ある夫婦の決断

広晴

夫の決断、妻の決断


「順子、僕と別れて欲しい」


「……え?」


 彼女には割と珍しい、虚を突かれた妻の顔。

 結婚から5年が過ぎた今も、可愛らしいと思う。

 彼女の顔を真っすぐに見つめ、胸の痛みを堪えつつ、僕の言葉が彼女に浸透するのを待つ。


「……悟志、どうして? 他に、好きな人が、できた……?」


「いいや」


「何か嫌なことがあった? 私が何かをあなたにした?」


「いいや。君に落ち度は何もない」


「じゃあ! ……どうして? どうして、そんなことを言うの?」


 少し目が潤んでいる。

 こんな彼女を見ているのは辛い。

 早く僕のことは忘れて欲しい。


「……僕は、あることをしようと決めた。それをすれば君に大きな迷惑が掛かる。そして僕は君を支えることもできなくなる。だから……」


「何をするの」


 彼女の瞳が強い光を湛えて僕を見つめている。

 こうなった彼女は、手強い。


「……」


「教えて。教えてくれないと決められない。納得できない」


「教えれば君は僕を止める。だから何も訊かずに別れてくれ」


「イヤよ」


 僕たちは睨みあう。

 ……先に目を反らしたのは僕だった。

 元より、非は僕にある。渋々、理由を説明する。


「……人を、殺そうと思っている」


「……誰を?」


「……足利」


「貴方の上司の?」


「うん」


 順子の顔がしかめられる。

 足利と順子の接点なんて結婚式に呼んだときだけだが、『目線がいやらしくて嫌い』と言っていたのを思い出す。


「どうして?」


「それは、言いたくない」


「じゃあ、別れない」


「……」


「私はあなたの妻です。あなたが簡単な気持ちでそうしようとしてるなんて思わない。相応の何かがあったんだと思う」


「……」


「……あなたを手伝うわ」


「……は?」


「あなたが足利さんを殺すのを手伝う。だから理由を教えて。あなたと一緒に、私も怒るから。憎むから」




◆◆◆



 部下の狭間悟志が気に入らない。

 人の良さそうなツラが気に入らない。

 俺より早く仕事を終わらせるのが気に入らない。

 若い女性社員と仲がいいのも気に入らない。

 綺麗な嫁が居るのも気に入らない。


 だから、狭間に仕事を押し付けた。

 仕事が早いのがご自慢なら、その分やってみろ。

 「期待しているからだ」なんてリップサービスで上手に奴は踊った。

 俺がやる分も、他の部下に回す分も、些細な雑用も回してやった。

 それらを何とかこなしやがるので、あいつの仕事のすべてを否定してやった。

 細かく粗探しをして、ミスが無ければ屁理屈と捏造でミスを作った。

 早いだけでは駄目、間に合うだけでは駄目なのだ、厳しいことを言うのは期待しているからだ、などと言いながら。

 他の社員に見られれば何をチクられるか分からなかったので、面子もあるだろうという理由で、個別に呼び出して話したときは、特にきつく言ってやった。


 そうしていると狭間に押し付けた仕事が遅れ始めた。

 会社は残業に厳しくなっているので、『仕方なく』手伝ってやったり分担してやったりした。

 あからさまに『失望した』という雰囲気を漂わせて。

 あいつに割り振った仕事が終わらせられず、『仕方なく』そのとばっちりで他の奴に仕事を回した体にしてやると、ゆっくりとだが面白いくらいに人望を失っていき、表情が硬くなっていった。

 たまらなく愉快だった。


 だから、女性社員との不倫疑惑をでっちあげた。

 総務のセクハラ・モラハラ相談受付のババアに、ありもしない狭間の不倫の疑いについて相談した。

 相手ははっきり分からないが、という前置きをして、業務中に席を離れる時間が長い、一部の女性社員との距離が近いように見える、等とでっちあげて不安を訴えた。倉庫整理や業務指導など、どちらも俺が指示した業務上の必要があってのことだが(笑)

