マリーは闇を恐れない
こばやしぺれこ
第1話
この大講堂に揃った新入生と在校生、教師たちの半分以上が死ぬまで、あと三十分もない。
という事実をマリーが『思い出した』のは、入学記念式典が開始される直前のことだった。
都合よくマリーの席は魔法科新入生席の後ろ側通路寄りであったため、近くの教師に「お花を摘みに」と告げるだけで式典会場を抜け出せた。
眩しい太陽が新緑の緑と咲き誇る花々の淡い色彩を照らす、学院の遊歩道。穏やかなレンガ道を、マリーは三つ編みのおさげ髪が乱れるのも構わず走った。
マリーこと、ローズマリー・オリーブはオリーブ男爵家の長女である。その家名が示す通り、オリーブの栽培が盛んな地方を治める貴族家の一員だ。土魔法使いの穏やかな父──オリーブ男爵と、水魔法使いの優しい母、お転婆な二人の妹がいる。
マリーが『思い出した』記憶には、そんな『キャラ』は存在しない。
この世界には広大な大陸がひとつきりしかない。ぽつぽつと存在する島は不安定な火山島で、人々が安定して長く暮らせるのは大陸だけ。
そんなマグマナス大陸の三分の一を占める大国家が、ここディアモンテ王国だ。豊富な資源と豊かな土地、魔法による高い技術を持ち、他国の侵略を今まで幾度も退けてきた。
神々の国を旅立ち数多の魔物を討ち倒した勇者ディアモンテと、女傑アレクサンドラが興した国だという伝説が残されている。
王国は百年以上平和を謳歌してきた。政治の腐敗は存在せず、魔物や他国に怯える必要もない。
それが今日、崩れ去る。
とあるゲームのオープニングとして。
マリーの知るシミュレーションRPGゲーム「ディアモンテの勇者たち」は、知る人ぞ知る傑作ゲームだ。
古いゲームにしては珍しく、三段階の難易度設定が存在し、ゲーム初心者から玄人まで幅広く楽しめる。またゲーム本編だけではなく、外伝小説や設定資料集が存在し、それらが織りなす膨大で詳細な設定とストーリーも魅力のひとつだ。
ゲームは戦闘パートとストーリーパートを交互に繰り返し進んでいく。
戦闘パートでは一定の広さのマップ上に敵と味方が配置され、チェスや将棋のようにターンごとにキャラクターを動かし、剣や魔法で戦う。
ストーリーパートにはメインイベントの他にサブイベントも存在し、メインイベントの進め方によっては選べなくなってしまうサブイベントも存在する。
それぞれのイベントでの選択により登場キャラクターの好感度が上下し、最終的に最も好感度の高かったキャラクターとのエンディングを迎えることができる。どの選択を取り、どのキャラクターとのエンディングを迎えるのか。全てのプレイヤーが悩む選択だろう。
そんな「ディアモンテの勇者たち」はゲーム自体に人気はあったものの、制作会社が倒産しクリエイターも散り散りとなり、権利関係が有耶無耶となってしまったため、続編や後継ゲーム機への移植が叶わない隠れた名作だ。
マリーの前世は、十近く年上の兄からこのゲームを借りた。当時すでに制作会社は倒産し、中古ですら値段があり得ないほどに高騰していた中、ゲームオタクの兄のコレクションから発見し拝み倒して借りたのだ。
当時、マリーの前世はとある男性声優にのめり込んでいた。彼のデビュー作がこのゲームだったのだ。彼の出番は数秒に満たなかったが、マリーは好きになった物事はとことん掘り下げたいタイプだ。動画サイトに転載された動画ではなく、本物を自分の目と耳で確かめたかった。
該当のシーンはオープニングムービーの一幕だった。言うなれば、そこでマリーの目的は済んでしまっていた。それでもマリーはゲームを進めた。
せっかく借りたのだから、というもったいない精神と、兄が熱く語るほどの物語がどれほどの感動を与えてくれるのだろう、という純粋な興味からだった。
そうしていつの間にか昼夜を忘れ遊び、登場キャラクター、モンスター、各地の街並み、剣と魔法が織り成すファンタジー世界にどんどん惹かれていった。兄がついでにと貸してくれた設定資料集や外伝小説も読み込み、気がつけばゲームそのものにどっぷりとハマっていた。
その中でもマリーが最も好意を抱いたのは、他ならぬ『推し』声優が声を当てていたキャラであった。
制服のローブを翻し、マリーは学舎を駆け抜けた。
