等身大

第1話

 数年振りに僕は、筆を執りたくなった。


 もうそんな気力は枯れ果てたものだと思っていたのに。


 ここ数年、飽きてきたんだろうと――ちまちまと文章を書き溜めてあれやこれやと自分勝手な意思表明をするのにも、僕は飽きてきたんだろうと思っていたのに。


 僕はこれまで創作をストレスの捌け口にしてきた節がある。

 是が非でも主張したい事や、蓄積した苦労話や、共感して欲しい苦悩や、ちょっと聞いて下さいよ奥さんくらいの小さな鬱憤。

 そういうのを書いてきた。


 けれど、もう大部分を吐き出し尽くしていた。

 そして、文字にしたいほどの話題性を見出せないものばかり残して、文字にしたい意欲も自分の中から徐々に薄れていった。


 ああ、けど、それにはポジティブな意味もあると思っていて、そりゃあ自分が結局は物書きにはなれない凡人だという事を認める一抹の悔しさみたいなものが残っちゃいるが、それでも前向きな諦めだった。

 幼き時代の片恋に見切りをつけるくらいの気持ちだ。


 その諦めを受け入れられるだけ僕は大人になっていた。いや、大人の外見に精神がやっと追い付いてきてくれた。


 過敏で痛々しいモラトリアム的な自分の心を、見て見ぬ振りが出来るくらいの大人。

 感じるべき怒りに似た反抗心を、どうどうと宥めて目の前の理不尽を受け流せるくらいの大人。


 それは僕が大人に――社会人になるための経験値をそれなりに順当に積めた事が大きい。

 理不尽や不平等に慣れるくらい浴びて、逃げないでいられたわけだから自分を褒めてやってもいい。


 自分含めて誰も完璧ではないし、日常の不公平さに苦笑いはしながらも、自分を許すように他人やそれらを許せた。まあ、若干は、そこそこは許してる方だと思う。


 だから執筆(と呼ぶには僕のそれは拙いし、小っ恥ずかしいが)からじわじわと後退して、若き日のささやかな思い出として小さな本棚の隅に仕舞ってしまおうか、とか思っていた。





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