 しばらくして、あいつは総務に呼び出されて何か言われたようだった。

 それからあいつは女性社員全般と距離を置くようになり、それに気付いた女性社員たちからも距離を取られて、互いによそよそしい雰囲気になっていった。


 こうなれば、もうあいつ自身に流れを覆すのは難しい。

 あいつが何か喚いたところで、全てに対する俺の言い分は整っている。

 いざとなったら『一部の判断の誤りや勘違い』を『寛容に』認めてやればいい。それで手打ちになる。

 それが分かっているからか、あいつも何も言わない。

 まったく、最高にいい気分だ。


 だから、狭間の嫁に不倫疑惑を吹き込むことにした。

 あいつの緊急連絡先の一つが、あいつの嫁の携帯だったのでそこに連絡し、会社の風紀に関わること、として総務に吹き込んだ嘘をそのまま伝え、心当たりがないかと訊ねてやった。

 だがこれは最初、上手くいかなかった。

 「夫はそんなことをしません」と冷たく電話を切られた。

 うちの嫁と娘なら間違いなく信じて問い詰められるだろう。

 イラついたが仕方がない。

 狭間から提出された報告書の粗探しをして、荒れる内心を宥めることにした。


 それからもミスを作っては狭間に擦り付け、皆の前で罵倒にならないようにミスを指摘し、これ見よがしにため息をつけば、少しずつ周囲から孤立していく。気の毒そうにする奴もいるが、表立っては誰も何も言わない。

 出社してくる狭間の顔から徐々に表情が抜け落ちていっているのを見て、内心おおいに楽しんでいた頃。

 狭間の嫁から電話があった。


「突然のお電話申し訳ございません。そちらでお世話になっている狭間の妻です。そちら足利さんのお電話でしょうか? ……良かった。実は、その、ご相談したいことがありまして。……以前ご連絡いただいた、その、夫の、狭間の、不倫について」


 ……面白くなってきた。

 浮き立ち、はやる心を抑えながら、電話を持って人気のない個室へ移動し、後日、狭間の妻と会って相談する約束を取り付ける。

 まったく、面白くなってきた。


 会う場所は互いに既婚であることを勘案したと説明して、業務後に個室のある喫茶店を指定した。

 あいつの結婚式以来、数年ぶりに見た狭間の嫁は、愛らしく、美しかった。

 狭間の妻は、夫には予め数日前から、友人と会いに行くと説明して出てきたらしい。

 

「最近、夫の帰りが遅いんです。心配だったので田口さんの奥さんにそれとなく訪ねてみたら、田口さんはずっと定時だって言うので、だんだん不安になってきまして……」


 仕事帰りに1人で飲みに行ってでもいやがるのか、あいつ?

 さぞストレスが溜まっているんだろうな。ふん、好都合だ。


 狭間の妻の不安から来る愚痴を聞き流し、適当に相槌を打つ。

 決定的な証拠などは無いことを伝え、夫を信じてあげて下さい、と心にもない言葉を放ち、ですが、と言葉を接ぐ。

 総務から呼び出されて叱責を受けていたという『事実』を話すと、狭間の妻は顔を俯け、肩を震わせた。

 ああ、楽しい。


 その日はそれで切り上げたが、それからも少しずつ、焦らず連絡を取り合って『うちの部署に残業や出張はほぼ無い』という事実や『女性社員との距離感がやや近いように見える』という『主観的な一意見』などを織り交ぜ、『形にならない不穏さ』を少しずつ吹き込む。

 履歴を残さないため、やり取りは電話をメインで行い、時折は直接会って話して好感度を稼いでいたが、ある日の電話で。


「興信所に依頼したら、クロでした」


 スマホから聞こえてきた狭間の妻の声は、震えていた。


「足利さん、会って、ご相談させてください」


 狭間の奴、本当に浮気してやがったのか!

 ストレス発散のためにどこかの女に逃げたか?

 バカな奴。お前の可愛い嫁は俺が頂いてやるよ!