マリーが突如『思い出した』記憶はマリーの存在を「ゲームに存在しないキャラクター」として根底から否定するようなものであったが、マリーはそれらを受け入れていた。テレビゲームや動画サイトなど、付随して『思い出された』技術が「現実離れ」しすぎていたせいもあるかもしれない。
存在しないと言われたとて、ローズマリー・オリーブはここにいて、自分で考えて、行動しているのだ。
前世のマリーと今のマリーの間に大きな思考の齟齬はない。好きなものがあり、守りたいものがあり、成し遂げたいことがある。もしかすれば、『思い出す』前から前世のマリーの記憶とやらはマリーの中に存在して、今のマリーの思考や行動に影響を与えていたのかもしれない。
兎にも角にも、悩む前にするべきことがある。
息を切らせ、足をもつれさせながらもマリーはついに目的地に辿り着いた。
ディアモンテ王立魔法学院の北西、その端の端に建つ、旧図書館だ。
そこは魔法学の実習にも使われる森の側で、鬱蒼と茂る木々が日差しを遮り真昼だというのに薄暗い。そこに建つ古びた洋館は物寂しく、今にも崩れそうな陰鬱な空気を醸し出していた。
マリーは汗だくの身を恥じるのも忘れ、正面の扉を叩いた。ノッカーといったものはつけられていないので、拳で直接。
そして声を張り上げ叫んだ。
「──イルモーブさま! ジョバンニ・イルモーブさま!」
序盤にいるモブ。それが、マリーの『推し声優』のデビュー作キャラであり、マリーの『推しキャラ』の名前であった。
ジョバンニ・イルモーブは不遇な存在だ。
ゲーム本編での出番はオープニングの数秒。セリフは一言と少し。ゲーム本編では名前は出されず、その来歴が少し語られるだけだ。
ジョバンニは、自身の孤独と世界に絶望し、旧図書館で闇の精霊王を召喚する。召喚した精霊王は彼に隷属することはなく、彼の身体を奪う。
そこでジョバンニの出番は終わる。つまりは、死ぬ。
正確には彼の身体は闇の精霊王の器として残り、彼の魂だけが失われる。
顕現した闇の精霊王は、明けない夜である『極夜』を発現し、闇の精霊たちによる魔物の狂乱を引き起こす。
狂乱した魔物たちの襲撃が起き、入学式典に揃っていた生徒や教師たちの多数が命を落とす。その最中に、新入生であったゲームの主人公は光魔法に覚醒する、という流れになっている。
つまり。ゲーム通りの流れがこの世界に起きているのならば、今まさにジョバンニは闇の精霊王を召喚しようとしている。
マリーはそれを止めようとしていた。
ジョバンニが『推し』であるから、と言うのももちろんあった。前世のマリーはジョバンニが闇の精霊王を召喚するに至った理由を知り、ひどく憤った。どうにか救われる道はなかったのか、と何時間も思考し、寝食を忘れたくらいだ。
もちろんそれだけではなかった。マリーにはローズマリー・オリーブとして生きた十五年と少しの人間関係がある。気のおけない友人もいる。もちろん家族のことも愛している。
魔物たちの狂乱が起これば彼ら彼女らも無事では済まない。『極夜』が起きれば作物は枯れ、家畜は病み、家族や領民は飢えと病に苦しむだろう。
そして前世のマリーも、ローズマリー・オリーブも、この世界を愛していた。多種多様な自然と文化。前世のマリーにとっては憧れだった魔法技術。確かに政治や倫理観は前世のマリーが知るものより遅れているかもしれないが、それはいつか変わっていくものだ。
マリーはこの世界が荒れ果て、人々が傷つくのを、望んではいない。
喉がひりつくほどに声を張り上げたおかげか、何度目かのノックで扉の内鍵が開かれる音がした。マリーは一歩下がり、息を整える。
「…………誰だ」
軋む扉の隙間から、白目ばかりがやけに目立つ黒檀の瞳がマリーを見据えていた。マリーはローブの裾を払い、貴族令嬢としての礼を取る。
「不躾な訪問をお許しください。どうしても、今、お目にかかりたかったのです」
「名乗れ」
「オリーブ男爵家が長女、ローズマリーにございます」
一拍、思考するような間があった。次いで落とされたのは呆れの覗く深いため息。
「何を聞いて来たのかは知らんが……僕に侯爵家の威光は無い。嫁入り先なら他をあたれ」
「いえ! 違いますそうじゃなくて」
