日々はただ過ぎ、花はまだここにあり


 * * *



「少し、痛いかもしれません」

「子供みたいにぎゃーって言わないわよ」


 研究員のお姉さんに言われて、あたしはけらけらと返した。それじゃあ動かないでね、と、研究員はあたしの髪の毛を分けて、白い蕾の根本を露わにする。


 言われたとおり、少しの傷みがあった。けれどもいつものことで、あたしは動かない。やがて頭が自由になって、研究員は空になった注射器を片づけ始める。


 何回目の注射だったか、あたしはもう憶えていない。しかし研究員はすぐにカルテに記録をつけ始める――きっとあのカルテには、いまの注射が何回目のものだったか、書いてあるのだろう。


「ノイさん、今の具合はどうですか?」

「どうってことも、ないわね。いつも通りかしら」


 ベッドの上、上半身だけを起こしたままのあたしは、自分の蕾に手を伸ばそうとする。


「ああ、触っちゃだめですよ……かゆいですか?」

「そんなんじゃないけど、気になるじゃない?」


 制止されたものの、あたしは窓ガラスに映った自分の姿を眺め続けていた。丸く膨らんだ白い蕾も映っていて、頭を動かして角度を変えてみても、注射を受けた根本は見えない。


 それにしても、また髪の毛が伸びてきたな、と思う。改めて自分の姿を見て気付いたけれども、金髪は腰のあたりまで伸びかかっていた。

 なんだか人形めいているように見えた。以前に「人形みたいに綺麗だ」と言われたことがあるものの、いまはまさに人形そのものみたいだ――治験や実験を受け、その結果や経過の記録をつけられている。おままごとだ。この白い服だって、協力者用として着ているわけだし。


 ここではおしゃれだってできない。この長く伸びた髪も、また切れといわれるかもしれない。治験や実験の際に邪魔になるから、と。


「それではノイさん。何か異変を感じたら、すぐに知らせてくださいね。それから安静に」

「はーい、わかってますよ、一年もいるんだから」


 研究員は部屋から出ていく。さてまたつまらない時間になるぞ、と思った矢先に、研究員と入れ違うように、人影がそっと、ドアの向こうから頭を出してきた。

 神経質なくらいに切りそろえられた黒髪。野暮ったいメガネ。その向こうの、きりりとした瞳。女学院の制服は、まるでおろしたてだ。


「あらヴァネッサじゃない! おはよう!」

「安静にって、言われてたでしょう」


 私が思わずベッドから出ようとすると、さっとヴァネッサが声を上げた。


「このくらい、どうってことないじゃない」

「でもあなた、薬を打ったばかりじゃないですか。繰り返しやってる治験とはいえ、何が起こるかわからないんですし」

「繰り返してるけど、いつも何にも起きないわよ?」


 ヴァネッサの手には、鞄のほかに、一輪の白い花があった。よく咲いた花で、だからこそよく枯れる花に思えた。彼女はベッドのサイドテーブルにあった花瓶を手に取る。以前彼女が買ってきてくれた花が、しなしなに枯れてまだ残っていた。


「……どうして普通の花は枯れるのに『花憑き』の花は枯れないんでしょうね」

「それがわかれば、ここの人達、こんなに苦労してないんじゃない?」

「……そうですね……あと、いまのは失言だったかもしれませんね、ごめんなさい、気を遣えなくて」


 相変わらずの物言いに、あたしは笑ってしまう。きっとヴァネッサは、花について触れるべきではないと思ったのかもしれない。あたしは何一つ、気にしないけど。


 取り替えてきます、と、ヴァネッサは花瓶を持って一度病室を出た。再び戻ってきた時には、花瓶には新しい花が生けられていた。

 綺麗な花だった。


「それで、調子はどうです?」


 花瓶を置いて、ヴァネッサはずれてしまっていたメガネを正す。あたしは。


「さっき言った通りよ。なーんにも。まあ一年過ぎたわけだし……この退屈にも慣れたかなぁ」


 窓の外から、子供達のはしゃぐ声が聞こえてきた。一階であるここは、窓のすぐ外に緑の生け垣があるものの、外の様子が少し見えた。子供達の姿が見える。そのうちの一人がこちらを見ていたものだから、あたしは軽く手を振ってみる。すると、その子供、男の子は、顔を赤くして走り出してしまった。