 弾む気持ちを抑えて、狭間の妻が待っているという個室のある居酒屋へ出向き、酒を楽しみながら、俯いて言葉少なに語る狭間の妻の話を聞く。

 表情はよく見えず、言葉に抑揚も無いが、それは電話でもいつものことだ。

 どうやらもう夫への思いは冷めたらしい。

 言葉数の割に早いペースで飲み進める狭間の妻。

 店から出た後、ふらつく狭間の妻に肩を貸す。

 柔らかい感触に興奮が高まる。


「今日からもう家には帰りません……。もうホテルの部屋を取っていて、しばらくそちらで暮らすつもりです」


 俯いて俺のスーツを摘まむ狭間の妻は、ひどく愛らしかった。

 俺はにやける顔を必死で引き締めて、タクシーを止め、2人で乗り込んだ。



◆◆◆



 俺は安いビジネスホテルよりは広めの一室で、バスローブ1枚で狭間夫婦に土下座させられていた。

 目の前には並んで立ち、俺を見下ろす狭間夫婦。


「不服そうなツラだな足利。やはりこの写真をお前の奥さんに送るべきだな。そうしたら、離婚の上、慰謝料請求されるだろうな? 総務にも、うちの部署の連中にも送った方がいいな?」


 俺の額に汗が滲むのを自覚する。

 狭間が手にしたスマホには、風呂上がりでバスローブ姿の俺が、狭間の妻に覆いかぶさろうとしている写真が納められている。

 狭間の妻に乞われて風呂に先に入り、風呂から出てベッドに向かったら、突然部屋に入ってきた狭間に写真を撮られたのだ。初めから2人の名前で予約し、予め2人分のカードキーを受け取っていたらしい。


 確認しろと言って俺のスマホに送られたその写真には、突然入ってきた狭間に驚いてそちらを見たため、俺の顔がはっきり写っていて、狭間の妻の顔は背けられていて分からない。

 その写真だけ見れば、女の側は俺を拒絶しているようにも見える。

 また、何故か追加で送られてきた写真は、酔った女に肩を貸してタクシーに乗り込むシーンや、以前相談に乗っていたときの、ファミレスで女と食事するシーンが写されていた。そのどれにも、俺の顔ははっきり写っているのに、女の顔は狙ったように写っていない。

 俺は、狭間夫婦に嵌められたのだ。


「す、すまなかった」


「口先の謝罪だけで納めるとでも?」


 クソ、狭間の分際で調子に乗りやがって!

 だが、少なくとも今だけは下手に出ないとまずい。

 あの機種は、写真が勝手にクラウドに上がるような設定が出来たはずだ。今、短絡的に暴れて奴の携帯を壊しても無駄な可能性がある。


「……どうすればいいんだ?」


 土下座したまま床を睨み、表情を見られないようにする。

 クソがッ!


「うちの部署全員が参加している出欠報告用のSNSに、自分が今までしたことを洗いざらい白状しろ。今すぐ」


「それと会社を辞めるか、それが嫌なら異動願を会社に出しなさい。私たち夫婦の前から消えて」


 次々に浴びせられる狭間夫婦からの言葉。

 なんだそりゃ!

 そんなことをしたら……!

 思わず俺は顔を上げて叫ぶ。


「そ、そんなことをしたら、家族になんて言えばいい?! それにいずれはうちの連中から会社にもバレる。結局、俺は破滅じゃないか!」


 俺を見下しながら、鼻で笑って狭間が答える。


「今の自分の立場をよく考えて物を言え、無能。この写真を今すぐご家族と会社に送れば、問答無用で即、破滅だ。会社に睨まれて退職に追い込まれ、離婚されて慰謝料を請求されるのと、部署の連中から白い目で見られるが、まだ何とか言い訳の余地があって、自分で進退を決められるのと、どちらがいいか、自分で選べ。ゲス」


「まだ自分は無傷でいられると思っているのね。私たちがそんなの許すわけないじゃない。良心の呵責に耐え兼ね、自白したっていう形にした方が、同じゲスでも多少は有利じゃない? 私たちはね、どういう形であれ、貴方に居なくなって欲しいの。意味分かる?」


 狭間夫婦が冷たく俺に言い放つ。

 俺の中でこの理不尽な要求に対する怒りが急激に弾ける。


「……もしその写真をばら撒いたら、写ってる女はお前の嫁だとバラしてやる! 道連れだ、バカが!」


 叫んだ俺に、狭間は顔色一つ動かさず。

 ゆっくりと口を動かした。


「……元々は、会社でお前を殺すつもりだったんだよ。朝一、皆の前で、滅多刺しにしてな」


「なっ……」


 殺す? たったあれだけのことで? たかが社内で孤立させてやっただけじゃないか!


