第38話 心を打つのは、身体を打つよりはるかにむずかしい

 絵を、描きたかった。

 絵の、才が欲しかった。

 美しい絵が、描きたかった。

 美しい絵を描く、才が欲しかった。


 それがしは、真っ白なふすまの前でじっと正座していた。

 画想が、何も浮かばぬ。

 模写は、褒められた。

 写生も、褒められた。

 だだ、手本通りでつまらぬ、と言われた。


 蔦屋重三郎からは、風景を専門にしてはどうか、と言われた。

 ただ見たものをそのまま描く。

 近頃は伊勢参りなどの物見遊山が流行っている。

 しかし、実際に行けるものは少ない。

 見たままを描いてきて、旅の気分を味あわせてやれ、と。


 嫌だった。

 私が描きたいものは、そういうものではなかった。

 この世にはない美しいものを。

 この世のものとは思えぬ美しいものを。

 そういうものを、描きたかった。


 筆を置く。

 襖は真っ白なままだ。

 脇に目を落とす。

 大小の刀が置いてある。


 剣の才はあった。

 五つの道場で皆伝を得た。

 当家では師範代を務めている。

 江戸三剣士などとも呼ばれているらしい。


 そんな名声は要らなかった。

 欲しいものはそれではなかった。


 剣などつまらぬ。

 棒切れで人を打つだけだ。

 剣などつまらぬ。

 刀でものを斬るだけだ。


 そんなことは誰でもできる。

 できぬ方がどうかしている。

 剣の腕が褒めそやされるたび、白けた気持ちになった。

 決まったふうに身体を動かし、決まったふうに竹刀を振るう。

 たった、それだけのことなのに、と。


 絵は違う。

 一筆ごとに新奇でならねばならぬ。

 一筆ごとに創意を込めねばならぬ。

 猿真似で生まれるものでは人の心は打てぬ。

 心を打つのは、身体を打つよりはるかにむずかしい。


 ぼーん、と遠くで鐘が鳴った。


 床に散らばる画材を片付ける。

 絵筆も絵の具も高価なものばかりだ。

 剣術の指導で稼いだ金で買ったものだ。

 仙台藩、長岡藩、姫路藩、桑名藩、飯山藩、刈谷藩、松本藩――

 江戸詰めの大名たちの間では、それがしから剣を習うのが流行っているらしい。


 くだらぬ、くだらぬことだ。

 つまらぬ、つまらぬことだ。


「剣術などは、しょせんただの棒振り芸よ」


 ため息とともに、独り言が洩れる。


「征十郎よ、いま何と申した」


 背後から、声がかけられる。

 この声は、父上!?

 振り返ると、庭先に殺気をみなぎらせる男が立っていた。

 父上だ。

 額には赤黒く血管が浮かび上がっている。


 この家は絵の修業のために隠れて借りたもの。

 なぜこの場所が知れた?


「す、すみません坊っちゃん……お殿様から坊っちゃんはどこに行ったんだと尋ねられまして……」


 鬼気迫る表情の父上の後ろに、腰の曲がった老爺がいた。

 目の上は腫れ、唇は切れて血がこびりついている。

 ああ、弥吉か。きつく折檻されたのだろう。

 口止めはしていたが、弁当などの使いを頼んでいたのがよくなかった。

 悪いことをした。


「いま一度聞く。征十郎、いま何と申した」


 父上が土足のまま、画材を蹴り飛ばしながら上がってくる。

 絵の具が飛び散り、畳を汚す。

 体温が、すっと下がった気がした。

 心臓が、氷になった心持ちがした。


「剣術はただの棒振り芸と申しました」


 はっきりと答える。

 父上は激昂し、刀を抜き放つ。

 それがしの首筋に冷たい刃を当てる。


「これでも棒振り芸と申すか!」


 父上の誇りは剣だけだ。

 戦国から続いた流派を大事に守っている。

 長い、長い歴史の棒振り芸。

 猿が棒を持って振り回している様子を想像する。

 ふふ、なんとも滑稽ではないか。


「何を笑っておる! 江戸三剣士などと呼ばれてうぬぼれたか!」


 棒振り芸でうぬぼれるわけがないではないか。

 うぬぼれているのは父上の方だ。

 棒で叩くの、刀で斬るの、そんなのが上手くて何の自慢になるのか。


 突きつけられた刀の背に手を当てる。

 首の皮一枚を切らせながらそっと流す。

 ねじれた手首から柄を奪い、それを支点に一気に切り上げる。


 父上の身体から、どっと血が吹き出す。

 左腰から右肩にかけた逆袈裟だ。

 技の名は何と言ったか……無刀……思い出せぬ。

 棒振り芸などどうでもいい。


「ぼ、ぼ、ぼ、坊っちゃん……なんてことを……」


 弥吉が庭で腰を抜かしていた。

 こんな棒振り芸など、恐れることもあるまいに。

 父上に蹴散らされた画材を拾い集める。

 ああ、血で汚れてしまっている。

 あとで手入れをセねば。

 おっと、襖は無事か?

 襖は頼んでひと月、ふた月とかかるものだ。

 汚れてしまっていたらかなわん。


 襖を見たとき、それがしの身体は稲妻に打たれた。

 燃えるように真っ赤なおおとりが、そこに羽ばたいていた。

 逆巻く炎の渦から飛び立ったばかりの鳳だ。


「ああ……ああ……なんてこと……」


 両眼から涙があふれる。

 こんなことは生まれてはじめてだ。

 これが、それがしの描いた絵・・・・・・・・・だなんて。


「坊っちゃん、坊っちゃん! お気を確かに! 先ほどのご様子はあたくしも見ておりやした。手打ちにしようとしたのはお殿様。坊っちゃんはそれでやむなく――」


 顔を押さえて泣いている私の背を、弥吉がさすってくる。

 弥吉は忠義者だ。それがしが子どもの頃からずっと当家に仕えていた。

 せんべいを焼くのが得意で、よくおやつに作ってくれた。


 少し落ち着き、両手を顔から離す。

 襖の絵を睨む。

 冷静に見てみると、主題は素晴らしく描けているが、余白が目立ちすぎる。

 もう少し、描き込みたい・・・・・・


 刀を振るう。

 弥吉の首が床に落ちる。

 吹き出した血を刀で払う。

 飛沫が襖に飛ぶ。

 余白の中に、雁の群れが舞う。


 それがしは顎に手を当てて、それを見る。

 涙がぼろぼろとあふれてくる。

 襖を背負って、蔦屋重三郎の店へと走る。


 蔦屋重三郎は絵を見るなり、言った。


「いやはや……こりゃすごい……。化けましたね、旦那!」


 それがしは、江戸一番の売れっ子絵師となった。

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