発信する上で気を付けたいこと

 自戒もこめて、ちょっとこの話を書こうと思います。あんまり明るい話題ではないんですが、たまにはこういう話も必要かなと思うので、ご容赦を。


 発信する上で(というか日常でもそうなのですが)、個人的に気を付けている、心掛けていることがあります。それは、伝える相手に「逃げ道」を作るということです。批判するにしても、批判するだけじゃなくて、次の道に繋げたり、励ましの言葉を添えたりするようにしています。それだけで、受け手が感じる「痛み」って減ると思っています。SNS等で誰もが簡単に発信出来るようになった昨今、誹謗中傷が問題となっています。誹謗中傷と批判をはき違えている輩については言語道断ですが、じゃあ批判だったら受け手が傷つかないかと言うと、それはまた別問題じゃないかな、と思うのです。


 仮に、あなたが仕事でミスをしてしまったとします。気を付けていれば防げたかもしれないミスだったとしましょう。それを、「気を付けなかったのが悪い」と顔も知らない人にチクチクと言われて、あなたは平気で居られますか? 「何でアイツは気を付けなかったんだろうな」とか「気を付けてさえ居れば防げたミスだ、怠慢と言われても仕方ない」と、学外や社外の人たちに指摘されて、あなたは受け流せますか?

 先に挙げた批判は、いずれも誹謗中傷とは言えないでしょう。人格否定をしている訳では無いし、「ミスをしてしまったという結果(またはそのプロセス)に対しての批判」です。しかし、それを不特定多数の人に一斉に言われたとしたら、メンタル的にかなりキツいと感じるのではないでしょうか。


 私は教員免許(高校理科)を取得したのですが、その過程で教わった言葉でとても大事にしているものがあります。それは、「教育者は、正義の矛で突かれる痛みを知りなさい」という言葉です。正義は、その正しさ故に相手を逃がさない。間違いを犯した時に、正義の矛で突き続ければ、それは相手を潰すことになる。だから、正義の矛で突かれる痛みを理解した上で、正義の矛を使いなさい。こういう意味の言葉だと教わりました。同じ批判をするとしても、「繰り返さないようにしよう」とか、「こういう方法もあったよね。次はその選択肢も視野に入れよう」という一言を添える、あるいは「失敗してしまうこともあるよね」といった共感の言葉が添えられるだけで、受け手が感じる痛みというのはかなり小さなものになると思うのです。


 何が言いたいのかというと、発信する時には「その言葉が、たとえ誹謗中傷じゃなかったとしても、意図せず受け手を傷つけるような表現になっていやしないか?」を意識して欲しいということです。誹謗中傷は言語道断。やってはいけません。それは当たり前のことです。でも、そうじゃない「批判」だって、使い方によっては相手を傷つけうるのだということは意識して欲しい。正義の矛は、使い方によっては簡単に相手を潰す道具になるかもしれないのです。「ああすれば良かったのに」と言うのは簡単です。でも、それによって、相手が傷つく可能性があることを意識するのは、案外難しいことかもしれません。だけど、言葉は刃物。使い方を間違えれば、簡単に相手を傷つけることができる道具でもあるのです。


「批判は良いでしょ」「ファンだったら、時には厳しいことを言うのも必要」と言いたくなる気持ちは分かります。でも、それで受け手が傷つく可能性があること、正義の矛で傷つけられる痛みも理解した上で、発信して欲しいのです。選手やスタッフさんだって人間です。時には失敗もあるし、上手くいかないことはたくさんあるでしょう。ですが、それに対して、誹謗中傷じゃなくたって「正しい批判」でも相手を傷つけることは十分に可能です。どうか今一度、その言葉が相手を傷つけるものになっていないか、気を遣ってみませんか?

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