「悟志、こいつやっぱり自分が悪いとは欠片も思っていないわ。約束通り、もういいわよ。初めから覚悟は決まってるもの」


「ああ、ありがとう順子。……僕がまだお前を殺していないのは、妻に止められたからだ。お前如きのために僕たち夫婦の未来が壊されるのは嫌だとな」


 挟間が、ポケットから金属製の、伸縮式の警棒を取り出して長く伸ばした。

 いつの間にか、狭間の妻も手に包丁を握っている。


「だけど、僕は、今でもお前を殺したい。お前側の理由なんて知らない。ただただ、すまし顔で俺を追い詰めたお前が憎い。お前と話している今も、正直、怒りで気が狂いそうなんだ。だから条件を付けた。順子と話し合った中で、自棄になったお前が報復のために、順子を巻き込んで騒ぐかもしれないとは考えていた。この場でお前が開き直ることも、想定していた。だが、その時は」


 狭間が手にした警棒を素振りする。

 ブンッ、という重そうな音が鳴る。


「僕は喜んでお前を殺す。お前がそれを選んだら、その時はもう殺して良いと、妻と話し合って許可を貰った。お前がこの場を誤魔化して後で逃げても、いつまでも、どこまでも追いかけて殺す。何度でもいうが、僕はお前を殺したくてたまらない。だから正直、お前がどれを選んでも構わないんだが……さっきの発言は、お前が『そうすると決めた』と受け取って構わないよな?」


 こいつ笑ってる。心底、嬉しそうに。

 狭間の手の中の重そうな警棒の、グリップエンドに付いた紐が、チャリ、と鳴って先端が俺の方を向く。


「私の夫を追い詰めた貴方が憎い。貴方がつまらない真似をしなければ、悟志がこんな決断をせずに済んだ。お前は死ね」


 狭間の妻は無表情のまま、包丁を構えて腰を落とす。

 もし、この不利な体勢から狭間の警棒を躱すことができても、狭間の妻に刺される、と気付く。

 ……こいつらは、そもそもの初めから『そのつもり』で準備していたんだ……!


「そ、そんなことをしたら、お前らも捕まって……」


「バカが。だから、初めから僕はお前を殺すつもりだと言ってる。順子の罪は僕が被る」


「私はゴミが居なくなって綺麗になった外の世界で、悟志が何年かして出てくるのを待つわ。いくらでも待てるけど、貴方のしたことを証言すれば、情状酌量の余地ありとして、多少は刑は短縮されるでしょう」


 意味が分からない。

 2人とも、目も、表情も、口調も、完全に本気だ。

 ギラギラ光る眼と、嗤う口元から覗く歯の白さがやたらと目に付く。

 こいつらは、本気で俺を殺したがっている。

 それで世界が綺麗になると、本気で信じている……!


