現実と理想
逃げ出したい。大人になると逃げ出したい事ばかりが、増えていく。かといって、子供時代に戻りたいとは、思わない。幸せに包まれた子供時代は送っていない。
どこをより
8月22日月曜日、私の身体は重い。熱は、37.3。職場の健康チェックカードに今日の自分の体調を書く。嘘をついて体温は36.3と書く。今日もだるい。この熱は風邪の熱ではない。自律神経が狂っているのだ。
中野と会う日は身体がなんとか動くのに、仕事の日は動かない。身体が痛い。息が苦しい。
『時刻は只今、9:15となりました。今日のトピックは、こちら。俳優、見上健次郎さんと女優、綾野ひなさんの不倫報道についてです
』
フロアーの大型テレビに目を向ける。最近のニュースは、浮気ばかりで気が滅入る。私も一緒かと自分に突っ込みを入れて、自分をあざ笑う。
父のようになりたくないと思っていたのに、今の私は、父と一緒。自分が嫌い。
私は、社会福祉士として、介護施設に就職した。だけど、介護の人手不足で社会福祉士としての仕事は、ほとんどさせてもらえず、ほぼ介護職員として働いている。もちろん学校で介護福祉士の資格も取ったから、介護の仕事だってできる。だけど、私が介護福祉士の資格を取ったのは、社会福祉士として、現場を知り、高齢者の支援をより良いものにするためだった。理想と現実は違う。
空いた時間に、社会福祉士として施設に見学に来る方の案内、資料整理など業務を行なっている。家族への連絡、相談、連携を担う生活相談員としての仕事も学んでしていかなければならない。あなた社会福祉士でしょ? 相談員業務できるでしょ? と、言わんばかりに仕事が割り振られる。業務終了後、施設全体の勉強会や、委員会があったりする。残業はサービス残業。
新人で分からない事だらけ。介護福祉士の仕事も、社会福祉士としての仕事も、両方は難しい。私に大切な事を1つ1つ教えてくれる上司はいない。
毎日、身体は怠くて、ニュースでは不倫報道ばかりで、いいことなんてない。
「どうしたんだい?」
「えっ?」
しわしわでゴツゴツした年季の入った温かい手が私の腕を撫でる。反射的に手を離し触られていた部分を擦る。
「びっくりさせてごめんね。それ、どうしたんだい?」
テーブルに座ってテレビを見ていた長谷川さんは、私の腕が気になり声をかけたようだった。長谷川さんは、私の働く施設の利用者さんで、軽度の認知症がある方だ。美容師をしていたせいか、気品溢れるきれいなおばあちゃんだった。
「えっと…長谷川さん、これ、これはね、家の猫に引っ掻かれたの」
ミミズ腫れになっている腕。
もう自分を刃物で傷つけないと中野と誓った7月15日の夜。その後も私は苦しくて、中野と会う頃には消えるように自分を傷つけている。昨日、中野と会った後、こっそり傷つけてしまった。中野に見つかったら怒られる。愛のある叱りが余計に胸を苦しくさせる。中野しかいないのに、中野から逃げたくなってしまう。
「こないだもやられてたねぇ。あたしと違ってしろっこい腕。こんなにきれいな腕が赤くなっちまって。その猫は仔猫かい?」
長谷川さんは、覚えていない事もあるが、覚えている事もある。私の腕の事なんて忘れてしまえばいいのに。
心の中で誰かに助けてもらいたいと、叫んでいる。だけど、優しいものから逃げたかったり、壊したくなったり、する。
「かわいい、仔猫で」
虚しい嘘。嘘をつくのは、もう慣れた。
「しつけが大事だね。猫には、ちゃんと教えてあげないと、ガリガリしちゃうからね」
『ピンポーン、ピンポーン』
『ピンポーン、ピンポーン』
『ピンポーン、ピンポーン』
「長谷川さん、ごめんなさい、コールが鳴ってるから、また後でお話ししましょう」
小走りでトイレへ向かう途中、おしゃべりをしている介護職員や、給湯室で大きな水音を立ててコップ洗いをしている介護職員が横目に映った。何度もコールは鳴っている。今、大事な事はなんだろう?
