第56話
夏樹はあれこれと考えて、結局秋子には最小限のことだけ、つまりほとんど内容の報告のようなかたち、いくつかの電報を読み上げるような、感情の失った調子で話した。夏樹にはもう事態に対する適切な感情がわからなかった。
「知ってたわ」
白すぎた自室の真ん中で秋子は言った。秋子はベージュの座布団の上に座っているが、ふだんとは違い、右腕を支えにしただらけた体勢、目がとろんとして、妙な情欲さがあった。その情欲さといえば、本来の秋子とは似つかない。夏樹はおもわずぎょっとした。
夏樹はもういちど丁寧にことの事情をつたえた。それでも秋子はただ新しい発見もなさそうに話者の顔を見つめるだけだった。夏樹はそのときはじめて事態を焦ることができた。秋子は蛹から人間が羽化するように、夏樹の予想だにしない変化を遂げようとした。秋子の情欲的な雰囲気は、ただの情欲さの現れではなかった。それはある決意の副産物ではないか。
察する、ということは得てして分析と対極にある、知性と離れた能力であるかもしれないが、しかし中々にどうして、分析の結果より的を得ることが多々ある。突飛な、論理の飛躍などで済まないアイデアが、見事な的中をもたらし、たとえば円満な恋人の片方が、もう片方の猫なで声に自分への退屈を感じたのならば、それは根拠がなくても当たっているように。
夏樹は何故だか秋子にも、いや秋子に会ってはじめて、この事態の死の匂いを嗅いだ。
夏樹は自らの察知が当たっていると信じることができなかったが、しかしその分、察知の分析に努めた。どうして自分はいまになって秋子が恐ろしく思えたのだろう。それは秋子が死ぬ恐怖なのではないか。いや実はそれだけでは足りなくて、ひょっとしたらその死に夏樹も巻き込まれるのではないかという恐怖ではないか。
『やっぱり僕は薄情だ』
夏樹は帰りの電車で疲れたサラリーマンらに押されながらそう結論づけた。結局その結論がいちばん甘美な響きで彼を癒すのである。
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