「そういえばねぇ、噂になっちゃった! この研究病棟の一階に美少女がいるって! あたし、自分が美人なのはわかってたけど、まさかここでもそう噂になるなんてね!」

「そういうことを聞きにきたんじゃないんですよ」

「……あんた相変わらずって感じね。嫌いじゃないけど」


 あたしはわざと深く溜息をつきながら、ベッドの上で片膝を立てた。その膝を使って片手で頬杖をつけば「行儀悪いですよ」とヴァネッサに注意される。


「そうそう、そういうクソ真面目なところよ」


 にやにや笑いながら、あたしは瞳だけを彼女に向ける。ヴァネッサは嫌な顔一つもしていなかったから、あたしは続けた。


「正直に言うとね、あたし、そろそろあんたがここに来なくなるんじゃないかって思ってたのよね……だって一年過ぎたのよ? なのに未だに五日に一回は来るじゃない……暇なの?」

「……暇じゃないですよ、これから帰って、また勉強しなくちゃいけないんですし」

「勉強する前に、そのださい眼鏡変えたら?」

「そういうのは興味ないですし、そんなもの買うより参考書を買います」


 ヴァネッサは椅子の上に置いてあった鞄を手に取る。ちらりと中身が見えたが、分厚い本が詰まっていた。小説のようなタイトルは見えなかった、多分、全部参考書か何かだろう。重そうに思えるが、彼女は慣れたように肩にかけた。

 と、ヴァネッサは改まってあたしを見据える。


「……治験・実験協力を勧めたの、私ですし」


 ほんの少し、メガネの向こうの瞳に影が落ちたように見えた。

 だからあたしは笑い飛ばす。


「あたしが勝手に話を聞いて、勝手に選んだだけよ? それともなぁに? 生徒一人を研究に協力させると、何か手柄でも得られるわけ? だから『私が勧めた』って言い張ってるわけ?」


 ――長生きしてほしい?


 一年程前だった。あたしがヴァネッサにそう尋ねたのは。

 ノーヴェ女学院には、頭に蕾がない人間と同じほどに『花憑き』の生徒が多い。『花憑き』の少女を無償で受け入れているからだ。しかし無償といっても社会貢献や奉仕活動はしなくてはいけないし、『花憑き』の研究機関『機会仕掛けの竜』に協力したりしなくてはいけない。


 だから時々『花憑き』の生徒の中から求められる。治験や実験に協力してくれる人間が。

 もちろん簡単に集まるものではなく、一年前も立候補者が出ず、結果、クラス長であるヴァネッサが先生に言われて立候補者を探すことになった。治験や実験を受けるか受けないか、意思は尊重されるし拒否権だってもちろんあるものの、その存在は必要不可欠なものだった。それでヴァネッサが『花憑き』の生徒一人一人をあたることになった。


 けれども、彼女が本格的に立候補者を探す前に。


「長生きしてほしい? あたしに」


 話を聞きつけたあたしが、名乗り出た。


「……こう言っては、悪いかもしれませんが」


 治験・実験協力の概要を記した紙を手に、ヴァネッサは少し困ったような顔をしていた。


「治験を受けるからといって、長生きできるとは限りません。確かに最先端の治療を受けることになるかもしれませんが、実験段階なんです。だから『治験・実験協力』なんです」

「ごちゃごちゃ言ってないで質問に答えてよ。あんた、いまあたしがなんて聞いたか、わかるでしょ?」


 ――少しして、ヴァネッサが頷いた。その時の彼女の顔は、いつものすました顔ではなく、年齢よりもずっと幼い子供のように見えた。


 そうして、あたしは五年生になる前に、治験・実験協力者として『機会仕掛けの竜』研究病棟に入院することになった。

 つとヴァネッサを見れば、少し身長が伸びているような気がした。あたしはどれくらい伸びたのだろうか、記録をつけられているために、身長も定期的に測っているが、どれくらいだったか憶えていない。一年経ったのだから、あの時よりは伸びていると思いたい。


 ただ、その一年という月日の中、頭にある蕾に関しては、何の成果も得られていなかった。

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