許可も無いままにマリーは顔を上げていた。年上で格上の男性相手に取るべき態度ではない、と令嬢としてのマリーは知っている。そもそも訪問自体が失礼だ。ただ、礼儀だとか体裁だとかではなく、それ以上にマリーは必死だったのだ。
どうにかして、彼を止めなければならない。
彼を孤独にしてはいけない。
その思いがマリーを突き動かしている。
「私に闇魔法をお教えください!」
咄嗟に叫んだ言葉は、今にも閉じられそうな扉を止めるのに十分な威力を持っていたらしい。
白目の多い瞳が不躾にマリーを見下ろす。冷ややかな視線だが、マリーは屈さない。
こちらを見ているのであれば、言葉に聞く耳を持ってくれているということだ。
「……見たところ、おまえに闇魔法の素質は無い」
「それでも学ぶ意味はあります」
「使えぬ魔法を学ぶ意味があると?」
「『学びは恐れの霧を払い、知識は未知の闇を照らすランプ』になります」
黒檀の三白眼が四白眼になる程に見開かれた。
「……それは」
「はい。イルモーブさまの著作です」
マリーは、前世の記憶を思い出す前からジョバンニ・イルモーブを知っていた。
ジョバンニの生家であるイルモーブ侯爵家は歴とした王家の血筋だ。先先代の王弟が臣籍に下りイルモーブの姓を名乗った。
先先代の王弟──初代イルモーブ侯爵は優秀な魔法学者であった。王位継承権を持ちながらも政治には全く興味を持たず、魔法の研究と研鑽に血道を上げていた。それゆえ早々に臣籍へ降り、魔法の研究に専念することを選んだ。彼がいなければディアモンテ王国の魔法技術は百年遅れていたと言われている。
だが、初代イルモーブ侯爵の没後からイルモーブ侯爵家は斜陽となる。次代のイルモーブ侯爵は魔力に恵まれず、学問よりも賭博や色ごとにばかり耽っていた。そんな父親を見て育ったおかげか、今代のイルモーブ侯爵も初代侯爵の遺産を食い潰し、王国へ貢献することもなく。
イルモーブ侯爵家の威光は翳るばかりで、今代限りで侯爵の位を剥奪されるのでは、と社交界では噂になっている。
この世界の貴族の力関係は魔力の多少が大きく関わっている。かつて貴族は魔物を退け、他国との争いの先頭に立ち、自らの領地と領民を庇護する立場にあったからだ。必然、魔力が多ければそれだけ強い魔法使いであり、民と土地を守る力があるということになる。
貴族家の跡取りにもそれは適応され、長子であろうが魔力がなければ跡取りにはなれず、末子であろうが強大な魔力があれば家を継がせてもらえる。
ちなみにこの世界では貴族家の当主に男女の別は無い。マリーは長女であり魔力も豊富であることから、いずれオリーブ男爵家を継ぐ予定だ。
ジョバンニは、イルモーブ侯爵家の三男だ。上に二人の兄がいる。
三兄弟の中でも、むしろ今代のイルモーブ姓を持つ者の中でも、ジョバンニは一番強い魔力を持って生まれた。その上幼い頃から聡明で、魔法学にも精通しディアモンテ魔法学院でも常にトップの成績を取り続けていた。
それでもジョバンニはイルモーブ侯爵家で疎まれていた。
ジョバンニは、闇魔法使いであるからだ。
この世界の魔法は精霊の力を借りて行使される。
精霊は火、水、風、土の基本四属性。そして光と闇の上位二属性が存在している。魔力を持つものはこの六つの精霊のいずれかに愛される。それによって、その魔法使いが扱える属性が決まるのだ。
ほとんどの魔法使いは基本四属性のいずれかを扱う。上位二属性を扱える魔法使いは希少だ。
ディアモンテ王国では、勇者ディアモンテの血を引くディアモンテ王家の中にだけ光魔法を扱える者が生まれる。王家は王族のみが扱える光魔法を聖なるものとして特別視しており、その恩恵に預かる国民もそれに倣っている。
それゆえ、その対照にある闇魔法は邪悪なものとして忌み嫌われていた。
「──闇は、邪悪なものではありません。水や火と同じ、私たちの世界を構成する要素のひとつ」
「……光があれば闇がある。火が起これば風が起き、風が土を作り土が水を生むように」
「朝と夜、光と闇の繰り返しで時は進むのです」
マリーが諳んじた言葉をジョバンニが継ぎ、マリーがまたそれに応える。連歌めいたやり取りに誘い出されてか、気付けばジョバンニは古びた樫の扉からその姿を現していた。