 足が震える。

 もう分かった。やっと分かった。これは無理だ。避けられない。逃げられない。

 さっき何気なく言われた、狭間の妻の言葉が不意に蘇る。


『私たちはね、どういう形であれ、貴方に居なくなって欲しいの。意味分かる?』


『お前は死ね』


 俺の全身はいつの間にか冷たい汗でびっしょりだ。

 口の中が恐怖で乾いているのに、思わず、声が漏れる。


「……狂ってる」


「ああ、おかげさまでな。もういいか?」


 狭間は驚くほど楽しそうに、晴れ晴れと笑う。

 やっと殺せる、と聞こえてきそうな、場違いな明るい笑顔だ。

 ああ、そうか……俺は一時の憂さ晴らしのために、狭間を追い詰め過ぎたのだ。

 今でも『たかがあれだけで』『馬鹿げてる』と思うが、絶対に今の、本気のこいつらの前では言えない。


「ま、待て、いや待……ってください。わ、分かり……ました。SNS……します」


 舌が乾いた口の中で張り付いていたが、奴らに動き出される前に、必死で声を出した。

 俺は、顔をしかめて、忌々しそうに舌打ちをした狭間に睨まれながら、震える手でスマホを操作した。



◆◆◆



 足利は僕たちの前から消えた。

 あのSNSへの書き込みをした翌日以降、二度と出社してこなかった。

 社には電話で『一身上の都合で』退社したい旨が伝えられたらしく、後日郵送でのやり取りで正式に退社したそうだ。

 その後のことは知らないし、二度と僕たちが足利に会うことは無かった。

 唯一、順子が同僚の奥さんから『ショッピングモールで足利の奥さんと娘さんが、足利ではない男性と楽しそうに買い物しているのを見た』と聞いたらしいが。

 奴に関わる情報は、それで終わりだ。


 うちの部署の連中は、それらの事に対して、ほとんど誰も何も言わなかった。

 SNSに書き込みを送った直後は足利に対して、コメント返信、直電の両方で、質問、罵声、等々様々な反応があったが、僕の目の前でそれらに対応せざるを得なかった足利によって、過不足なく事実が説明された。

 僕への直電は無視し、コメントはすべて既読スルーした。


 その後、数人が僕に対して謝罪してきたので、それには「構わない」と答えておいた。

 それでも、どうしてもぎこちなさは消えなかったが、僕にもあまり歩み寄りする気が無く、1年後には僕を含めた全員が異動したりしてバラバラの部署になった。

 僕が総務の相談受付に、件のSNSでの足利の自白とその後のやり取りを見せて『この環境では働きにくい』と訴えておいたからだろう。

 総務部長からも、対応の誤りについて、謝罪を受け取った。

 そこまで行ってようやく、僕の周囲の社内でのごたごたは落ち着いた。



◆◆◆



「……あのとき、殺すのを手伝うと言っておきながら、殺させてあげなくて、ごめんなさい」


 ある映画を2人で、ソファーにもたれて見ながら、順子が不意にそう言った。

 順子の目線は画面に向かったままだ。

 見てた映画は小人の女の子が主役のアニメだ。その子が人間の家に住み着いて、ちょっとしたものを泥棒して『借りる』と言い張ってる、ぜんぜん殺伐としてないやつ。

 順子が見たことないって言うから、配信サービスで見ることにしたんだけど、どういう脈絡で前述の話をしだしたのかはまったく分からない。


「……ううん、いいんだ。最後に油断したあいつを、一発は殴ってやったしね」


 順子のそういう脈絡の無さにはもう慣れてるので、僕もすぐに切り替えて、映画を見ながら真面目に答える。


「それに、本当は僕にも分かっていたんだ。逃げるべきだったって。僕が会社を辞めるなり、異動願を出すなりすれば丸く収まるって。さんざん悩んだけど、でもあのときの僕には、それが許せなかった。僕を貶めて陰で嗤うあいつを、どうしても、許せなかったんだ」


「うん」


「今なら分かるけど、やっぱり僕は、ストレスでおかしくなってたんだと思う。はっきり言って、命のやり取りをするような話じゃなかった。それで、順子にもずいぶん嫌な思いをさせたし、要らない覚悟もさせた。……本当にごめん。謝って、済むことじゃないけど」


 隣に座ってた順子がゆっくりと僕に抱き着いてきた。

 ほっぺたにキスされ、耳たぶを噛まれる。


「うん。大好き」


「……なんか、さっきの僕の話に対する返事じゃないっぽいけど」


 言いながら順子の方を見ると、順子も僕を柔らかく笑いながら見つめていた。


「ううん、合ってるよ。ただ、いくつか話を端折っただけ」


 ついばむように、唇にキスされる。


「……そっか、うん、僕も愛してる」


 僕からもキスしようとすると、顎を引いて、上目遣いに僕を見てくる順子。


「もう、別れるなんて言わない?」


「言わない。愛してる。結婚して」


 狂った僕を止めず、一緒に狂ってくれた彼女だから。


「ならよし! 私も愛してる! もっかい式上げる?」


「いいね」


 うん。彼女との式なら何回でも。





<終>

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ある夫婦の決断 広晴 @JouleGr

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