花筏
海湖水
花筏
そよ風が心地よい。桜が城の堀に大量に咲いている。まるで雨のように咲き散る桜吹雪の中で、
あの時にはまだ、桜は生きていたのか。いまだに彼女が死んでしまったのが信じられない。この場所に来れば、もう十数年たったというのに、いまだに彼女の姿を、匂いを、声を思い出す。
彼女が消えてから、自分は別人のように変わってしまった。いや、違う。変わってなんかいない。元に戻っただけだ。彼女は傑の人生を狂わせてくれた。その狂気が消えてしまった、それだけだ。
ふと水面を見ると、傑の姿が映っていた。薄汚れたコートに、地味なTシャツ。傑の顔のひげは剃られておらず、髪も肩まで伸びきっている。
他人から見ればホームレスのような見た目。自分の見た目に関しては桜が死んでからなにも考えていなかった。まさかこんな姿になるとは、過去の自分は気づけただろうか?
桜に初めて会ったのもこの城の堀だった。昔のことも忘れることがあまりない、そんな自分の長所が今は憎らしかった。
大学から傑は歴史研究サークルに入った。理由としては、戦国武将などが好きだったから。特に、傑は城や合戦跡の専門だった。かつての名将たちがこの場で刀を振るったかと思うと、興奮が止まらなかった。医学部だったので忙しく、あまり城を見にいったりすることはできなかったが、それでもたまに見る城は、傑の心を躍らせてくれた。
春、新しく買ったTシャツに黒のズボンを着て、城の近くを歩いているときだった。堀の桜をカメラで撮っている少女がいた。カメラの画面を見ながら移動していた彼女は、傑にぶつかると尻もちをついた。
「大丈夫?」
傑が声をかけると、少女は恥ずかしそうに笑いながら立ち上がった。
「大丈夫です。少し桜に夢中になっちゃってて、ハハ…。」
短めの髪に高校の制服。この地域の高校生だろうか。よく見ると、学校用であろうバッグを背負っている。このバッグがかなり大きいから他の人に当たりやすいのだろう。まあ、周りを見ていないのが一番の原因だろうが…。
「周りをみて移動するんだよ。僕にぶつかるならいいけど、ほかの人にぶつかるとトラブルに巻き込まれるかもしれないし、君のカメラが壊れたら大変だ。」
「すみません、次からは気を付けます。お兄さん、優しいんですね!!」
少女がかけてきた言葉に傑は驚いた。今まで優しいといわれたことはほとんどなかった。だからこそ、初めて会った人に優しいといわれたことが傑にとってはうれしかった。
「じゃあ、写真撮るのがんばってね。」
傑は少し心を弾ませながらその場から去った。城の中に入ってみたいとおもっていたからだ。桜を横目に、なぜあの少女が学校に行っていないのかを少し疑問に思いつつも、傑は城の中へと入っていった。
城の中は過去の記憶と少し違っていた。あまり覚えていなかったということもあったのだろうが、一番の理由は改修工事が行われたことだろう。過去にすがっているままでは、いつか崩れてしまう。そのことは傑はよくわかっていた。過去にできたから、今でもできるはず。そんなことを何度も傑は繰り返してきた。
「俺も、変われたらな。」
傑は城の外に出て、少しあたりを歩いた後、そのまま駅へと向かった。明日からはまた大学での忙しい日々が始まる。それでも今日を糧として明日を過ごしていく。そんなことを考えているときだった。前方にあの時の少女がいた。彼女も帰ろうとしていたのだろう、切符を買うためか財布を取り出した。
その時、横から叫びながら男が走ってきた。手には包丁が握られているその男の目は正気ではなかった。その男の目線の先には、あの少女の姿があった。
「危ないっ!!」
気づけば傑は飛び出していた。少女に傑がぶつかったすぐ後に、傑は腹部に金属の塊が入っていくのを感じた。これがアドレナリンというやつだろうか、痛みはあまりなかった。傑は目の前の男が包丁を離すのと同時に、男を蹴りつけていた。
男はそのまま目の前から走り去った。腹部を見ると白のTシャツが真っ赤に染まり黒のズボンもびしょびしょだった。
「買ったばかりだったのに…な…。」
傑はそのまま地面に倒れこんだ。徐々に周りの声が小さくなっていくのを、傑はゆっくりと感じていた。
目を覚ますと傑は病室にいた。周りにはたくさんの機器があり、自分につながれている。その中にぽつんと置かれた椅子の上で、一人の少女が眠りこけていた。
「あの時の…。」
目の前の少女に怪我はなさそうだった。あのときに飛び出したことでこの少女は助かったのかと思うと、少しうれしくなった。
「ふわぁ~、あっ、おはようございます。目を覚まされたんですね。」