「武雄さん、おまたせしました。ごめんなさい。遅れちゃって」
鈴木武雄、86歳。トイレにクタッと座っていた。ズボンの上げ下ろしが1人では難しく、トイレから車椅子の乗り降りに見守りが必要だった。ジッと1人で待っていた。
「おれは、待ちくたびれた。でも、いつもの何倍もはぇー。ハエだけにはぇー」
武雄さんは、ニヤッと笑った。
「ごめんなさい。武雄さん今から立って、ズボンを履きますよ。ここの手すりを持ってくださいね」
入社して数ヶ月経った。過労と言われるくらい身を粉にして働いている。ここの現場で私は、社会福祉士として求められず、介護職員として求められている。
新人は指導係が付くのが基本だけど、社会福祉士の私には指導係が付いていない。社会福祉士の先輩は生活相談員の仕事をしているし、聞けば介護の事は介護に聞いてと、言う。介護職員に聞けば、社会福祉士でしょ? と、介護の仕事なんて教えてくれない。もしも、私が事故を起こしたら誰が責任を取ってくれるだろうか?
「はい、手すりを持ってください。立ちますよ」
介助する時は、いつも怖い。転倒させないように、丁寧に。どの施設も最初の3ヶ月〜1年は指導係が付くと聞いている。私には付いていない。私に付く時間もないし、人手もない。
「あっ!おぉ」
武雄さんの大きな声、慌てて腰を抑える。武雄さんが、少しふらついた。ヒャッとする。少しのふらつきでさえ怖い。ズボンをはかせ、車椅子に移動させる。
「ごめんなさい」
こんなふらつきは、ちょっとの事。介護の現場でよくある事。でも、私にはダメージがでかい。何かあったらと思うと新人の私には怖い。心がまた削られる。
「大丈夫、大丈夫。俺がクラっとしただけだ。あんた謝ることねぇーだろ。謝る人に介護されると、こっちも不安になるだろ。あんたは、謝んな」
なんとか武雄さんとトイレを出た後も不倫特集はやっていた。
「不倫はいけねぇーよ。おれは、かぁちゃん一筋だ。なぁかぁちゃん」
武雄さんは冗談めいて私に言う。
「武雄さん私は、かぁちゃんじゃないです。及川ですよ」
「おぉ、ごめん。おめぇかあちゃんじゃねーのか? そうだったかぁ。かぁちゃんの若い頃にそっくりだなぁ。俺はかぁちゃんでつまみが食えるんだ。確かによーく見るとかぁちゃんに負けるなぁ」
武雄さんは、浜のある所出身だから、言葉が豪快で強い時がある。
「かぁちゃんの尻は最高だった。おめぇの尻はどうだ? きっとかぁちゃんに負けるなぁ」
武雄さんは、わるびれもなく言う。今の時代、こんな事言ったら大騒ぎだ。
けど、羨ましい。
「武雄さんは、浮気したことありますか?」
「ねぇーよ。好きで、好きでたまねぇのは、かぁちゃん1人だ。俺はかぁちゃんを他の男から奪って結婚したんだ」
「武雄さんは、幸せですね」
「そうだろぉ。おめぇさんは、まだ若い。おめぇさんだって恋愛してんべ?」
「それなりには」
「あんだやぁ。恋愛しねぇーともったいねぇ。しわしわしてから恋愛しても面白くねぇだ」
中野は、年を取っても私をずっと好きなのだろうか。中野の気持は伝わってくる。応えたい、応えられない。わがままで身勝手な私。
私は、どんどん穢れていく気がする。中野の真っ直ぐな気持ちで触れられるとその穢が取れていく気がした。同時に苦しさも湧いてきて、こんな汚い私から離れてって思う。どんなに酷い事して、酷い私を見せたって中野は私を嫌いにはなってくれない。
武雄さんみたく1人の人を真っ直ぐに愛せたなら、良かった。
人を傷つけている。分かってる。見たくなくて蓋をしている。誰でも良かった訳じゃない。中野だから、中野とだからこうなった。
答えは単純なはずなのに、ぐるぐる
現実と理想は、いつだって遠い。初めから中野と一緒だったら苦しまなかったのかな? 奏人といる覚悟がなかったのかな?
携帯がポケットの中で震えている。誰だろうか。何度も、震える携帯。
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