第55話
『エチカ』の電光の看板のすぐ下に、重厚な木戸の入口があった。夏樹が入るとすでに飯島は控え目な灯りの下、比較的端のほうの席に座っていた。夏樹はその正面に座るとき何も言わなかった。カウンターから白髭のたくましい老人がやってきて古びたメニュー表を置いた。艶やかな丸テーブルには飯島の頼んだアイスコーヒーが澄ました汗をかいていて、「おなじものを」と夏樹は注文した。
飯島は薄暗い店内で唯一眩さのあるステージに顔をむけていた。ステージにはピアノがあり、ドラムがあり、マイクセットがある。楽器らはスポットライトを浴び輝いたが、どれもうら寂しくしんとしている。ピアノの鍵盤蓋は閉じられ、さながら眠った大型犬のようである。飼い主の帰りを退屈に待つ大型犬。
「飯島くんは雪子さんのことが好きかい?」
呼び出した相手が一向に話をはじめないものだから、夏樹から切り出した。
飯島は間がややあって、
「ええ、好きです。とても」
と答えた。
「じゃあ君は雪子さんの心中に、いや仮に心中なんてするとして、その心中に付き合うのかい」
「わかりません」
「わかりませんって、もう明日明後日にはそうなる可能性もあるんじゃないの」
「いえそんなことはないと思います。……雪ちゃんは、たぶん僕が死ぬと決心したときに付き添う準備をしているだけで、あの人から死ぬなんて言い出しません」
「それじゃあ、いいじゃないか」
「そんなことありませんよ、むしろ逆なんです。あの人は心中が恋の最たるものだと考えているんです。それだから僕を好きになったんでしょう? 僕はあの当時死ぬことばかり考えてました。……僕も観念的だったんです。何かてきとうな死の理由を探して、生の重石を軽くするばかりだったんです。だからあの人は僕を好きになったんです。僕は死ぬことばかり考えていたから、その雰囲気を嗅ぎ取って、自分もそのなかに入り込めると思ったんですよ。しかしね、僕の死はあくまで娯楽なんです。ようやくそれが最近わかったんです。僕は実際的な問題としての死なんて扱えないんですよ。いやもし扱えたとしてもそれは一人分で、心中なんて無理なんです。そんなの、遊べる類のものじゃない」
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