第38話
時田は秋子の去ったあと、カウンターで注文し、食べ物を受け取って、またがらんとした四人掛けの席に座った。その様といえば、他の猛獣らとの競争に勝ったハイエナの食事に似ている。時田はトンカツを口にしながら、ときおり戦いの熾烈さ、そして自身の狡猾さと機転を思ってにやついた。
やがて美玖が来た。時田は彼女を見たとたん、また紳士的な表情に直した。
「ごめんなさいね、待った?」
「いいや、ちょうどさっきまで秋子さんたちといてね、暇しなかったよ」
「えっ、そうなの? どうだった? 久しぶりに話して」
「うん、あまり変わりはなかったね。でも色々と大変らしいよ」
「じゃあ楽しい話はできなかったのね」
「まあそうだね。むこうが諸々落着したら、また会うことにしよう」
そういって時田は自分の言にまた笑いそうになった。大変らしいよ! 時田はこういう、見方によればひどい皮肉になる言い方が好きだった。もちろん、自分がそれを言うに限って。
時田は何につけて、他人と違うことを好んでやった。たとえば幼少期、テレビに映った勧善懲悪もののヒーローを嫌い、公然とその悪役を賛辞した。彼は悪役が好きだった。しかしそれは心のうちから好きなのではなくて、悪役は悪役だから、みなが好まないから好きだった。もっといえば、みなが好きなものを胸の内で嫌悪し、ときおりそれを言って、また悪役を好む者がいれば、その悪役の残虐な部分を強調してふるい落とした。
時田は、自身の趣向、それもまっとうな趣向を否定された人間の、思いがけず傷ついた表情が好きだった。もしくは彼と同類の、異なることにプライドを持つ人間の裏切られた表情も好きである。人の趣向を否定するときの、あれこれと講釈したあとに「嫌い」と突き放す一言は、彼に快感を与えた。心臓が大きな槍となって、また別の心臓を貫く感覚。それは彼の根にある闘争本能を心地よく刺激した。
しかしこういうことの出来るのは、ある種の常識さというか、人間通なところが必要だった。それだから、時田はふだん友人もいて、冗談を交わす。時田はやたらと槍を放つことはしない。そんな野蛮なことをすれば相手がいなくなってしまう。それより、日常のふとした、相手のもっとも油断したときに何気のない感じで放つほうが快感も良い。時田は無罪の愉快犯だった。
しかし誤算であったのは、彼が秋子に惚れたことである。
時田が雪子と付き合ったのは、別に偽りの愛でもないが、しかし純然たるものともいえない。時田は国際経済学の講義で雪子と知り合った。
時田が気に入ったのは雪子の知性だった。奢りも謙遜もない冷徹な知性。グループディスカッションのとき雪子の言葉にはほとんど感情の揺らぎがない。時田はそれが気に入った。いや気に入るというより壊したくなった。この女が狂喜したり自失して涙を流したりするのを見たくなったのである。それは立派な壺に触れたとき、その粉砕を想うのと似ていた。
雪子と付き合うのは容易だった。あまりにも容易すぎて手ごたえがなく、ただ代り映えのない平地を歩いて目的地に着いたような感じである。時田は何度もロマンチックな演出をしかけたが、雪子からは何のこだまも返ってこなかった。それなのに、雪子は付き合おうといった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます