第39話
恋人の家で秋子を見たとき、時田はそれこそ稲妻に打たれたようであった。累積した思考がめちゃくちゃに荒らされるような麻痺。可愛らしく整った、誰でも愛し囁く小鳥のような秋子。
時田はこの感動をいっとき悔しがった。男であれば、いや男でなくとも、秋子に恋情をもつことは不思議でない。時田はそれが嫌だった。秋子の前だとこの逆張りの青年は、凡百に埋め込まれたのである。
時田は敗北を感じたことがなかった。それはどの事柄にも敗けたことがないわけではなくて、一重に相手の一等弱いところに勝負を仕掛け、逆に自らの敗けるところには手を出さない処世術にあった。彼からすればスポーツ選手にスポーツで挑むほうが馬鹿げていて、職人に建築で挑むのは時間の無駄だった。
しかし秋子を見たとき、時田は無理やり決闘場にあげられ、打ちのめされた。美というのはなんと剛腕なのだろう。こちらがつぶさに場所を替え武器を替えて勝ち上がってきたというのに、そんなのを無視して闘いを仕掛けてくる。まるで不良の戦い方。すくなくとも決闘士のそれではない。
『俺はもういちど敗けた。……それは認めよう。一度の敗北は一度の勝利で償うべきだ……。しかしどうしよう? 俺は天秤にかけられている。この恋に駆られて敗北のまま秋子をとるか、それとも秋子を捨てて勝利をとるか。いや、そのどちらもしよう。どっちでもいいだけの心づもりをしよう。そうだ、俺は今までそうやってきた……』
時田は観念に生きていた。それだから、彼は恋という実際的な、肉体的な問題も、観念というまな板に再び載せるしか仕方を知らない。
結局、時田は幾度かの秋子との会話のうち、あの平手打ちをくらった。時田は秋子を傷つけることができた。彼女が盲目的に親愛をかけた姉よりも、秋子自身が魅力的なのを彼女は信じられない。それは見立て通りではあったが、しかし空しかった。時田ははじめて勝利に空しさを感じた。
それからの時田は姉妹の影との闘いだった。秋子だけではない。雪子のことも時田の頭にはこびりついた。雪子は平手打ちの件から三日間別れを告げず、それどころか微笑みを浮かべていた。この微笑みを時田は解せていない。憎しみがまわった冷笑にも思えるし、同情のようにも思える。時田は会ううちにその笑みをされるのが怖くなり、いよいよ自分から別れを頼んだ。
時田の困惑は長かった。就職し、勤労し、そのうちに三人の女と付き合った。しかしどの恋愛も、彼の心を勝利に導かない。いやむしろ、キスをするときや身体を重ねるとき、姉妹の冷笑が、平手が思い浮かんだ。快感のない勝利。恐怖の敗北。……
『やはり俺は、もう一度あの姉妹と会わなければならない』
時田はそう決心すると、大学の知人の妹、美玖に手を出した。
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