癖の強い髪は夜闇から抜け出して来たかのように黒く、肌は色白を越えて幽鬼めいた青白さをしている。黒のジャケットと白のシャツ、それに合わせた漆黒のリボンタイは喪服めいた不吉な印象を与えてくる。
「信じるのか。僕の言葉を」
ジョバンニは長身で、マリーは彼の目を見て話すために精一杯上向かねばならなかった。陽の当たる場所に出てなお、長い前髪はジョバンニの目元に暗く影を落としている。古びた旧図書館と同じ、陰鬱な顔つき。
うねる前髪の隙間から覗く三白眼にはこちらを射殺すかのような鋭さがある。が、その虹彩には喜びの煌めきが僅かに灯っている。自身の理解者たり得る者へ向ける瞳には、年相応の幼さが垣間見えていた。
ジョバンニは今年十九歳になる。学院は昨年主席で卒業しており、今年からは学生ではなく魔法学の特別研究員として学院に在籍している。
ジョバンニが闇魔法についての本を書き上げたのは二年前──学院の二年生である十七歳の年のことになる。
ジョバンニは勉学の傍ら自身の扱う闇魔法がなぜ疎まれるのかを調べていた。そして知ったのだ。闇魔法は疎まれるべきものではない、と。
闇魔法の技術と知識は長い弾圧で少しずつ失われ、今はそのほとんどが一般には失われている。王家のように血筋の中に魔法使いを残す努力もされず、扱える者はジョバンニの他にいない。
ゆえに、想像だけが一人歩きし、余計に『悪しきもの』としての偏見が広まっているのだ。
闇魔法は悪しきものでは無い。ただの属性のひとつである。
それを広く知らしめるため、彼は本を書いた。いち学生の身分でありながら、侯爵家の支援もなく。
ジョバンニは闇魔法の地位向上を成し遂げ、その上で自身がイルモーブ侯爵家の家長になりたい、とは望んでいなかった。
ただただ知って欲しかったのだ。闇魔法は──自分は疎まれる存在ではない。それだけがジョバンニの願いだった。
だが彼の出版した本はごく少数しか売れず、闇魔法が疎まれたままなのは変わらず。彼は失意に暮れることとなる。
前世のマリーがジョバンニの願いを知ったのは、設定資料集を読み込む中でのことだった。
名声を欲した訳でも侯爵の地位を欲した訳でもない。ジョバンニはただ、自分を疎まずにいて欲しかっただけなのだ。たったそれだけを叶えるために、ジョバンニは一人で何年も努力を重ねていた。
モブであるがゆえに、彼の救いは無い。彼が絶望しなければ、ゲームは始まらないからだ。
前世のマリーは憤った。ゲームを好いていたからこそ憤って考えて、それでもどうしようもなかった。なぜなら全てはゲームの中で起きた出来事だからだ。マリーが介入できるのはゲームが始まってからで、ゲームで交流できる相手にしかマリーは影響を与えられない。
たった一人の理解者でもいたのならば、ジョバンニの救いになれたのかもしれない。
誰か一人でも、闇魔法を恐れずジョバンニの思想に理解を示せていたのなら。
ジョバンニは絶望せず、闇の精霊王は召喚されず、ディアモンテ王国は荒れ果てなかったのかもしれない。
今、マリーはゲームの世界にいる。主人公でもないモブではあるが、一人の人間として、この世界に直接介入できる形で存在している。
だからローズマリー・オリーブは旧図書館に来た。
ジョバンニを──この世界を、救えるのかもしれないから。
「私、ずっと不思議だったんです。妹たちは闇を恐れるけれど、私は真っ暗にしないと眠れないんです。
そもそもみんな夜が来ないと眠れないじゃないですか。ずっと明るいと眠れないじゃないですか。
作物だってずっと明るいままだと育たない。でもみんな夜を、闇を悪いものだって言うのが、不思議だったんです」
マリーは必死で思考していた。自分の考えを、自分の思いをジョバンニへ伝えるために。
全て嘘ではなかった。前世を思い出す前からずっと、マリーが思っていたことだった。
「イルモーブさまの著作で知ったんです。闇も世界の一部だって。それで納得できたんです」
マリーがジョバンニの著作を読んだのは一年ほど前のことになる。
この世界にも製紙技術はあり、製本も盛んではあるが、本はまだまだ高級品だ。本を所持できるのは貴族や豪商がほとんどで、家にある本の数で財を誇ったりもする。
そんな中オリーブ家は本を財としてではなく、知識として蓄積していた。魔法使いである父親と母親の方針だ。