目の前の少女を見つめていると、少女は目を覚まし声をかけてきた。今の状況を見るに、入院したのだということを傑は気づいていた。
「俺はどれくらい寝ていたの?」
「傑さんは1日寝ていましたね。あっ、名前は看護師さんに教えてもらいました!!」
なるほど、1日も寝ていたのか。大学には連絡がいっているのだろうか?そんな疑問をいくつか少女にぶつけようと思うと、少女が先に口を開いた。
「大学には連絡を入れておきましたよ。遅くなりましたけど、私の名前は北畠桜です。これからよろしくお願いします。」
「『よろしく』って、どういうこと?」
「傑さんは今日からこの病院に入院するんです。」
傑はこの病院に入院するということはわかった(理由はわからなかった)。だが「よろしく」の意味がわからなかった。
「なんで『よろしく』なの?」
傑の質問に対して、桜はとてもわかりやすい理由で返してくれた。
「私もここに入院してるんです。学校にも今は行ってません。だからあの城のところにいたんですけど。」
なるほど、学校に行っていなかったのは、この病院に入院していたからか。そんなこと考えていると、続けざまに桜が口を開いた。
「それと、助けていただいてありがとうございます。私なんかのために…。」
桜の顔が暗くなった。ふと、自分の腹を見ると、包帯がぐるぐると巻かれていた。いまだにズキズキと痛む。
「まあ、無事でよかったよ。」
傑の口からは自然と本心が出ていた。一人の少女の命を守ることができたのだ。それだけでも誇りに思えることだった。
「それじゃあ、よろしく。桜さん。」
それから数ヶ月間、傑は病院で過ごし続けた。思っていたよりも傷は深く、すぐに治ることはなかった。
病院は自由にさせてくれたため、無事卒業できるほどの単位は取ることができた。入院した病院が駅に近く、大学に行きやすかったことも幸いした。
そして、自由な時間のほとんどを、傑は桜と過ごすのに使った。
「この問題は場合分けをして解くんだ。前の問題でやったからそれを見てみな。」
桜は数学が苦手だったので、よく教えてやった。もともと傑は人に教えるのが得意だったのもあって、桜に勉強を教えるのは楽しかった。
また、よく桜と色々なところに遊びに行った。桜の病気は重く、一人では出歩けなかったらしいが、医大生の傑が同行することで病院も許可を出した。
「こんなに近くでいいのか?もっと遠くの県に行こうとか…、別に俺は問題ないが。」
そんなことを聞くと、桜はいつもある言葉で返してきた。
「もったいないじゃん。」
あの時はあの言葉の意味がよくわかっていなかった。でも今ならわかる。
桜は傑が退院した数ヶ月月後に死亡した。
桜は17年の命を咲ききったのだった。
小さい頃から病気に悩まされ続けてきていたのか、桜の体はボロボロだった。それでも人前では笑顔で過ごして、他の人に不安を抱かせないようにしていたのだろう。
桜の死を聞いた時、傑は地面に崩れ落ちた。
桜とは退院した後も何度も会っていた。その時にはそんな病気のことなんて、顔にも出さなかったというのに。桜に会う時に変な見た目と思われないように、服を買ったりしていた自分がバカらしかった。
桜の葬式に出た時、桜の親から礼を言われた。一緒に過ごしてくれてありがとう、といった内容だった気がするが、傑はほとんど聞いていなかった。ただ、自分が愛おしく思っていた人間が目の前からいなくなってしまったことに絶望していた。
その後、傑は大学を中退し、仕事に就いた。中退したのが有名大学だったこともあり、就職先は運良く見つかった。会社の面接では、なぜ大学を中退したのかを聞かれたが、本当のことは言わずに嘘をついて乗り切った。桜が死んで自分の無力さを感じた、そんなことを言う気にはなれなかった。
気づけば何年も経っていた。会社の仕事を淡々とこなし、部下から尊敬されたとしても傑の心についた傷は治らないままだった。
傑は過去の自分に戻ったと思っている。かつての過去にしがみついて、何も得ることができない自分に。
目の前の桜はもう散りかけていた。舞っていた花びらたちは、堀に浮かんで自分の今の姿を隠してくれる。過去のことも未来のことも今だけは思わなくていい。
「ありがとう、桜。」
過去も未来もない。
ただ目の前に漠然とした現実があるだけ。
目の前の桜にもう花はなかった。
ふと後ろから名前を呼ばれた気がした傑は振り返った。後ろには咲ききった桜と城があるだけだった。
「じゃあな。また会おう。」
傑はそう呟くと、駅へと向かった。
また来年の春に出会えると信じて。
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