 まさしく事実だった。どんなに研究をしても、もう意味がないのだ。

 蕾は確かに膨らんでいる。


 そしてあたしは開花を、完成を待っていて――ヴァネッサには理解されない。

 芸術と一緒だ。何が美しくて、何がそうでないのか、人によって違う。



 * * *



 ヴァネッサは無事に、一次試験を通過できただろうか。


 時折考える。あれから何日が経ったか。結果はもう出ている気がした。

 しかしヴァネッサは報告しにこない。そもそも様子を見にも来ない。


 花瓶が空っぽになって、いったいどれくらいが経っただろうか。

 あたしには家族がいない。それまでは可愛がられていたはずだったけれども『花憑き』になったとわかった時に孤児院送りにされた。珍しい話ではない。そうやって、人は縁を切る。

 だから病室に来る人は、もういない。いるとしても研究員だけ。あとは「美人の『花憑き』がいる」と覗きに来る奴らがちらほら。


 退屈はしなかった。気付けばヴァネッサのことばかりを考えていたから。

 けれども寂しかった。ヴァネッサだけは、ほかの人と違った。そう感じていたのだ。だからあたしは気に入っていた。


 ……もっと話をしたかったかもしれない。

 互いにまだ、知らないことがたくさんあったはずだから。

 それでも時間は流れて、研究の成果も芳しくなく、その時は来る。


 蕾はなんのためにある?

 蕾は開花するためにある。


 ――夜だった。少し寒かった。そのせいなのか、はたまた異変に気付いたのか、あたしはふと目を覚ました。沸き上がってくるかのように、徐々に感覚を取り戻していき、気付いてベッドから抜け出した。裸足で触れた床は、まるで水の上を歩いているかのように、冷たい。


 手鏡を取る。

 鏡の中、あたしの蕾が、蠢いていた。


 赤ちゃんが身じろぎするかのように、もぞもぞ。少しくすぐったかった。やがて解けるように、白色が広がる。窓から差し込む月光を受けて、より美しく輝く。


 痛みも何もなかった。しかしあたしの頭には、中央に黄色を湛えた、白い花が大きく開いていた。

 ついに咲いた。鏡の中のあたしは、月光のせいかどこか絵のようで、別人に思えた。しかし微笑めば、向こう側のあたしも微笑む。


 完成されたあたしがそこにいた。

 やっぱり花は、咲いてこそ、美しかった。


 ――これで死んじゃうんだな。


 ぽつりと胸中に落ちる雫。けれどもそれくらいにしか思えなかった。

 あたしの人生は、いま、完璧なフィナーレを迎えている。


「……ヴァネッサにも、見てもらいたかったな」


 いまの自分が女神のように思えて、手鏡を持ったままくるりと回れば、質素な患者服の裾が、それでも翼のように広がった。


 きっと、今の自分は何よりも美しくて、もう誰も『花憑き』だ、なんて蔑むことはできないだろう。

 だから思う。ほかの人と違って、あの事件の前こそあたしを受け入れてくれていたヴァネッサなら、今の姿を褒めてくれるかもしれないと。頭はお堅いけれども、少しは考えを変えてくれるかもしれないと。


 いてもたってもいられなくなった。

 あたしは大きく開いた窓枠に足をかけた。

 もし開花したのなら、すぐに研究員を呼ぶこと――そんな注意を無視して。勝手な外出も禁止されているのに。


 冷たい空気があたしを包み、迎え入れた。夜中らしくて、星や月の輝きが美しかった。どこか照明にも思えるその光の中、あたしは裸足のまま、冷たい地面の上を歩き、生け垣の隙間から街へ歩き出す。道を作る煉瓦も冷たい。まるで世界は水の中か、氷でできているかのようだった。街灯の輝きも鋭く思える。


 人影は一つもなく、明かりのついている家も数えるばかり。頭に白い冠をつけたあたしは、魚のように進んでいく。


 ヴァネッサの家は一度も行ったことがない。けれども場所は、聞いたことある。

 こんな夜中であるものの、まだ彼女が起きているような気がした。きっと机に向かっている。熱心に勉強しているに違いない。


 だから彼女が眠ってしまう前に。

 もうあたしは、いまが夢なのか現実なのか、わからなくなり始めていたけれど。


 死ぬのかと思ったけれども、きっとそうじゃない。いまになってわかる。

 あたしは花になる。美しい花に。

 蛹が羽化して蝶になるように。


 ――ああ、でも。

 花は蝶と違って、羽ばたくことはできない。


 全身の力が抜けていくのを感じた。急激な眠気を覚えた、そういった感覚に近かった。

 まさに幕が下りたかのように、全てがわからなくなった。

 それでも冷たい風を感じていた。


 ――道の途中に落ちた『花憑き』の白い花。

 ヴァネッサはこれを、あたしだとわかってくれるだろうか。

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