マリーは両親に似て乱読家で、幼い頃から本はなんでも読んできた。子供向けの絵本や物語だけでなく、魔法学の本まで。
マリーの十三歳の誕生日に買い与えられたのが、ジョバンニの著作だったのだ。
闇魔法の本である、と初めからわかっていたのであれば、両親は与えなかったかもしれない。本に付けられたタイトルは「失われし魔法を求めて」というものであった。父親は物語だと思ったのかもしれない。
一ページ目からマリーは夢中になっていた。この本は自分の疑問に答えをくれる、と言う確信が持てたのだ。
正直に言えば薄ぼんやりとしか理解できない項目もあった。ジョバンニは闇魔法についてを噛み砕いて記してくれてはいたが、マリーには魔法学の知識が足りなかった。
元からマリーは王立魔法学院を目指していたが、その本を読み終えた時、それはより具体的な目標となっていた。
この本の著者に、闇魔法の詳細を尋ねたい。
魔法使いとして領地を治める両親に聞けば、もしかすればマリーの疑問や足りない知識を補えたかもしれない。マリーはそれをしなかった。
本に記されていたのが闇魔法についてだと知られれば、取り上げられるかもしれない。と言う恐れもあった。
何より、本人に尋ねられるのならばそれが一番近道だ、とマリーは思ったのだ。たった一人で疎まれている闇魔法の研究を続ける著者に、会ってみたかった。
だからローズマリー・オリーブは旧図書館に来た。
「お前は……一年生か」
尋ねるジョバンニの声音は初めに比べると幾分か柔らかくなっていた。
「はい、今年から通うことになりました」
「一年のうちは基礎講義が主だ。僕から闇魔法を学んだとして、単位にも実績にもならない」
「構いません。学べるのであれば」
ふ、とジョバンニは鼻先だけで笑う。皮肉げに見える表情だが、マリーには「笑う」と言う行為に慣れていないがゆえの不器用な仕草に見えた。
「一年からサボり癖をつけるのは良くないな」
「どっちもちゃんとやります!」
「僕は優しくない。……それでもよければ、いつでもここに来るといい」
「はい! よろしくお願いします!」
マリーは勢いよく頭を下げた。視界の端でおさげ髪が揺れる。お辞儀は丁寧に、と幾度もマリーに言い聞かせた母の声が脳裏をよぎるが、今のマリーはただただ胸がいっぱいで気にする余裕などなかった。
旧図書館の屋根の上で小鳥が鳴いた。
「ところでお前、入学式典はどうした」
「あ」
マリーが式典会場を抜け出してからどれくらいが経っていただろうか。どう短く見積もっても、式典がすでに始まってしまっているのは確実だ。
サボり癖をつけるな、と言われてすぐの失態である。闇の精霊王の召喚を止めるためには、どうしても今でなければダメだったのだ。などと言えるはずもなく。マリーは俯きローブの袖を握った。
「その……」
「今から行くか。僕も付き合おう」
ジョバンニはマリーが式典を抜け出してきたのを責めているわけではなかったようだ。そもそもジョバンニ自身も式典に参加していなかったのだ。
マリーを急かすのでも、自分だけが急ぐのでもなく。ジョバンニは散歩でもするかのような気軽な速度で歩き始める。
その柳の枝のような背中をマリーは追う。
追いつき並んだマリーの頭の位置はちょうどジョバンニの肩くらいであった。大きな人だ、とマリーは思う。それと同時、身長と比べて薄い体つきに対し危うい印象も抱いている。
ジョバンニが旧図書館から離れたのならば、闇の精霊王の召喚は成されない。──少なくとも今は。
マリーの行動によりゲームの展開が崩されたのだとしても、恐らくジョバンニは召喚の手筈を整えているはずだ。その気になれば今夜にでも召喚は成され、王国は荒れ果てる。
ジョバンニを絶望させてはいけない。
そのためならばなんでもしよう。そうマリーは決めた。
それは世界のためであり、ジョバンニのためであり、何よりもマリー自身のための決意であった。
マリーのこの選択は、後に何人もの運命を狂わせてしまったのだが、それでもローズマリー・オリーブはこの日の選択を後悔することはなかった。
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