第47話
雪子が新居で荷物をひろげていると、ふいにうっとりとした。飯島は実家を出て、市外の安アパートに居を構えた。雪子もいくらか敷金をだした。飯島はどこの部屋を借りるのか相談をしなかったが、いま雪子が見つめる情景は、いつぞやの夢で見た部屋とまったくおなじだった。
雪子はときおり目をつむり、夢の情景を思い浮かべ、その記憶どおりに物を配置した。本は棚を用いずに壁沿いに積み上げ、最小限に持ってきた服はカーテンレールに吊るした。飯島はその様子を始終見守っていたが、ついぞ何もいわなかった。
そうしてはじまった日々の生活は、さながら舞いの稽古のようだった。雪子は夢とおなじ素振り、おなじ振り付けをする。手本へ忠実に、香りや手先まで洗練させる。そうすると雪子はなぜだか日毎に綺麗になった気がした。悲劇に見合った、死の誘惑のある女優になった気がするのだ。
雪子は朝七時にアパートを出て出勤し、夜の七時に帰り着いた。帰り着いたとき、飯島は必ず部屋の隅に体育座りをしていた。雪子はそれを不気味とも奇怪とも思わない。雪子の身体にはすっかり悲劇が馴染んで、むしろご機嫌に「おかえり」なんて迎えるほうが、彼女にとっては不気味で、奇怪で、度し難いほどの不安になった。
ふたりは夕飯を食べ、そしてじめじめした会話のあと、ひとつの布団で眠った。飯島は雪子に身体を求めなかった。ただ雪子の胸に恋人の小さな、いまにもひび割れそうな頭が押し付けられる。雪子は頭を撫でた。そのたびに眠っている飯島は喘いだ。うう、ううん、と悪夢的な喘ぎだった。
『このひとは私がいなければどうなるのだろう。きっとこの悪夢のなかに閉じ込められるんじゃないかしら。真夜中の薔薇園のような悪夢。このひとは美しいものばかり目隠しされて、傷つき、しかもそれが世界の一部であることを知らない夢に生きるんだわ。このひとは苦しみを望んでいる。だから私が悲劇を演じることで、罰の香りを匂わせることで、ようやく目覚めることができるんだわ。彼は罰を望んでいる。私は彼の罰の場を整えることで彼とともにいれるんだわ』
雪子はそんなことを思った。
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